第2話 裏打ちの下にあった声
修復の最初の工程は、観察だ。
湊は三日をかけて、屏風の現状を記録した。
写真撮影、赤外線による下描きの確認、紫外線を当てての後補彩色の洗い出し。一つ一つを丁寧に記録していくのは、修復師としての習慣であると同時に、湊にとっては「対話」でもあった。
古いものは、急に問いかけても答えない。時間をかけて、静かに観察することで、少しずつ自分の過去を見せてくれる。
四日目に、湊は裏打ちの剥離にかかった。
屏風の表面の和紙には、長年にわたって補修の紙が重ねて貼られている。
これを丁寧に剥がし、本来の地紙の状態を確認する作業だ。
水分を含ませた綿棒で少しずつ糊を緩め、竹べらで紙の層を分けていく。
湊の手が、右下の隅に差し掛かったとき、違和感があった。
他の部分より、紙が厚い。
意図的に重ね貼りされている。
湊は丁寧に層を分けていった。一枚、また一枚と剥がれていくうちに、最も古い層の地紙に、何かが現れた。墨の染み、ではない。
文字だ。
細い筆で書かれた、古い仮名文字。
湊は照明を調整し、拡大鏡を当てた。かな文字は滲んでいたが、読めないほどではなかった。
「東風吹かば……」
声に出したとき、工房の空気が変わった、と湊は感じた。
気のせいかもしれない。しかし確かに、空気の密度が増したような、何かが息を詰めて聞き耳を立てているような、そんな感覚があった。
続きを読もうとして、湊の視界が一瞬、白くなった。
雪だ、と思った。
工房の壁が消えて、雪の降る夜が広がっていた。暗い空から、大粒の雪が静かに落ちてくる。地面は板張りで、廊下のようだった。
女が泣いていた。
白い衣を着た女が、男の袖を掴んでいた。男の装束は旅支度で、その背後には供の者たちが松明を持って並んでいる。
女の指が袖を離すまいと強く握り、男は振り返れないまま、ただ前を向いていた。
二人の間を、風が吹き抜けた。
その瞬間、空に白い光が走った。一筋の光が、夜空を東から西へと流れていった。光の後を追うように、梅の花びらが一枚、二枚と舞い上がり、暗闇に溶けていった。
女が顔を上げた。
その顔が、一花に似ていた。
「……っ」
湊は作業台に手をついた。拡大鏡が転がる音がした。
視界は戻っていた。工房の蛍光灯の光が、現実の輪郭を取り戻してくれる。
手が震えていた。
これほど強い「残留」を受けたのは、初めてだった。
その夜、湊は一花に電話した。
「調査中に、裏打ちの下から文字が見つかりました。和歌のようです」
電話の向こうで、一花が息を呑む気配があった。
「……何と書いてありましたか」
「『東風吹かば』まで確認できています。続きはもう少し調査が必要です」
沈黙。
「お伺いしてもいいですか」と一花が言った。
「今から、ではなくて……明日の朝、早い時間でも」
「構いません」
電話を切った後、湊はしばらくそのままでいた。
窓の外に街の灯りが見える。冬の空は澄んでいて、星が出ていた。
東風吹かば。
誰でも知っている歌の書き出しだった。菅原道真が都を離れる際に詠んだとされる、あの歌。
しかしこの屏風に書かれた字は、道真の自筆でも写しでもないだろう。
筆跡は女性的で、どこか祈りに似た力強さがある。
誰かが、屏風の裏に、その歌を書いた。
なぜ。
梅の香りが、また漂ってきた。
翌朝、一花は約束の時間より十五分早く工房に来た。
白いコートではなく、今日は紺色のウールのコートを着ていた。
しかし香りは変わらなかった。工房のドアを開いた瞬間、梅の気配が流れ込んでくる。
「昨夜、眠れなかったので」と一花は言った。謝りでもなく、言い訳でもなく、ただ事実として。
「僕もです」と湊は答えた。
屏風の前に並んで立つと、一花は右隻の松をじっと見た。
「祖母はいつも、この屏風を床の間に飾っていました。正月にも、お盆にも、ずっと。左が空白のまま、誰も気にしないふりをして」
「家訓は、誰から聞いたんですか」
「祖母から。でも祖母もその祖母から聞いた、と言っていたから、どこから始まったのかは……」
一花の言葉が止まった。
裏打ちの下から出た和歌を、湊は今日のために書き写しておいた。半紙に万年筆で。それを一花に差し出すと、一花は両手で受け取り、しばらく黙って見ていた。
「東風吹かば、にほひおこせよ梅の花……」
一花が小声で読み始めた瞬間、湊の視界にまた白い光が走った。
しかし今度は、フラッシュバックではなかった。
一花の目に、光が宿っていた。見開かれた目に、何か遠いものを見ている表情。
それは驚きや恐怖ではなく、ずっと忘れていたことを突然思い出したときの顔に、似ていた。
「……一花さん」
名前で呼ぶのは初めてだった。一花が顔を上げる。
「何か、見えましたか」
一花は少し迷ってから、頷いた。
「雪の夜でした。袖を、掴んでいた」
「男が、旅立つところですか」
一花の目が大きくなった。
「見たんですか、あなたも」
「昨日、この歌に触れたときに」
二人は、しばらく黙って向き合っていた。工房の外で、木の枝が風に揺れる音がした。
梅の香りは、今この瞬間が、一番濃かった。
どうでしたか?
感想、評価お願いします。
誤字があれば教えてください。
それでは。




