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松の屏風と梅  作者: 如月 愁


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2/5

第2話 裏打ちの下にあった声

 修復の最初の工程は、観察だ。

 湊は三日をかけて、屏風の現状を記録した。

写真撮影、赤外線による下描きの確認、紫外線を当てての後補彩色の洗い出し。一つ一つを丁寧に記録していくのは、修復師としての習慣であると同時に、湊にとっては「対話」でもあった。

 古いものは、急に問いかけても答えない。時間をかけて、静かに観察することで、少しずつ自分の過去を見せてくれる。

 四日目に、湊は裏打ちの剥離にかかった。

 屏風の表面の和紙には、長年にわたって補修の紙が重ねて貼られている。

これを丁寧に剥がし、本来の地紙の状態を確認する作業だ。

水分を含ませた綿棒で少しずつ糊を緩め、竹べらで紙の層を分けていく。

 湊の手が、右下の隅に差し掛かったとき、違和感があった。

 他の部分より、紙が厚い。

 意図的に重ね貼りされている。

 湊は丁寧に層を分けていった。一枚、また一枚と剥がれていくうちに、最も古い層の地紙に、何かが現れた。墨の染み、ではない。

 文字だ。

 細い筆で書かれた、古い仮名文字。

 湊は照明を調整し、拡大鏡を当てた。かな文字は滲んでいたが、読めないほどではなかった。

「東風吹かば……」

 声に出したとき、工房の空気が変わった、と湊は感じた。

 気のせいかもしれない。しかし確かに、空気の密度が増したような、何かが息を詰めて聞き耳を立てているような、そんな感覚があった。

 続きを読もうとして、湊の視界が一瞬、白くなった。

 雪だ、と思った。

 工房の壁が消えて、雪の降る夜が広がっていた。暗い空から、大粒の雪が静かに落ちてくる。地面は板張りで、廊下のようだった。

 女が泣いていた。

 白い衣を着た女が、男の袖を掴んでいた。男の装束は旅支度で、その背後には供の者たちが松明を持って並んでいる。

女の指が袖を離すまいと強く握り、男は振り返れないまま、ただ前を向いていた。

 二人の間を、風が吹き抜けた。

 その瞬間、空に白い光が走った。一筋の光が、夜空を東から西へと流れていった。光の後を追うように、梅の花びらが一枚、二枚と舞い上がり、暗闇に溶けていった。

 女が顔を上げた。

 その顔が、一花に似ていた。


「……っ」


 湊は作業台に手をついた。拡大鏡が転がる音がした。

視界は戻っていた。工房の蛍光灯の光が、現実の輪郭を取り戻してくれる。

 手が震えていた。

 これほど強い「残留」を受けたのは、初めてだった。


 その夜、湊は一花に電話した。


「調査中に、裏打ちの下から文字が見つかりました。和歌のようです」


 電話の向こうで、一花が息を呑む気配があった。


「……何と書いてありましたか」

「『東風吹かば』まで確認できています。続きはもう少し調査が必要です」


 沈黙。


「お伺いしてもいいですか」と一花が言った。


「今から、ではなくて……明日の朝、早い時間でも」

「構いません」


 電話を切った後、湊はしばらくそのままでいた。

窓の外に街の灯りが見える。冬の空は澄んでいて、星が出ていた。

 東風吹かば。

 誰でも知っている歌の書き出しだった。菅原道真が都を離れる際に詠んだとされる、あの歌。

 しかしこの屏風に書かれた字は、道真の自筆でも写しでもないだろう。

筆跡は女性的で、どこか祈りに似た力強さがある。

誰かが、屏風の裏に、その歌を書いた。

 なぜ。

 梅の香りが、また漂ってきた。


 翌朝、一花は約束の時間より十五分早く工房に来た。

 白いコートではなく、今日は紺色のウールのコートを着ていた。

しかし香りは変わらなかった。工房のドアを開いた瞬間、梅の気配が流れ込んでくる。

「昨夜、眠れなかったので」と一花は言った。謝りでもなく、言い訳でもなく、ただ事実として。

「僕もです」と湊は答えた。

 屏風の前に並んで立つと、一花は右隻の松をじっと見た。


「祖母はいつも、この屏風を床の間に飾っていました。正月にも、お盆にも、ずっと。左が空白のまま、誰も気にしないふりをして」


「家訓は、誰から聞いたんですか」


「祖母から。でも祖母もその祖母から聞いた、と言っていたから、どこから始まったのかは……」


 一花の言葉が止まった。

 裏打ちの下から出た和歌を、湊は今日のために書き写しておいた。半紙に万年筆で。それを一花に差し出すと、一花は両手で受け取り、しばらく黙って見ていた。


「東風吹かば、にほひおこせよ梅の花……」


 一花が小声で読み始めた瞬間、湊の視界にまた白い光が走った。

 しかし今度は、フラッシュバックではなかった。

 一花の目に、光が宿っていた。見開かれた目に、何か遠いものを見ている表情。

それは驚きや恐怖ではなく、ずっと忘れていたことを突然思い出したときの顔に、似ていた。


「……一花さん」


 名前で呼ぶのは初めてだった。一花が顔を上げる。


「何か、見えましたか」


 一花は少し迷ってから、頷いた。


「雪の夜でした。袖を、掴んでいた」

「男が、旅立つところですか」


 一花の目が大きくなった。


「見たんですか、あなたも」


「昨日、この歌に触れたときに」


 二人は、しばらく黙って向き合っていた。工房の外で、木の枝が風に揺れる音がした。

 梅の香りは、今この瞬間が、一番濃かった。

どうでしたか?


感想、評価お願いします。

誤字があれば教えてください。

それでは。

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