第1話 梅の香りがする人
冬の朝の工房は、いつも同じにおいがする。
膠と、古い紙と、時間のにおい。湊がそう呼んでいるだけで、正確な言葉があるわけではない。
古美術修復師という仕事を十年やっていると、においで素材の状態がわかるようになる。
紙が劣化しているときは、甘ったるい腐敗臭が混じる。
絹が湿気を含んでいるときは、微かに獣の気配がする。
それは職人として身につけた感覚だ、と湊は自分に言い聞かせている。
ただ、それだけではないことも、知っている。
湊には生まれついての「厄介な体質」がある。古いものに触れると、そこに残った人の気配を、色や香りとして感じ取ってしまう。
江戸時代の絵師が最後に手を入れた箇所からは、焦燥の赤みが滲み出る。
平安の仮名書きの断片からは、どこまでも深い藍の沈黙が漂ってくる。
感情の強さが増すほど、残留する香気も強くなる。
べつに超能力などではない、と湊は思っている。ただの過敏さだ。感情に疎い分、五感が余計なものまで拾ってしまうだけだ。
その朝、湊は江戸中期の掛け軸の裏打ち剥離に集中していた。
細い竹べらで、和紙の繊維が傷まないよう、一ミリずつ慎重に。
照明は蛍光灯ではなく、自然光に近いLEDを斜め四十五度に設置している。
冬の外光は弱いが、安定しているという点ではむしろ好ましい。
インターホンが鳴ったのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
湊は竹べらを置き、手袋を外してモニターを確認した。
カメラが映しているのは、白いコートを着た若い女性だった。
肩のあたりまでの黒い髪。少し俯いた姿勢で、細い腕で何かを抱えている。
古い木箱のようなものを、まるで割れ物を扱うように。
事前の連絡は受けていた。「一花」という名前と、「屏風の修復依頼」という内容だけが、昨日のメールに記されていた。
湊はドアを開けた。
その瞬間、においがした。
梅だ、と直感が告げた。梅の花の香り――白い花びらが震えているような、清冽で少し切ない香りが、玄関の空気に滲んでいた。
湊は工房の入り口に立ったまま、一秒ほど動けなかった。季節は十一月の終わりだ。梅が咲くのは、早くて二月。周囲に梅の木が植わっているわけでもない。
「……修復の依頼で来た方ですか」
湊が言うと、女性は顔を上げた。
「はい。桐島一花です。メールをしました」
声は落ち着いていたが、目の下にかすかな疲労の影があった。抱えていた木箱は思ったより大きく、両腕でかかえてちょうどいいくらいの幅がある。
「どうぞ」
工房に通しながら、湊は密かに鼻を動かした。においは消えていなかった。
一花が歩くたびに、その白いコートの裾が揺れるたびに、梅の香りがふわりと広がる。香水かとも思ったが、それにしては人工的な甘みがない。
もっと生の、土と花の混じり合うような香りだ。
作業台の前で木箱を下ろすと、一花は背筋を伸ばして、少し改まった顔になった。
「よろしくお願いします。……祖母から引き継いだもので、もう誰かに診てもらわないといけないと思っていたんですが、なかなか踏み切れなくて」
「開けていいですか」
一花が頷く。湊は留め具を外し、蓋を持ち上げた。
中には、薄葉紙に包まれた屏風の折りたたまれた骨格が収まっていた。慎重に取り出し、作業台の上に広げていく。
二曲一双、つまり折りたたみの二枚折りが一対になる構造だが、運ばれてきたのは一隻だけだった。
「もう片方は?」
「……ありません。ずっと昔から、うちにあるのはこれ一枚だけなんです」
広げると、右隻の屏風が姿を現した。
金地の背景に、崖が描かれている。荒削りな岩肌が画面の右下から左上へと伸び、その先端に一本の松が立っている。
幹は風雪に曲げられ、それでも折れずにいる。技巧は確かなもので、筆のタッチに迷いがない。
そして左側。左の画面には、何もなかった。
金地の地肌がそのまま露出している。描き忘れたのではない。下地の状態を見ればわかる――左側の画面にも、筆が当てられた形跡がある。
何かが描かれていた。しかしそれは今、完全に消えている。
「剥落が酷いですね」と湊は言いかけて、止まった。
剥落ではない。
顔料が落ちた痕ならば、地肌に凹凸が残る。しかしこの左側の金地は、あまりに滑らかだ。まるで、描かれたものが自分から消えたかのように。
「……ずっと昔から、こうなんですか」
「祖母も、そのまた祖母も、こういう屏風だったと言っていました。うちの家訓に、『この松を守りなさい』という言葉があって」
湊は視線を上げて、一花の顔を見た。
「家訓?」
「変でしょう」と一花は苦笑した。
「でも、うちの家は……桐島、という旧家なんですが、もう今は本当に何も残っていなくて。この屏風と、その家訓だけが、ずっとあるんです。『いつか西から梅が戻るまで、この松を守り続けなさい』って」
梅。
湊はもう一度、空気を吸った。
においは、まだそこにあった。この屏風から漂っているのか、それとも一花から来るのか、今はもうわからなかった。
ただ、工房の中に確かに、冬には存在しないはずの梅の気配が満ちていた。
「お預かりします」と湊は言った。
「状態の詳細な調査を先にして、修復の方針が決まったらご連絡します」
「ありがとうございます」
一花が頭を下げる。帰り際、ドアのところで立ち止まり、振り返らずに言った。
「……この屏風、何か感じますか。修復師として、ではなくて」
湊は少し間を置いた。
「においがします」
「においですか」
「梅の香りが」
一花は、それきり何も言わなかった。しかし工房を出た後、その足音がしばらくの間、玄関先で止まっていたことを、湊は気づいていた。
その夜、湊は屏風の前に一人でいた。
調査用の照明を斜めに当てると、肉眼では見えなかった細部が浮かび上がる。
松の幹の描き込みは、想像以上に精緻だった。一本一本の松葉が、まるで生きているかのように空気を捉えている。
風の中にいる松だ、と湊は思った。どこかへ飛んでいきたい気持ちを、根で地面に縫い付けているような松。
そして左側。
何もない金地に、湊はそっと指を近づけた。触れる直前で止める。これが職業的な直感か、それとも体質のせいなのかはわからないが、湊は確信していた。
ここには何かがいた。
いた、というより――いようとしていた。
描かれかけて、飛び去った何かが。
工房の外で、夜風が鳴った。冬の入り口の、まだ枯れ草の残り香がする風だ。
梅ではない。
今度こそ確かに、梅ではないにおいだった。
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それでは。




