第93話 四十年前の服、明日の服
本祭は、明日から始まる。
各地から戻ったエルフたちで、首都は昨日よりもにぎわっている。
王城でも、明朝に備えた支度が進んでいた。
その前日の午後、私の部屋の卓には、一着の服が広げられていた。
普段着るものではない。
王太子として大祭へ出るための服だ。
見覚えがあった。
「懐かしいでしょう」
母上が、卓の向こうから私を見る。
「四十年前にも着たものだな」
「覚えていたのね」
「自分が着た服くらいは覚えている」
四十年を経ても、古びた様子はない。
手入れを終えた服は、前に着た時と変わらぬ形で卓の上にある。
四十年前、私はこの服で世界樹の前へ出た。
次の大祭でも同じように袖を通すのだろうと、その時は考えていた。
実際には三度続けて帰らず、その間に人の国でリーネを保護した。
「着てみなさい」
「必要ない。合う」
「着る前から言わないの」
「私の身体は変わっていない」
母上は服を持ち上げ、こちらへ差し出した。
「分かっています。それでも、着たところを見たいのよ」
そこまで言われて断る理由もない。
私は普段の上着を脱ぎ、四十年前の服へ袖を通した。
肩は同じ位置で収まり、袖口も以前と変わらぬところにくる。
どこも直す必要はなかった。
「ほら、合っただろう」
「ええ。本当に、少しも変わらないのね」
母上は私の袖口に触れた。
「四十年だぞ」
「ええ。あなたにとっては、そういう時間だったわね」
母上は手を離し、笑った。
「四十年前も、着る前に同じことを言ったわ」
「その時も合った」
「ええ。今日も同じ返事ね」
母上は私から一歩離れ、改めて全身を眺めた。
「四十年前は、大祭が終わるとすぐに人の国へ戻ったでしょう」
「用が済んだからな」
「その次も、その次も帰ってくると思っていたのだけれど」
「三度来なかったことを、服を見るたびに数えるつもりか」
「ええ。母親ですもの」
母上は当然のように答えた。
私が何年離れていようと、母上の中では帰ってこなかった回数が一つずつ残るらしい。
「でも、今度は一人で帰ってきたわけではないものね」
母上がそう言ったところで、扉が開いた。
そのすぐ後、マルタがリーネの手を引いて部屋へ入ってきた。
空いた腕には、小さく畳んだ服を抱えている。
リーネは私を見ると、すぐにはこちらへ来なかった。
普段とは違う服を見上げ、袖から肩、顔の順に視線を動かす。
それからマルタの手を離し、私の前まで歩いてきた。
小さな手が、先ほど母上の触れた袖口へ伸びる。
布を指先でつまんだリーネは、確かめるようにもう一度私の顔を見上げた。
「りゅー」
「そうだ。明日はこれを着る」
返事を聞くと、リーネは私の袖をつまんだまま笑った。
王太子の服であろうと、リーネにとっては私を見失うほどの違いではないようだ。
「服が変わっても、リーネにはいつものあなたなのね」
「私なのだから当然だ」
リーネは私の袖から手を離すと、今度は母上のそばへ歩いていった。
そこで母上は、マルタの抱えている服に気づいた。
「もう、それを着られるの?」
「はい。今のリーネ様でしたら、ちょうどよいかと存じます」
「何の服だ」
私が尋ねると、母上は意外そうにこちらを見た。
「私が大樹の家へ持っていった服よ。その時は、まだ先に着るものとして分けたでしょう?」
小さな服を、今着るものと、少し先に着るもの、その先に必要になるものへ分けた日のことは覚えている。
マルタが抱えているのは、その中でも大きく見えていた一着だった。
母上がマルタから服を受け取り、リーネの前に広げる。
リーネは差し出された袖へ触れたあと、マルタへ両腕を上げた。
「もう着られるのか」
「確かめてみましょう」
母上がそう言うと、マルタはリーネとともに着替えへ下がった。
私も普段の上着へ戻そうとしたが、母上に止められた。
「あなたはそのままでいて」
「もう合うと分かっただろう」
「二人で並んだところを見たいの」
「それに何の意味がある」
「私にはあります」
「この服を着たあなたの隣に、あの子が立つところなんて、四十年前には考えもしなかったもの」
「それは私も同じだ」
私は四十年前の服を着たまま、リーネが戻るのを待った。
「初めて会った時には、まだ一人で歩けなかったのよね」
「立つにも、何かにつかまる必要があった」
「それが昨日は、陛下の手を取って踊っていたわ」
「父上がいつまでも誘われるのを待っていたからだ」
「そこを言っているのではありません」
母上は笑ってから、リーネの消えた扉へ顔を向けた。
「できることが、随分増えたという話です」
それなら否定する理由はない。
「あなたが初めて一人で歩いた日のことも、私は覚えているわ」
「私は覚えていない」
「私には同じ話です」
母上にとっては、私の覚えていない頃のことも、四十年前のことも、昨日のことと同じように残っているらしい。
「人間の一年は忙しいな」
「あなたの四十年より、ずっとね」
しばらくして、開いた扉からリーネが歩いてきた。
マルタに着替えさせてもらい、いつもより少し改まった服を身につけている。
袖は手首で収まり、裾も靴へかからない。
大きすぎるところはなかった。
「ぴったりね」
母上が笑う。
リーネは自分の両手を前へ出すと、その姿を見せるように私を見上げた。
「りゅー」
「見ている。今のお前に合っている」
「そういう時は、似合っていると言うのよ」
「同じ意味だ」
「違います」
母上は私へ言い返してから、リーネにはもう一度「よく似合っているわ」と笑いかけた。
リーネは両手を出したまま、口を大きく開けて笑った。
「お持ちいただいた時には、まだ着ていただけない大きさでした」
マルタが答えると、母上はリーネから私へ顔を向けた。
「あなたは四十年前の服を着ているのに、リーネには、あの時の『その先』がもう来たのね」
「それで、二人を並べたかったのか」
「ええ」
私は自分の袖口を見た。
四十年前と同じ位置に、同じ布がある。
その向こうで、リーネは袖口から出た両手を開いたり閉じたりしている。
母上があの服を持ってきた日、リーネは敷物の上を這い、手を伸ばした先のものをつかんでいた。
まだ私の名を呼ぶこともできなかった。
あれから、立てるようになった。
一歩ずつ歩き、転ばずに進める距離が伸びた。
言葉を覚え、自分が何をしたいのかも声と手で示すようになった。
私は、その変化を記録帳へ書き留めてきた。
一つずつなら、どれも日々の中で起きた小さな変化だ。
だが、あの日には大きすぎた服と、今ここに立っているリーネを並べれば、それらがどこまで積み重なったかは一目で分かる。
あの時、私は、必要になればその時に用意すればよいと言った。
母上はそれでは遅いと、先の服まで残していった。
その先が今、目の前でリーネの服になっている。
「母上が用意しておいてよかった」
母上が目を瞬いた。
「今、何と言ったの?」
「聞こえたのなら、繰り返さぬ」
「聞こえたけれど、もう一度聞きたいわ」
「言わぬ」
母上が笑い、マルタも口元を緩めた。
「明日は、二人ともその服で行きましょうね」
その声を聞いたリーネが顔を上げた。
母上とマルタを見てから、少し離れて立つ私へ身体を向ける。
そして、そのまま自分の足で歩いてきた。
裾を踏むこともなく私の前まで来ると、四十年前の服の袖を小さな手でつかむ。
「りゅー、いっしょ」
「ああ。明日も一緒だ」
リーネは笑い、私の袖をつかんだまま頷いた。
四十年前と同じ服を、あの頃にはいなかった小さな手が握っている。
明日、私はその手とともに、世界樹の麓へ向かう。
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