クラリス・ヴァルディエは揺るがない ~王太子妃候補をやめたので、Fランク冒険者から始めます~
「クラリス・ヴァルディエ。君との婚約を解消する」
王太子殿下の声が広間に響き、次の曲を待っていた楽団の弓が下りた。
王立学院の卒業を祝うこの夜、殿下の隣には私ではなく聖女候補の令嬢が立っていて、来賓の方々は二人の前を空けたまま、こちらの返事を待っている。
両家の使者も、書状を預かる者もいなかった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「彼女と生きていきたい。王家にとっても、そのほうがよいと判断した」
聖女候補を迎えることに、どれほどの利点があるのか。
殿下の判断に使われた情報を私は持っていなかったが、王家と侯爵家の婚約を、この場の返答だけで解消できないことは知っていた。
「父には、すでにお話を?」
「これから使者を送る」
後ろで続いていた囁きがやんだ。
隣の令嬢は顔を伏せ、殿下は私を見ている。
彼女へ何かを申し上げれば、殿下が決めたことを令嬢同士の争いとして、この広間にいる方々へお見せすることになるだろう。
「承知いたしました。正式な書面と使者をお願いいたします」
「……ほかに言いたいことはないのか」
幼い頃から殿下の隣に立つために学び、今日も、どの来賓へ先にご挨拶をするかを確かめてからここへ来た。
それらの年月について、いま申し上げる言葉は用意していなかった。
「この場で申し上げることは、以上でございます」
退出の礼を取り、従僕が開けた扉を通るまで、歩調は変えなかった。
閉じた扉の向こうで声が戻っても、私は廊下に立ったまま、手袋を外すことを忘れていた。
今夜は最後の曲まで踊るはずだった。
明日は王宮で打ち合わせがあり、その後には別の予定が入っている。
どれをお断りすればよいのかは分かるのに、空いた時間に何をするかは、一つも思いつかなかった。
「お迎えの馬車を呼んでいただけますか」
従僕が礼をして立ち去る。
今の頼み方も、間違ってはいなかったはずだ。
◇
帰邸した時には、祝賀会での出来事は父へ届いていた。
執務室へ入ると、エドガルド・ヴァルディエ侯爵は読んでいた報告を伏せ、机の向かいへ座るようにと告げた。
「先方の使者は、まだ来ていない。お前から出向く必要はないぞ」
「はい」
「お前に落ち度はない」
「ありがとうございます」
返事をする前に息が抜けてしまい、私は膝の上で手を重ねた。
父は聞き返さず、脇に置かれていた書状を取り上げる。
「今後の話をする。次の縁談については、こちらで候補を考える」
封蝋に押された家紋を、私は知らなかった。
帰邸からまださほど時は経っていないのに、父の机には、もう私の次の暮らしにつながる書状がある。
「お前は王太子妃となるための教育を修了している。婚約が解消されても、お前自身の価値は損なわれん。家格だけでなく、先方の事情も調べさせる」
「お父様」
お話が済んでから発言の許しを請うはずが、父の言葉を遮ってしまい、こちらへ向けられた目を受けながら、膝の上の手を固く握った。
手袋の縫い目が指に当たっている。
「嫌です」
父は封を切らずに書状を机へ戻したが、そのまま私を見ていて、言葉遣いをとがめることも、続きを急かすこともしなかった。
「何がだ」
「次の縁談です」
「まだ相手も告げていない」
「どなたであっても、今はお受けしたくありません」
封が開かれれば、相手の名と領地、家族、そこで私に求められる役目を伺うことになり、足りないものを学ぶうちに、明日から何をすべきかは決まっていくのだろう。
父が選んでくださる方なら、なおさらだった。
「理由は」
私はようやく手を緩めた。
「また、決めていただいた道へ移ることが嫌なのです」
父は黙っていた。
最後まで話を聞くようにと言われるものと思っていたのに、その父が待っているので、途中まで整えた言葉を、もう一度選び直さなければならなかった。
「これまで学ばせていただいたことを、間違いだったとは思っておりません。今日も、教わったことに助けられました」
あの広間で使者も書面も求めずに帰っていたら、父は私がどう返答したかを確かめるところから、始めなければならなかっただろう。
身につけた礼法も知識も、あの広間でどう振る舞うべきか迷った時には、私を助けてくれた。
「けれど、殿下との婚約がなくなった途端に、明日何をすればよいか、分からなくなりました」
父は少し目を見開いたまま、しばらく私を見ていた。
「何をしたい」
答えを探して書状へ目を落とすと、父が用意してくれた縁談がそこにあり、私が口をつぐんでさえいれば、今日のように明日も守っていただける気がした。
「……まだ、分かりません」
父の眉間に皺が寄った。
「何も決めていないのに、縁談は断ると言うのか」
「はい。分からないまま、次の方のために生き始めたくはありません。自分で探す時間を、いただけませんか」
父は椅子の背へ身を預け、しばらく考えていた。
「1年だ。その間、次の婚姻は保留する。どう生きるか、自分で考えなさい」
「ありがとうございます」
「別邸は使ってよい。生活費は、お前名義の資産から出せるだろう」
私は小さく首を横に振った。
「家を出ます」
父が身体を起こした。
「そこまでする必要はない」
家を出れば、これまで人に任せていたことも、自分で引き受けなければならなくなる。
それが心細くないわけではなかったが、何をしたいか分からない今は、身近なことから自分で選んでみたかった。
「別邸へ移っても、身の回りのことは家の者にお願いしてしまいます。まずは、自分で暮らしてみたいのです」
明日着る服さえ選んでもらっている私が、暮らし方を変えると言っている。
父はその無理を一つずつ指摘できたはずなのに、しばらくして口にしたのは別のことだった。
「どこへ行っても、お前は私の娘だ」
「はい。お父様との縁を切りたいわけではありません」
呼び鈴へ伸びかけた父の手が戻り、開かれなかった縁談の書状が、まとめて引き出しへ収められた。
「行きなさい」
私は立ち上がって礼をした。
顔を上げても、父はまだこちらを見ていた。
「次は、私が決めます」
◇
翌朝、旅行鞄の蓋を閉めようとしたところで、靴が入っていないことに気づいた。
衣服を押してみても留め金が掛からず、背後で控えていた侍女が、とうとう寝台へ近づいてくる。
「お嬢様、お召し物は何日分でしょうか」
「当面、困らないだけの分を」
「お洗濯をなさるのでしたら、これほどは要りません」
洗うつもりではいた。
ただ、洗った服をもう一度着ることと、持っていく枚数を減らせることが、荷造りの最中には結びついていなかった。
侍女が用途の重なる服を寝台へ戻し、残すものを私へ渡す。
畳んだつもりでも袖だけが厚くなり、教えられたところを折り直すと、同じ服が先ほどより小さく鞄へ収まった。
「ご一緒してはいけませんか」
「あなたがいてくれたら、きっと全部お願いしてしまいます」
「お着替えくらいは、お手伝いさせていただいても」
「そのお着替えから、覚えなければなりませんから」
侍女は口を閉じ、予備の靴紐を鞄へ入れた。
私はそれを取り出さず、自分に贈られた金のうち当面使う分を、日用品と一緒に収めた。
荷造りがようやく一段落し、私は母の遺品を入れた木箱へ目を向けた。
中には、鑑定を頼んでも用途不明のスキルブックとしか分からなかった古い本が、しまった時のまま収まっていた。
身体に何をもたらすか知れないからと、王太子妃候補である間は使用を許されなかった品だ。
これまでは、使ってはいけないと言われれば、自分から開こうとは考えなかった。
けれど今は、母が遺したこの本が私に何をもたらすのか、知りたかった。
「お使いになるのですか」
「ええ。使ってみようと思います」
開いた頁には何も書かれていなかった。
紙に触れた指へ淡い光が移り、驚いて手を引く間にも本の形がほどけて、腕へ吸い込まれていく。
頭の中に文字が浮かび、目を閉じても消えずに、ひとつずつ読み取ることができた。
>ユニークスキル:習得 を取得した
――――――――――――――――――――
【取得スキル】
一般スキル:《礼法 Lv3》《宮廷作法 Lv3》《舞踏 Lv3》《馬術 Lv2》《語学 Lv2》《交渉 Lv2》《歴史 Lv2》《紋章学 Lv2》
上位スキル:
ユニークスキル:《習得 Lv1》《剛力 Lv1》
――――――――――――――――――――
一般スキルに並んでいるのは、何度も間違え、直されながら身につけてきたものばかりだった。
舞踏の隣にある3という数字が嬉しくて、私はそこをもう一度読み返した。
婚約がなくなったからといって、学んできたものまで消えたわけではない。
剣や魔法、野外で役立ちそうな技能の名前は見当たらなかった。
「お身体に、何か変わったところは」
「痛みはありません。覚えた技能が見えるようになりました。ただ、ユニークスキルというところに、習得と……剛力、とあります」
「剛力。ああ……お嬢様は、昔からお力がお強うございましたから」
「それは、そうですけれど」
人より力があることは知っていたが、こうして名前までついているとは思わなかった。
【習得】の方は、名前を見ても何をするものか分からない。
少なくとも、剣を扱う知識まで得られたわけではなさそうだった。
手を開いて確かめていると、侍女は旅行鞄を持ち上げて渡してくれた。
受け取った鞄は、片手でも難なく持ち上げられた。
「裁縫道具も入れておきました。使い方が分からなければ、お戻りください」
「教えていただきに来ます」
鞄を持ったままでは、いつものように礼を取りにくかった。
私が持ち直す間、侍女は手を出さずに待ってくれた。
◇
冒険者ギルドへ向かったのは、依頼の成否が、自分の実績として残ると知ったからだった。
家庭教師や王宮勤めなら、これまでの教育を使える。
父の紹介状を持って出向けば、雇う側はその家名も考えて席を用意してくださるだろうが、今は、私がどこまでできるのかを自分でも知らない。
冒険者なら、家名だけで薬草を採ったことにも、魔物を倒したことにもならない。
扉を開けると、話し声と食べ物の匂いが一緒に流れてきた。
けれど、中へ足を踏み入れた途端、依頼書を読んでいた者も受付に並んでいた者も、一斉に顔をこちらへ向ける。
笑い声が途切れる中、私の白い袖口は、使い込まれた革の上着や泥の乾いた靴の間でひどく目立っていた。
人に見られることには慣れているはずなのに、ここでは会釈をしても、向けられた視線がなかなか外れない。
案内の従僕が迎えに来ることもなく、私は鞄を持ち直すと、人々の間を通って列の後ろへ回った。
受付で名前を告げると、女性のペンが止まり、用紙の上に墨が落ちた。
「ヴァルディエ侯爵家の……お嬢様でいらっしゃいますか」
「はい。冒険者登録をお願いいたします」
「ご依頼のお申し込みではなく、お嬢様ご本人が?」
「ええ。私の名前で登録をお願いいたします」
女性は私の後ろへ目を向けた。
付き添いを探しているのだろうが、侍女は連れてきていない。
女性がすぐには答えなかったので、登録はここでよいのかと尋ねる。
すると慌てて姿勢を正し、墨を落とした用紙を新しいものへ替えた。
それからは一つずつ確かめるように、私の身分の証明と名前を照合し、手続きを進めてくれた。
確認されたレベルはLv1で、受け取った冒険者証にはFランクの文字がある。
「最初はこちらからになります。実績や信用が認められれば、受けられる依頼の範囲が広がりますので」
「ここから先は、私が何をしたかで変わるのですね」
「はい。最初のランクについては、皆様同じ扱いです」
「嬉しいです」
女性が続きを言いかけた口を閉じる。
私はもう一度Fの文字を読み、証をしまった。
「では、依頼はどちらで選べばよろしいのでしょうか」
「……依頼も、お受けになるのですか?」
「はい。そのために参りました」
領主である父の許しは得ていると答えると、女性は護衛の所在を尋ねた。
「おりません。まずは、どなたかに同行させていただければと思っているのですが」
女性は言葉を切り、同じFランクの三人組を教えてくれた。
三人の卓には地図と食べかけの皿が並び、誰かが話し終える前に別の誰かが口を挟んでいる。
声をかける機会がつかめずに待ったが、このまま立っていても気づいてもらえそうにない。
私は笑い声が収まったところで、一歩近づいた。
「もし、同行者をお探しでしたら――」
男は私を見た途端に口をつぐんだ。
「もう決まってます!」
地図が畳まれ、残る二人も皿や剣を抱えて立ち上がる。
次に声をかけた相手も、名前を聞くと首を振った。
掲示板へ向かえば人が道を譲ってくれるのに、空いた場所へ進むほど、こちらから話しかける相手がいなくなっていく。
「教えていただけますか。皆様は、なぜ私との同行を避けるのでしょう」
受付の女性は困ったように眉を下げた。
「領主様のお嬢様を、依頼中に負傷させるわけにはまいりません。同行者にも、依頼を扱った私どもにも責任がございます」
「父は、そのような理由で処罰はいたしません」
そう言い切ったものの、娘を怪我させて帰った冒険者をどう扱うか、父へ実際に尋ねたことはない。
「あの連中は、首が物理的に飛ぶと思っているんです」
私を休ませるより先に次の暮らしを用意してくれた父を、この人たちは、失敗した冒険者の首を落としかねない領主と考えている。
けれど、私が知っているのは、娘に向けられる父の顔だけだ。
「……それは困ります」
「はい。私どもも困ります」
掲示板の前には、先ほどから依頼書を読んでいる男が残っていた。
同行を頼むと、男は私の鞄に目を留める。
「剣を使ったことは」
「ありません」
「町の外で一晩過ごしたことは?」
「それも、ありません」
「じゃあ、今のあんたを連れて討伐には行けない」
今度の理由なら、私にも分かる。
男が依頼書へ向き直る間に、私はFランクの仕事を探し、森の縁で薬草を10束集める紙を見つけた。
「こちらは、私でも受けられるのでしょうか」
受付の女性は頷き、採取できる範囲と帰り道を教えてくれた。
葉だけでは似た草と区別できないと聞き、茎の色と根元の毛まで確かめて、依頼書へ書き加える。
受注を済ませると、掲示板の前の男に呼び止められた。
「討伐の依頼じゃなくても、魔物は出るぞ」
もう私との話は済んだはずなのに、わざわざ呼び止めてくれた。
「はい。気をつけます。教えてくださって、ありがとうございます」
答えてから、鞄の中には着替えと日用品しかないことを思い出した。
これでは町の外へ出る支度になっていない。
私は受付へ戻り、必要な装備を尋ねた。
出発は明朝にする。
今日は剣を買い、夜を過ごす宿を決めなければならない。
通りへ出ると、私は薬草の特徴を書き加えた依頼書を開き、まず教わった武器屋の看板を探した。
◇
娘が家を出てから、まだ1日しか経っていなかった。
エドガルドは机の前に立つ密偵を見た。
「薬草を採りに行った、と言ったか」
「はい。昨日、冒険者登録を済ませておいでです。今朝は領都の外へ出られました」
「誰と」
「お一人です」
娘に猶予を与えたことは覚えている。
働くと言うなら、そのための相談くらいはしに来るものと思っていたが、クラリスはもう仕事を決め、父の知らないうちに出かけていた。
しかも、剣の扱いを教えた覚えもない娘が、冒険者だという。
「連れ戻しますか」
エドガルドはすぐには答えなかった。
そうさせれば、今日のうちに顔を見て叱ることはできる。
その後で、一昨日与えた1年をどう説明するのか。
「いや。見ていろ。仕事には手を貸すな。本人が帰ると言うまでは、連れ戻すことも許さん」
命令を受けて頭を下げた密偵へ、退出を許す前に付け加える。
「命を落とすと判断した時は別だ。その時は助けろ」
食事も着替えも人任せだった娘が、そう長く続けられるとは思えない。
数日もすれば戻ってくるだろう。
エドガルドは次の書類を開いたが、読む前に、今日の報告をもう一度手に取った。
◇
歩くたびに、剣の鞘が脚へ当たる。
昨日、店で手にした時には気に入っていたのに、今朝はこれをどこへ下げれば邪魔にならないか、門を出てから何度も試していた。
重くはない。
いっそ手に持って歩こうかとも思ったが、道ですれ違う人を驚かせそうなので、鞘を押さえている。
肩に食い込む背負い袋の紐を直そうと道脇で足を止めていると、後ろから来た荷車に追い越された。
馬に乗ってくればよかったと思ったが、私が採取している間、その馬を誰に預ければよいのだろう。
馬術を身につけていても、仕事に馬を連れていく方法までは知らなかった。
森に着いたのは、門を出ておよそ1時間後だった。
木陰で水を飲み、靴の中で足の指を動かす。
まだ仕事を始めてもいないのに、もう座りたい。
ここで休み込んだら立つのが嫌になりそうで、私は袋から薬草の特徴を書いた紙を出した。
葉の形だけで選んではいけないと教わっている。
最初に見つけた草は絵によく似ていたが、茎の色が違い、その隣は根元にあるはずの細かな毛がなかった。
しゃがんだまま少し先へ進み、ようやく葉も茎も根元も合う株を見つける。
これだ。
土を落とし、布で束ねる。
1束できると、次に探す葉の形が分かってきて、立って眺めた時には草ばかりに見えていた場所にも、欲しい葉を見つけられるようになった。
そのつもりで探せば見つかることが嬉しく、私は膝についた土を払うのも忘れて、次の株へ手を伸ばした。
10束を採り終えた頃には、脚の疲れより、誰かに見せたい気持ちの方が勝っていた。
受付の女性は受け取ってくださるだろう。
昨日の男にも、採れましたと報告できるかもしれない。
束を袋へ収め、葉を潰さないように口を閉じた。
背負えば肩紐はやはり食い込んだが、空の袋で帰るのとは違う。
帰りの1時間くらい、歩けると思った。
だがその道を、ゴブリンが塞いでいた。
茂みから出てきた小さな身体を見て、最初に浮かんだのは、どうして今なのかという不満だった。
腰ほどの背丈と緑色の皮膚から、知っている魔物だと分かった直後、その右手に棍棒があるのを見て、私は足を止めた。
左には太い木の幹、右には枝の絡んだ低木があって、道を譲るように横へ抜けることはできない。
振り返ると、さっきまで薬草を採っていた場所が木々の間に見えた。
戻ることはできるが、その先の森を通って帰れるかは知らなかった。
昨日、忠告は受けた。
討伐の依頼でなくても魔物は出る、と。
はい、と答えた自分の声まで思い出せるのに、出てきた相手を前にすると、次に何をすればよいのか分からない。
ゴブリンが近づいてきたので、私は剣を抜いた。
両手で向けると、その足が止まる。
少し刃を押し出せば、向こうも少し下がった。
「通してください」
言ってから、通じるはずもないと思った。
それでも、刃は嫌なのだろう。
道から退いてくれればよい。
私は相手の肩を狙い、剣を振り下ろした。
速く振れた。
当たらなかった。
振り下ろした剣を戻すより先に、ゴブリンが踏み込んできた。
身体を引いたが間に合わず、棍棒が左の上腕を打った。
「痛っ……!」
左手が柄から外れた。
腕を押さえることもできないまま追い立てられ、後ずさった踵が根に引っかかる。
背中の袋ごと倒れた私の、顔のすぐ横で土が跳ねた。
頭を狙われた。
息を詰めたまま起き上がり、薬草を採っていた場所へ逃げたが、足音はすぐ後ろまでついてきた。
追撃を横へ避けた拍子に、剣を握る右手を地面へ擦った。
走っても、この相手を振り切れそうになかった。
剣を向けて下がる私の後ろには、知らない森が続いていた。
帰る道はゴブリンの向こうだ。
左腕は熱く、右手は柄を握るたびにひりつく。
父に何と言われても構わないから帰りたいのに、その道へ近づくことさえできなかった。
ゴブリンは刃を嫌い、剣先を避けて動いていた。
私は痛む左腕をかばいながら柄に手を添え、棍棒ばかり追っていた目をゴブリンへ向けた。
棍棒が迫ってからでは遅い。
打ちかかる前に、相手は棍棒を構え直していた。
ゴブリンが、また身構えた。
私は棍棒が振り下ろされる前に横へ逃げた。
頬に土が当たり、身をすくめたが、今度は殴られていなかった。
転んでもいない。
すぐそばで地面を叩いた棍棒を見て、ようやく、自分で避けられたのだと分かった。
ゴブリンがこちらへ向き直った。
今度は腰の横へ棍棒を引いている。
上からではないと気づき、私は後ろへ下がった。
横に振られた棍棒は、腹の前を空しく通り過ぎた。
>経験を確認。
>行動への理解を確認。
>意図した成功と再現を確認。
>《回避》を習得しました。
声の意味を考える余裕はなかった。
続けて襲ってきた棍棒も後ろへ避けると、今度はよろけず、相手へ剣を向けたまま立っていられた。
逃げるたびに崩れていた姿勢を、立て直さずに済んだ。
今なら。
剣を上げかけた途端、左腕が痛み、私は肘を下ろした。
避け方を覚えても、殴られた腕は痛いままだった。
もう一度振り上げる勇気は出ず、低く構えた刃を相手の腹へ向ける。
ゴブリンが剣先を避けて回り込もうとする間に、私は帰り道の方へ少しずつ動いた。
そこで相手が鳴き、今度はまっすぐ踏み込んで来る。
振り下ろしてくると気づいて右へ避けると、棍棒は私の横を落ち、近づいてきた腹が剣の前へ出た。
振り上げなくても、届く。
私は両手で柄を押した。
刃が入る感触に喉がひきつったが、離れるより先に、ゴブリンの左手が私の服を掴んだ。
まだ動いている。
剣が刺さっているのに、こちらを見ている。
早く離れてほしかった。
けれど、剣を手放すのはもっと怖くて、私は柄を握りしめたまま踏ん張った。
棍棒が動くと声が出た。
また殴られると思ったところで、ゴブリンの膝が折れ、服を掴む手が下へ引かれた。
指が緩んだ隙に剣を抜き、後ろへ下がった。
ゴブリンは腹を押さえて地面へ手をつき、なおも立とうとしていた。
私は刃を向けて待った。
棍棒が土へ落ちた。
身体が傾き、それきり起き上がらなくなった。
私は待った。
もう動かないと思っても、少し葉が鳴るだけで、また剣を握り直した。
木々の間に動くものがないか確かめ、追ってくる足音も聞こえないまま、ようやく膝をついた。
息を吐こうとすると、変な声が出た。
もう一度試しても同じだった。
私は口を閉じ、剣を握ったまま、しばらく下を向いていた。
帰れる。
そう思ったら、涙が出た。
人のいるところへ行きたかった。
この腕を見せて、痛いと伝えて、今度こそ、もう戦わなくてよいと言ってもらいたかった。
水で右手の土を流すと、擦り傷にしみた。
痛む腕をかばいながら剣を鞘へ収め、袋の中を確かめると、薬草の包みが潰れていた。
「ああ……」
あれほど気をつけて入れたのに、何枚かの葉が折れている。
けれど、束はなくなっていなかった。
10束ある。
受け取っていただけるかは分からないが、置いていく気にはなれなかった。
包み直し、痛む腕をかばいながら袋を背負った。
朝、自分で歩いてきた道へ戻る。
帰ったら、まず座らせてもらおう。
受付の前で立っていられるかを考えながら、私は領都へ向かった。
◇
ギルドへ着いたら、まず座らせてもらおうと決めていた。
けれど、受付の女性が私を見つけて駆け寄ってきた途端、用意していた言葉より先に、薬草のことを話していた。
「10束、採ってきました。ただ、葉が少し折れてしまって」
「薬草は後で構いません。クラリス様、その腕は」
「ゴブリンに殴られました」
女性に袋を下ろすのを手伝ってもらい、椅子へ腰を下ろすと、脚の力が抜けた。
座れたことにほっとしている間に袖を上げられ、腫れた腕があらわになる。
「痛みますか」
「はい。動かすと、かなり」
大丈夫かと聞かれていたら、違う答えを返していたかもしれない。
女性は医師に診てもらいましょうと言って、今度は擦りむいた右手を取った。
水が傷にしみると、もう顔を取り繕う余裕もなくなった。
「おい、その腕……魔物にやられたのか」
顔を上げると、昨日忠告してくれた冒険者が立っていた。
「ゴブリンです」
「逃げる時に殴られたのか?」
「……倒しました」
男はすぐには何も言わなかった。
腰の剣へ目を落とし、それから、どこで会ったのかと尋ねた。
薬草を採った場所と帰り道を説明すると、受付の女性が書き留めてくれる。
「剣を使うのは初めてだったろう。どうやって倒したんだ?」
「先に振ったのですが、届きませんでした。それで腕を殴られて、逃げて……転びました」
順序立てて話すだけなのに、森にいた時のように息が詰まった。
男が急かさずに待っていてくれたので、走っても追いつかれたこと、棍棒を振る前の動きを見てようやく避けられたことを話す。
痛む腕では剣を振れず、前へ向けて押し込んだと説明してから、顔を上げた。
「刺さっても、倒れませんでした。服を掴まれて、また殴られると思いました」
今話せることを話し終えて、私は男の返事を待った。
「よく帰ってきたな」
頷こうとして、うまくいかなかった。
森を出てから、ここで何を聞かれるかは何度も考えたのに、その言葉への返事は用意していなかった。
俯いた私の前へ女性が布を差し出し、私は礼を言って受け取った。
◇
受付の女性から、ギルドでは魔法による治療も受けられると教えられた。
家にいた頃は、怪我をしても熱を出しても魔法医師が来てくださったが、治療に幾ら掛かっていたのかは知らない。
診察の後に魔法を使うことも、薬を処方することもあり、私はいつも治るまで言われたとおりにしていた。
「お願いすると、お幾らでしょうか」
告げられた額に、私は薬草の依頼書にあった報酬を思い出した。
家から持ってきたお金なら払える。
けれど、これから怪我をするたびにその額を払っていたら、採取で稼ぐお金は治療だけでなくなってしまう。
まず医師に診てもらうと、腕も右手も、薬を使ってしばらく休ませれば治るという。
魔法で早く治して次の依頼に出る者もいるが、この程度なら、薬で治す冒険者が多いと聞いた。
「では、お薬をお願いいたします」
次の依頼は、腕が治ってからにしよう。
手当てを終えてギルドへ戻ると、私の薬草は受付台に並んでいた。
包みが開かれ、折れてしまった葉も見えている。
「薬草として、受け取っていただけますか」
「はい。この程度なら問題ありません。間違った草も混じっていませんでした。10束、お受け取りいたします」
ようやく、持って帰ってよかったと思えた。
女性は依頼書を確かめ、報酬の硬貨を私の前へ置いた。
剣を買った金も、今日の手当てに掛かった金も、これでは取り戻せない。
依頼書を読んで知っていた額なのに、実物を見てから、少ないのだと改めて分かった。
それでも、財布へ入れてしまうのが惜しかった。
「お確かめください」
「はい」
硬貨を一枚ずつ数える。
依頼書の額と合っているのに、数え終わってからも手を離せなかった。
祝いに頂いたお金なら、これより遥かに多かったこともある。
けれど、数え終わった硬貨を、いつまでも眺めていたくなったのは初めてだった。
「初めて稼ぎました」
女性が微笑んだ。
「依頼達成、おめでとうございます」
包帯に引っかけないように硬貨を集めながら、私は顔が緩むのを止められなかった。
葉の形を確かめたことも、根元を探して屈んだことも、無駄にはならなかった。
「嬉しそうだな」
先ほどの男が、用事を済ませて受付から離れるところだった。
「はい。持って帰れて、よかったです」
「そうか。苦労したもんな」
私は硬貨を財布へ収めた。
次に採る時は、葉を折らずに持って帰りたい。
けれど、森へ入るところを考えると、まだ腕をかばってしまう。
「また採取に行きたいのですが……魔物に会ったら、今度も帰れるかどうか」
「剣の持ち方から習ったほうがいいな。さっき聞いた戦い方じゃ、俺も大丈夫とは言えない」
「教えていただけませんか」
「俺に? あんたの家なら、剣の先生を呼べるだろう」
「父に頼めば、探してくださると思います。でも、あなたにお願いしたいのです。昨日、剣を使ったことがあるかと聞いてくださったでしょう」
男は私の腰にある剣を見た。
「ああ。使ったことがないって言ってたな」
「あの時は、振ればどうにかなると思っていました。何も知らずに外へ出たのだと、今は分かります」
今度こそ、分からないところから教わりたかった。
「持ち方も、立ち方も、最初から教えていただけませんか」
男は少し考えてから口を開いた。
「毎日は無理だぞ。俺にも仕事がある。それでもよければ、まず一度、見てやろう」
「お願いいたします。指導料も、お支払いします」
男が告げた最初の1時間の額は、今受け取った報酬で払えた。
財布からその分を取り出すと、残る金よりも、出したほうへ目がいく。
今日くらいは、全部取っておきたかった。
それでも、この人なら、知らなかったことを知らなかったままにせず教えてくれると思った。
「その額で、お願いいたします」
「金は教える日に受け取るよ。まずは腕を治して、医師に動いていいか聞いてきてくれ」
私は硬貨を戻し、指導料にする分だけを布で包んだ。
初めて稼いだお金は、もう何かを覚えるためのお金になっていた。
◇
腕を休ませるように言われた数日は、思っていたより長かった。
服を着るにも髪をまとめるにも途中で手を休めなくてはならず、急いで済ませたい朝ほど、支度が終わらない。
早く剣を習いたかったが、この腕でできるとはさすがに思えず、包んだ指導料を取り出しては、またしまった。
医師から軽い運動を許され、ギルドで日を決めた翌朝、私は町の空き地で男にその包みを渡した。
「まずはこれでやろう。腕が痛んだら、途中でも教えてくれ」
渡された木剣を両手で持ち、教わったとおりに立つ。
剣を持つことに気を取られると足を直され、足に気をつけると、今度は剣先が下がっていた。
重くて支えられないのではない。
見せてもらった構えを自分でしているつもりなのに、どちらかが抜けてしまう。
「そのまま前へ出てみろ」
進もうとしたところで、止まれ、と声が掛かった。
足より身体が先へ出ていたらしく、戻るために余計な一歩を踏む。
立ち直して木剣を構えると、左の上腕が痛んだ。
「……痛みます」
男はすぐ木剣を受け取った。
「そうか。じゃあ剣は置こう。腕を使わずにできることからだ」
始めたばかりなのに、と思ったが、腕を下ろすと楽になった。
もう一度頼む言葉を呑み込み、剣を持たずに男の動きを真似る。
前へ、後ろへ。
戻ろうとした時に余計な一歩が要らなくなるまで、同じ動きを教わった。
「お、今のは戻りやすかっただろう」
「はい。足を踏み直さずに済みました」
「その感じを覚えておいてくれ。次は、森でやった避け方を見せてもらおうか」
男は先端に布を巻いた棒を取り、私の右肩へゆっくり伸ばしてきた。
この速さなら避けられると思った。
足を引いたのに、布は肩へ触れた。
「あ」
「今のは届いただろう。森で見た棍棒より、こっちのほうが長くないか?」
言われてみれば、目の前の棒のほうが、ずっと長かった。
動き出すところばかり見て、どこまで届くのかを考えていなかった。
男にもう一度棒を伸ばしてもらい、届くところを確かめる。
次はそこから外れるように下がると、布が服の前を通り過ぎ、私は転ばずに立っていた。
《回避》を覚えていても、相手の武器をよく見なければ当たってしまう。
「もう一度、お願いいたします」
何度か見てもらった後、今度は右手だけで木剣を持つように言われた。
「振らなくていい。俺に向けたまま避けてみろ」
それが加わると、途端にできなくなった。
棒は避けたのに木剣が外を向き、直そうとすると、また棒が近づいてくる。
剣に気を取られた次の一度は、布が肩へ触れた。
「いったん止めよう。構え直してから、もう一度だ」
今度こそと思うたび、どこかを忘れた。
そのたびに男は棒を止め、構え直すのを待ってくれる。
森では間違えたまま逃げ回るしかなかったのに、ここでは、どうすればよかったのかを聞けた。
棒が伸びてくる前に、木剣をどこへ向けるか確かめた。
避ける時にも、その向きを忘れないようにする。
布が肩の前を通り過ぎた。
木剣の先は、男へ向いていた。
「そう、それだ! 今は剣も外れなかったな」
褒められてからも、しばらく動けなかった。
動いたら、どこをどうしていたか分からなくなりそうだった。
木剣を握る右手にも、立っている足にも、今の感じを覚えていてほしい。
新しい技能を告げる声はしなかった。
それが少し残念で、けれど、声がなくても今できたことは分かった。
「できないことでも、覚えればいい」
顔を上げると、男が頷いた。
「ああ。今日はここまでにしよう」
「もう一度、お願いできませんか。やっとできたのに、終わりですか」
「できたからって、腕まで治ったわけじゃないだろう。続きはまただ」
差し出された手へ木剣を返した。
「ありがとうございました」
「明日、傷の具合を教えに来てくれるか」
私は頷き、空いた右手を一度開いてから握り直した。
次に持った時にも、あの形で立てるだろうか。
できるかどうかを、早く試してみたかった。
◇
その日の夕刻、エドガルドは娘の稽古について報告を受けていた。
「傷を悪くしてはいないな」
「見ている限り、特に問題はございません」
娘は指導者の制止にも従っているという。
エドガルドは手元の報告書へ目を戻した。
「指導料は、採取で得た金から出したのか」
「はい。その一部を充てておられます」
負傷して戻ったと聞いた日には、娘が家へ帰ってくるものと思っていた。
部屋もそのままにしてある。
けれど、届いた報告には、娘がゴブリンを倒し、自分で報酬を受け取り、その金で自分から剣の教師を頼んだとある。
ほかに金がないわけではない。
初めての報酬なら記念に取っておきそうなものを、娘は剣の持ち方と立ち方を習うために使ったらしい。
娘へ教師を付けてきたのは、エドガルドだった。
必要なことを教えられる者を選び、金を払って任せてきた。
今度は娘が、それをしている。
報告書の続きへ目を走らせたが、今日の稽古についてはそこまでだった。
「次は、いつ教わる」
◇
翌朝、ギルドへ傷の具合を知らせに行くと、男は昨日より痛みが増していないかと尋ねた。
増してはいない。
ただ、剣を持ち上げるように腕を上げると、まだ痛む。
「今日はもう一日、腕を休ませてくれ。明日、悪くなってなければ、一緒に採取に行かないか」
「ご一緒してくださるのですか」
思ったより大きな声が出た。
男は少し顔を引いてから、掲示板を示した。
「そんなに喜ばれるとは思わなかったな。俺も採るんだぞ。報酬は半分ずつだ」
「はい。それでも、ご一緒できるなら嬉しいです」
「じゃあ、道も覚えながら行こう。どこを歩いて、何かあったらどこへ退くか。剣を使う前に知っておいたほうがいい」
「お願いいたします」
「分からないことがあれば、その場で聞いてくれ。ただ、勝手に離れないことと、退けと言ったらすぐに退くこと。この二つは守ってくれよ」
「理由は、退いてから伺います」
「ああ。聞かれたことには答えるから、まずは一緒に戻ろう」
森で何か音がしても、明日はこの方に尋ねられる。
あの時も、ほかに帰る道を知っていたら、ゴブリンに近づかずに済んだのだろうか。
明日歩きながら、聞いてみよう。
出発前に傷を確かめ、悪くなっていなければ依頼を選ぶことにして、待ち合わせの時刻を決めた。
「採取袋と水、剣も忘れるなよ」
「はい。明日の朝、こちらで」
待ち合わせの時刻を、選んだ依頼の余白へ書き込んだ。
宿へ戻ったら、残りの報酬をしまい、明日持っていく物を揃えよう。
初めて稼いだお金は全部残っていない。
けれど、使った分で木剣を向けたまま避けることを教わった。
さらに、次へ進む約束も得た。
その明日を選んだのは、私だった。
明日の朝が、待ち遠しかった。
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