第9話 小さな灯火
「名前など、簡単に決められるものではない」
「そうさね。だから、ちゃんと考えるんだよ」
人間の名前を考えた経験はない。
ハイエルフの名は、家系と精霊、星の巡りによって決められる。
私の名も、故郷の森で長老たちが選んだものだ。
事実、私の真名もハイエルフの栄光や未来など、将来をより輝かせるために長ったらしい名前をもらっていた。
だがそれに反して人間の名は、もっと短い。
意味も時代によって変わる。
そして私は赤子を見る。
戦争で焼けた街。
崩れた診療所。
女が命を使って守った、小さな存在。
街のすべてが焼け落ちた後にも、その泣き声だけは消えなかった。
小さな火。
灰の中に残った灯火。
『主よ、その名付けはここではなく、す――』
「……リーネ」
気づけば、言葉が口から出ていた。
広場にいた者たちが静かになる。
赤子が、私を見上げる。
「古いエルフの言葉だ」
「…どういう意味だい?」
サナが尋ねる。
【小さな灯火】
赤子の額へかかった私の銀髪を、指で避けた。
「焼けた街の中で、消えずに残っていた」
赤子が目を瞬く。
「だから、リーネだ」
名前を口にした瞬間。
風が止まった。
麦畑を揺らしていた風も。
家々の間を抜けていた風も。
空を流れていた雲さえ、一瞬止まったように見えた。
「……ルヴェン?」
この異変に、私の足元にいた大精霊が顔を上げる。
白銀の瞳が、大きく見開かれていた。
『主よ』
「何だ」
『今、この方をお名付けになりましたか』
「聞いていただろう」
『私の前で』
「それがどうした?」
『ハイエルフ王族が、契約精霊の前で名なき者へ名を与える。それが何を意味するか、お忘れですか』
私は記憶を探る。
王族の儀礼。
精霊との契約。
古い習わし。
100年以上、故郷へ戻っていないため、細かな決まりは忘れていた。
「……まさか」
『我が前で、それも王族の名の下に名前を与えるということは、それ即ち、庇護する者として認める儀式に他なりません』
「……ただ名前をつけただけだぞ」
『私が立ち会っております』
「儀式の言葉は口にしていない」
『消えずに残った灯火と、その生を主がお認めになられました』
「……今すぐ取り消す」
『それは無理かと。すでに精霊界へ届いております』
「…早すぎるだろう」
『精霊とは時と共に、そして超えるものであり、そういうものです』
ルヴェンの小さな身体から、白銀の光があふれた。
光は空へ立ち上り、広場を包み込む。
村人たちが驚きの声を上げる。
「…何が起きている?」
『私の加護が、リーネへ渡ります』
「…止めろ」
『止められません』
「なぜだ。お前の力だろう?」
『契約に基づく祝福です。王族が庇護を宣言し、大精霊が立ち会った以上、拒否はできません。これは既に決定された過去のことでございます』
「私は庇護するとは言っていないぞ」
『名を与えられました』
「……それは…教会まで呼ぶ名が必要だっただけだ」
『残念ながら我が主よ。精霊界では、そう解釈されません』
白銀の光が、私の腕の中へ集まる。
リーネの小さな身体を、柔らかく包み込んだ。
額に、淡い紋様が浮かぶ。
風を表す翼と、エルフ王家の樹を重ねた印。
大精霊の加護。
人間の王でさえ、一生を費やして得られるかどうか分からない祝福だ。
それが、生まれて間もない赤子に与えられている。
「……まずい」
『何がでしょう』
「人間の赤子に、お前の加護は強すぎる」
『加減いたします』
「できるのか?」
『精霊ですので』
「育児知識はないくせに」
『それとこれとは別です』
光がゆっくりとリーネの身体へ溶けていく。
赤子は泣かなかった。
怖がりもしない。
むしろ心地よさそうに目を細め、猫の姿に近い大精霊ルヴェンへ手を伸ばした。
「あぅ」
ルヴェンの身体が宙へ浮かぶ。
猫ほどの小さな姿のまま、リーネの顔の前へ近づいた。
『リーネ様』
「様をつけるな」
『ハイエルフ王族の庇護下に入り、私の加護を受けた方です』
「人間の赤子だ」
『それでも、我らにとっては王家に連なる方となります』
「…私は認めていないぞ」
『精霊界は認めました』
「勝手なものだな」
『人間だけではなく、精霊も時に勝手なのです』
リーネの小さな手が、ルヴェンの鼻先へ触れた。
その瞬間、広場に風が吹いた。
強い風ではない。
春の朝のような、柔らかく温かな風。
風に乗って、白い花びらが舞い上がる。
「は、花?!」
村人の1人が声を上げた。
季節外れの小さな花が、広場の石畳の隙間から芽を出している。
やがて広場の周りを囲むように、無数の白い花が咲いた。
『これは……』
ルヴェンが驚いた声を出す。
「お前がやったのではないのか」
『いいえ。私の加護へ、リーネ様ご自身の魔力が応えたようです』
「なんだと…? 赤子に魔力制御などできるはずがなかろう」
『恐らくは無意識なのでしょう』
私はリーネの身体へ意識を向ける。
今度は傷つけないよう、慎重に。
細く未完成な魔力経路。
その奥に、人間の赤子とは思えないほど澄んだ魔力が流れている。
量そのものは少ない。
だが、精霊との親和性が異常に高い。
「……魔力の流れが粗い」
『むしろ生後数か月の人間としては、驚異的かと』
「経路にも無駄が多い。風を起こすだけで半分近く漏れている」
『我が主よ、赤子ですので』
「この程度で花まで咲かせれば、すぐに魔力切れを起こす」
『普通の人間であれば、そもそも花は咲かせられません』
「ふん…まだまだだな」
周囲を見ると、村人たちが全員、呆然としていた。
「どうした」
サナが額へ手を当てる。
「あんたの基準で赤ん坊を評価するんじゃないよっ!」
「事実を言っただけだ」
「生まれて間もない子が花を咲かせたんだよ?」
「花程度なら、幼いハイエルフでも――」
「この子は人間だよっ!」
「分かっている」
「分かってないねっ!」
そうだろうか。
リーネは魔力を使った反動か、眠そうに瞬きをしている。
自分が何をしたのか、理解していない。
このまま魔力を使わせるのは危険だ。
「ルヴェン。加護を調整しろ。こいつが無意識に魔力を使わないように」
『承知いたしました』
「身体の成長に合わせ、少しずつ封印を解け」
『はい』
「風だけではない。他属性への影響も調べる必要がある」
『いずれ、お教えになるおつもりで?』
「……暴発させれば周囲が危険だ」
『なるほど。安全のためですね』
「…それ以外に何がある」
『何もございません』
また笑っている。
私はルヴェンから視線を外した。
「これで話は終わりだ。私はリーネを教会へ連れていく」
村長が何度も頷いた。
「大精霊の加護を受けた子となれば、なおさら安全な場所へ届ける必要があります」
「その通りだ」
「ですが……」
「何だ」
「ハイエルフ王族の庇護下にある子を、人間の教会が引き取ってよいのでしょうか」
私はルヴェンを見る。
『精霊界の解釈では、主が保護者です』
「違う」
『王家の庇護を受けた者を、無関係な人間へ預けることは、古い法では放棄にあたります』
「100年以上前の法だろう」
『精霊にとって100年は、昨日と変わりません』
「面倒な法を残したものだ」
『制定したのは、主の曽祖父君です』
「……あの男は昔から余計なことばかりする」
サナが私たちの会話を聞きながら、にやりと笑っていた。
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