第8話 長い夜と村の答え(後編)
老人、農夫、山羊飼い、そして子どもを連れた女。
見張り台にいた若者もいる。
私とルヴェンが姿を現すと、村人たちは一斉に静かになった。
「続けろ」
私が言うと、誰も口を開かない。
「私が来る前は話していたのだろう」
「そんな大精霊を連れたエルフの前で、普通に話せる者なんていないよ」
サナだけは平然としていた。
「エルフではない、ハイエルフだ。……ルヴェン」
『はい』
「小さくなれ」
『なぜでしょう』
「人間が怯えている」
『この姿でも十分に小さいつもりですが』
現在のルヴェンは、大型の狼ほどの大きさがある。
「猫程度になれ」
『私に猫になれと?』
「姿だけだ」
『大精霊の威厳が』
「昨夜、赤子の泣き声に耳を塞いでいた者が、今さら威厳を気にするな」
『……承知いたしました』
ルヴェンの身体が、光の粒となる。
次の瞬間には、白銀の小さな獣が私の足元に立っていた。
猫ほどの大きさで、角と翼だけは残っている。
村の子どもたちから小さな歓声が上がった。
『主よ』
「何だ」
『笑った者がいます』
「耐えろ」
少しだけ、村人の緊張が解けた。
村長らしい中年の男が、一歩前へ出る。
「まずは、赤ん坊を救っていただいたことに、村を代表して感謝いたします」
「…私は村のために助けたのではない」
「それでも、命が一つ助かったことに変わりはありません」
「そうか」
村長は赤子を見た。
「サナから聞きました。ロアナの診療所で見つかったと」
「ああ」
「身元の分かるものは?」
「ない。女が一人、赤子を守って死んでいたが、母親かどうかも不明だ」
「そうですか……」
村人たちの間に、重い空気が流れる。
ロアナは近隣の街だ。
親類や知人がいた者もいるのだろう。
「引き取れる者はいないのか」
私が尋ねる。
誰もすぐには答えなかった。
やがて、赤子を背負った若い女が申し訳なさそうに口を開く。
「うちは、この子と、その上にも二人います。もう一人育てる余裕は……」
「…責めてはいない」
「すみません」
「謝る必要もない」
別の男が言った。
「今年は麦の出来があまり良くありません。冬を越せるかどうか、どの家もぎりぎりで」
「……ふむ。では、近くに孤児院は」
「大きな教会が、南の城塞都市にあります」
「距離は」
「馬車で十日ほどです」
「…遠いな」
いつも通り魔法が使えればそこまでの距離ではない。
だが、この赤子を連れて行くとなれば話は別だ。
「今は街道も安全とは言えません。戦争から逃げてきた者や、野盗も増えています」
「…戦は終わったが、そうか。治安は良くないか」
私は少しだけ思案する。
距離はあるとはいえ、実際困難な距離かと言われるとそうでもない。
単純な話として、城塞都市まで運べばいいだけだ。
それに私ならば馬車と違って、十日もかからない。
赤子の負担を考えたとしても、徒歩でおよそ数日で済むだろう。
「ならば、私が教会へ連れていく」
そう言った瞬間、サナがため息をついた。
「…何だ」
「何でもないよ」
「言いたいことがあるなら言え」
「昨夜はこの村へ届けるまでと言ってなかったかい?」
「状況が変わった。引き取り手がいないのなら、教会へ運ぶ必要がある」
「教会まで運んだ後は?」
「教会の者へ任せる」
「本当に?」
「当然だ」
「…そうかい」
また、その言い方だ。
「それ以外に方法があるのか」
村長が遠慮がちに手を上げた。
「一つ、よろしいでしょうか」
「言え」
「城塞都市の教会も、戦災孤児であふれていると聞いています」
村長の言葉に少しだけ眉根が動く。
「…引き取りを拒むのか?」
「いえ、拒みはしないでしょう。ただ……十分に面倒を見てもらえるかは分かりません」
人間は戦争をする。
戦争をすれば、親を失う子どもが増える。
その子どもたちを引き取る場所まで足りなくなる。
……実に人間らしい。
「だからといって、この村では育てられないのだろう」
「はい。それはそうなのですが…」
「ならば、教会へ行くしかない」
話は終わりだ。
そう思った時、腕の中の赤子が目を覚ました。
澄んだ瞳が、私を見上げる。
泣きはしない。
ただ、不思議そうにこちらを見ている。
「起きたか」
赤子が小さく口を開けた。
「あぅ」
意味のない声。
それだけで、周囲の村人たちの表情が和らいだ。
「可愛い子だね」
子どもを連れた女が、そう呟く。
可愛い。
人間は赤子を見ると、よくその言葉を使う。
私には判断基準が分からない。
小さく、脆く、何もできない。
それだけだ。
だが、昨夜よりは顔色が良くなっている。
頬にもわずかに赤みが戻った。
「名前は?」
村長が尋ねた。
「ない」
「母親らしき方も、何も残していなかったのですか」
「この子だけは、と書かれた紙だけだ」
「名前がないままでは、教会へ届けるにしても困りますね」
「教会で決めればいい」
「道中、何と呼ぶんです?」
「赤子」
村の女たちから、非難するような視線を向けられた。
「…何だ」
「いえ…何でもありません」
村の女たちは明らかに何か、非難めいた視線を私に向けていた。
「おい、と呼んでも反応しないだろう」
そこでサナが口を挟む。
「名前で呼んでも、今はまだ反応はしないさね。でも名前は、その子がこの世界にいる証しになる」
「存在は記録すれば残る」
「じゃあ、記録を読めない者は、存在しなかったことになるのかい?」
私は答えなかった。
「名前は、誰かがその子を呼ぶためにあるんだよ」
「教会へ着くまでの数日だ」
「数日でも、その子はあんたと一緒にいる」
腕の中の赤子が、私の髪へ手を伸ばした。
指先が銀色の髪に触れる。
昨夜と同じように、それをつかんだ。
「……またか」
引っ張られる。
力は弱い。
痛みなどない。
「名前をつけてやりな」
「…なぜ私が」
サナは私を真っ直ぐな視線で見る。
「最初にこの子の声を聞いた」
「それは偶然だ」
「最初に抱き上げた」
「他に誰もいなかった」
「最初に乳を飲ませた」
「お前にやれと言われた」
「一晩中抱いていた」
「置けば泣いたからだ」
「それを世間じゃ、世話をしたと言うんだよ」
私は反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
【世話】
私が、人間の赤子を世話したと、サナはそう言った。
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