第7話 長い夜と村の答え(前編)
竜王との戦いは、三日三晩続いた。
北方に棲む氷竜の群れを退けた時は、七日間ほとんど休まなかった。
100年前、大精霊ルヴェンと契約を結んだ際には、互いの魔力が馴染むまで一か月ほど眠らずに過ごした。
それでも。
人間の赤子と過ごした一晩ほど、長い夜はなかった。
「……なぜ、また泣く」
夜が明ける少し前。
私は椅子に座ったまま、腕の中の赤子を見下ろしていた。
乳は飲ませた。
汚れた布も替えた。
室温は一定に保っている。
風も入らない。
簡易結界により、虫1匹すら近づけない。
寝具も清潔だ。
考えられる限り、何一つ問題はない。
それなのに、赤子は泣いていた。
『抱いて歩かれてはいかがでしょう』
寝台の脇に伏せたルヴェンが言った。
「先ほど30分ほど歩いた」
『その間は泣き止んでおりました』
「座った途端に泣いた」
『ならば、再び歩けばよろしいかと』
「私に夜通し歩けと言うのか」
『主であれば可能でしょう』
「……可能かどうかの話ではない」
『では、泣かせておきますか』
私は赤子を見る。
小さな顔を真っ赤にし、必死に泣いている。
理由は分からない。
分からないが、放っておくという選択肢は、なぜか選べなかった。
「……はぁ。仕方ない」
私は立ち上がった。
ゆっくりと部屋の中を歩く。
数歩進むと、赤子の声が少し小さくなった。
「本当に泣き止んだな」
『はい』
「なぜ歩くと泣き止む?」
『存じません』
「大精霊の知識とは、案外あてにならないな」
『では、主には理由がお分かりで?』
「…分からん」
『お互いさまですね』
ルヴェンの口元がわずかに上がっている。
腹立たしい。
◇
窓の外が少しずつ明るくなる。
白み始めた空の下で、麦畑が風に揺れていた。
一晩中、赤子を抱いていた。
こんなことになるとは思わなかった。
村まで運べば終わる。
人間へ渡せば、それで役目は終わる。
そう考えていた。
だが赤子は、村へ着いても私の髪や外套をつかんで離さなかった。
泣くたびに抱き上げ、歩き、乳を飲ませ、汚れた布を替えた。
その繰り返しで夜が終わった。
記録帳は、昨日の頁から1行も進んでいない。
『リュセル様』
「…何だ」
『お顔が少し緩んでおります』
「……緩んでいない」
『左の口元が』
「………風の戯れだ」
『室内ですが』
「黙れ」
赤子は私の胸元に頬をつけ、ようやく目を閉じた。
今度こそ眠ったらしい。
小さな呼吸に合わせ、身体がわずかに上下している。
「……人間は、どうしてこれほど手がかかる状態で生まれる」
『誰かに守られることを前提としているのでは』
「非効率だな」
『一人では生きられないから、他者との関わりを覚えるのかもしれません』
「それで争いを覚えるのなら、意味がない」
『争うことだけを覚えるわけでもありますまい』
私は返事をしなかった。
赤子の手が、私の外套をつかんでいる。
振り払おうと思えば、指一本動かす必要すらない。
それでも、この小さな手を外す気にはなれなかった。
やがて、扉の向こうから足音が聞こえた。
「まだ生きてるかい」
遠慮なく扉が開き、サナという名の老婆が顔を出した。
「誰に言っている」
「あんたに決まってるだろう」
「私が一晩程度で死ぬと思うか」
「赤ん坊相手に泣きそうな顔をしてたからね」
「泣いていない」
「そうかい」
サナは部屋へ入り、私の腕の中を確認した。
「眠ったね」
「ああ」
「夜は何度起きた?」
「数えていない」
「ざっとでいいよ」
「……乳を三回、あて布は二回。理由の分からない泣き方を六度。抱いて歩いた時間は合計で2時間と少しだ」
サナが目を瞬いた。
「……よく数えてるじゃないか」
「記録者だからな」
「その割に、記録帳は開いてないようだけど」
「片手が塞がっていた」
「なるほどねえ」
また妙な笑い方をする。
「何がおかしい」
「別に」
「用件は何だ」
「村の者を集めた。赤ん坊の今後について話すためさ」
私は腕の中の赤子を見る。
「引き取り手が見つかったのか」
「簡単にはいかないよ」
サナの顔から笑みが消えた。
「とにかく、広場へ来な。赤ん坊はそのままでいい」
「この赤子は寝台へ置いていく」
「せっかく眠ったのに起こす気かい」
「だが、話し合いに連れていく必要はない」
「あんたから離したら泣くだろうね」
「なぜ分かる」
「長年、子どもを見てきたからさ」
私は赤子を寝台へ下ろそうとした。
外套をつかんでいた手が強くなる。
顔を歪め、今にも泣き出しそうになった。
「……起きているのか」
「眠りが浅いんだよ」
「面倒だな」
「はいはい。そのまま連れておいで」
結局、私は赤子を抱いたまま広場へ向かった。
朝の村には、焼きたてのパンと家畜の匂いが漂っている。
昨夜は家の中からこちらを窺っていた村人たちも、今は広場へ集まっていた。
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