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人間嫌いのハイエルフ、父になる  作者: 小狐


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第6話 世界最強、育児に敗北する(後編)

 赤子の身体には術式が触れないよう、汚れた布と周囲だけを対象に指定する。


 淡い光は汚れた布から寝台へ走り、床と壁を伝って天井や薬草棚まで広がった。

 老婆の服を清めた光は窓の外へ抜け、積まれた薪の泥まで瞬く間に消していく。

 部屋中から染みや埃が消え、古びた家が建てられたばかりのようになった。

 老婆が目を丸くする。


 「……今のは、何だい」


 「王家秘伝の上位浄化術だ。呪毒や死霊の穢れすら消せる」


 「おむつ一枚に、何てものを使ってるんだい!」


 「…清潔になっただろう」


 「布を替えろって言ってるんだよ!」


 「なぜだ。汚れは完全に消えたぞ」


 「赤ん坊の肌に触れてた布は、新しいものに替えてやるんだっ!」


 「…結果が同じなら、魔法の方が早い」


 「何でも魔法で済ませるんじゃないよ!」


 「魔法を使えるのに使わない理由が分からん」


 「だったら次は、その魔法で赤ん坊を笑わせてみなっ!」


 老婆が新しい布を私へ押しつける。

 私は言われた通り、赤子の腰へ巻こうとした。

 緩いと言われて締め直すと、今度は強すぎる。形を整えれば、向きが逆だと返された。


 三度目で、ようやく老婆が頷いた。


 「……まあ、初めてにしちゃ上出来だよ」


 「当然だ。一度見た技術は再現できる」


 「その割には三度かかったね」


 「人間の布が非合理な形をしているせいだ」


 「はいはい」


 私は赤子を抱き上げる。

 乳を飲み、新しい布を巻かれた赤子は、先ほどより落ち着いていた。

 目を閉じ、私の胸元へ頬を寄せる。

 小さな手が、今度は私の外套をつかんだ。


 「眠ったのか」


 「まださ。しばらく静かに抱いておやり」


 「寝台へ置けばいいだろう」


 「今はあんたの腕の中が安心なんだよ」


 「なぜだ」


 「最初に助けてくれた匂いを覚えてるのかもしれないね」


 「赤子にそんな知能があるのか」


 「そういう理屈じゃないよ」


 理屈でないものは苦手だ。

 魔法には法則があり、精霊には属性がある。

 竜にさえ弱点がある。

 だが人間の赤子が泣く理由も、安心する条件も、私には判別できない。


 私は腕の中を見下ろした。

 赤子は穏やかに息をしている。

 先ほどまで泣き叫んでいたとは思えない。


 老婆が新しい布をたたみながら、私の腕の中を見た。


 「この子の親は?」


 「死んでいた」


 「……そうかい」


 「診療所の瓦礫の下で、女が守っていた。母親かどうかは分からない」


 「名前が分かるものは?」


 「何もない」


 「なら、この子にはまだ名前がないんだね」


 老婆が赤子の頬をそっと撫でる。


 「名前など、引き取り手が決めればいい」


 「それまでは何と呼ぶんだい」


 「赤子で十分だ」


 「人には一人ずつ名前があるんだよ」


 「…まだ決まっていないのだから仕方がない」


 「そうかい。なら、あんたが決めればいいさね」


 「私?……なぜ私が?」


 「あんたが最初にこの子を見つけたんだろう?」


 「…拾っただけだ」


 「だからさ」


 老婆はああ言ったが、それだけでは私が名を決める理由にはならない。

 村へ届けるために運び、老婆に言われた通り乳を飲ませ、布を替えただけだ。

 この赤子との関係は、今夜限りで終わる。


 明日になれば、村人たちが引き取り先を決める。

 私は再び旅へ出る。

 これまでの100年と同じように。


 『主よ』


 「何だ」


 『赤子が笑っております』


 腕の中を見る。

 赤子は眠ったまま、ほんの少し口元を緩めていた。

 これが笑った顔なのか。


 「……妙な顔だな」


 『主も同じ顔をなさっています』


 「していない」


 『風の戯れでしょうか』


 「黙れ」


 老婆は私たちを見て、ニヤリと笑った。


 「奥の部屋を使いな。今夜は冷える」


 「…世話になる」


 「朝までに、名前の一つくらい考えてやりな」


 「必要ない」


 「そうかい」


 老婆はそれ以上、何も言わなかった。


 私は赤子を抱いたまま、用意された部屋へ入る。

 部屋には小さな寝台と古い椅子があり、木枠の窓が麦畑へ向いていた。

 旅の途中で泊まった宿と、大差はない。

 違うのは、腕の中にいるものだけだ。


 赤子を寝台へ置こうとする。

 外套をつかむ手に力が入った。

 眠っているのに、離そうとしない。


 「……離せ」


 もちろん、返事はない。

 指を一本ずつ外そうとすると、赤子の顔が歪んだ。

 また泣き出しそうになる。

 外そうとしていた指を、元の位置へ戻した。


 「一晩だけだぞ」


 『どなたにおっしゃっているのです』


 「赤子だ」


 『言葉は通じません』


 「…分かっている」


 『明日には、村へ預けられるのですね』


 「そのつもりだ」


 『では、今夜だけ』


 「そうだ」


 『一時的な保護ですね』


 「……その通りだ」


 椅子へ腰を下ろす。

 赤子を抱いたまま、背を預けた。


 記録帳を開こうとしたが、片手ではうまく頁をめくれず、仕方なく閉じる。

 100年の旅で初めて、記録を書かずに一日を終えることになりそうだった。


 窓の外では、夜の風が麦畑を揺らしている。

 ルヴェンが寝台の脇へ身体を伏せた。

 赤子の寝息だけが、静かな部屋に響く。


 小さく頼りない寝息が、不思議と耳に残った。


 「…ルヴェン」


 『はい』


 「人間の赤子は、夜に何度起きるんだ?」


 『存じません』


 「老婆に聞いておくべきだったな」


 『今からでも間に合うのでは』


 「すでに眠った。朝まで起きない可能性もある」


 『そうですか』


 「ああ」


 答えた直後、腕の中の赤子が目を開けて顔を歪めた。

 そして、今日一番の大声で泣き出した。


 「なぜだ?!」


 扉の向こうから、老婆の声が飛んでくる。


 「赤ん坊は夜にも起きるよ! 当たり前だろう!」


 「先に言え!」


 「聞かなかったのはあんただよ!」


 『主よ』


 「何だ!」


 『竜王との戦いより、長い夜になりそうですね』


 私は泣き叫ぶ赤子を抱き直した。


 「……ルヴェン。老婆を起こせ」


 『その必要はございません』


 扉が開き、老婆がそのまま入ってきた。


 「まず立ちな。抱いたまま歩いてみるんだよ」


 竜王と向き合った時にも受けなかった指図に従い、私は赤子を抱いて椅子から立ち上がった。

読んでいただきありがとうございます。

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