第89話 世界樹を望む朝湯
翌朝、客人用の浴場へ案内されたセラは、湯船の手前で立ち止まった。
「……向こう、壁がないんですけど」
広い浴場の半分は、大樹の幹の内側に収まっていた。
丸く張り出す木の壁が天井へ続き、その下に満ちた湯が、外へ開けたもう半分までつながっている。
露天となった湯船には朝の日が差し、湯気がゆっくりと外へ流れていた。
「こちらから、世界樹をご覧いただけます」
案内の侍女が示す先には、木の欄干を隔てて湖が広がっていた。
浴場は地上から百メートルほどの高さにある。
昨日通った湖畔の道はずっと下で木立に隠れ、その向こうの水面には、世界樹の影が長く映っていた。
ここまで高く上がってきても、湖の中央に立つ幹はなお遥か上へ続いている。
空に広がる枝葉を仰いだセラの隣で、ニナも口を開けたまま動かなかった。
「こんなところで、お風呂に入るの?」
「姉さん、さっきからお風呂だって言われてるよ」
そう返したニナも、湖の方を向いたまま侍女に名前を呼ばれ、慌てて差し出されていた布を受け取った。
後ろから来たマルタは二人の間に立ち、湯船の先を眺めた。
「まあ……。これは、朝から贅沢なことですねえ」
身体を洗ってから、三人は湯へ入った。
マルタが肩まで浸かると、長くゆっくりと息を吐いた。
セラもその隣へ腰を下ろし、湯の中で足を伸ばす。
朝の風が湯気を払うたび、湖面を照らす光が見えた。
木の内側には水音が響いていたが、露天の方まで来ると、頭上の葉の擦れる音も聞こえる。
「大樹の家のお風呂も広いですけど、これは……」
セラはそこまで言って、湯船の向こうを眺めた。
三人が暮らす大樹の家にも、大きな風呂がある。
水のネレアと火のカーナが湯を整えてくれるため、湯を運んだり、冷めるのを気にして急いだりする必要もなかった。
「帰ったら、水のネレアに話してあげよう」
「窓を大きくしてって頼むの?」
「違う、違う。こんな景色だったって」
ニナは両手で湯をすくい、指の間から落ちるのを見ていた。
やがて手を沈めると、湯船の縁へ少し近づいて、また湖の方を向いた。
セラは湯の中の腰掛けに背を預け、縁に頭を乗せていた。
そして妹が座り直すのを見て、にやりと笑う。
「ふふふ。あんた、まだまだだね」
「……まだまだこれからだから。それに私、お姉ちゃんみたいに牛みたいなのは目指してないし」
「誰が牛よ」
セラが起き直すと、湯が揺れてニナの肩へ届いた。
ニナは笑いながら、顔にかかった雫を拭った。
「二人とも。ここは家のお風呂ではありませんよ」
マルタに言われ、姉妹はそろって口を閉じた。
湯が静まる頃には、セラもまた背を預けている。
今度はニナも隣へ腰を落ち着け、姉のように頭を乗せる代わりに、世界樹を正面にして座った。
「マルタさん、私たちはリーネ様のお支度を手伝わなくてもいいんですか」
「殿下がおそばについていらっしゃいます。王城の方にお願いしてありますから、私たちもゆっくりさせていただきましょう」
セラが頷くと、マルタは湯の中で手足を伸ばした。
しばらく三人は話さずにいた。風が通ると湯から出た顔が涼しくなり、肩まで浸かっている身体には温かさが続く。
湖の上を渡る鳥が、欄干よりも低いところを飛んでいった。
ニナが指さすと、セラは頭を起こさずに目で追い、マルタもその行方を眺めた。
「……もう少し、入っててもいいですよね」
セラの問いに、マルタは笑って答えた。
「ええ。私も、そう思っていたところです」
◇
私の湯浴みは、リーネより先に済ませてあった。
朝食前に湯で身を清めるのは、王族のたしなみだ。
そもそもエルフの暮らしに、風呂は欠かせない。
森の家でも湯に浸かるが、故郷へ帰れば、昔から使っていた浴室が用意されていた。
ただし、今朝そこに運び込まれた小さなバスタブは、私のためのものではない。
「リーネ様、お湯はいかがですか」
侍従に支えてもらいながら、リーネが湯をぱしゃりと叩いた。
大人用の湯船とは別に、リーネの身体に合うものを用意させてある。
私はすぐ脇の椅子に座り、布を手にしたもう一人の侍従が、バスタブのそばで待っていた。
マルタたちには、リーネはこちらで見るから湯を楽しんでくるよう伝えておいた。
「うん」
返事をしたリーネが、もう一度湯を叩いた。
跳ねた雫が、私の手の甲へかかる。
濡れた手を見せると、リーネは声を上げて笑った。
「私まで洗わなくてよい。もう済ませた」
するとさらに声を上げて笑い、リーネは私の手へ自分の手を重ねた。
温かな雫が手首へ伝ってくる。
侍従はその間に、遊び続けるリーネを洗っていた。
「では、髪を流しますね」
髪に湯が触れると、リーネが顔をしかめた。
私の手に重ねていた指が閉じ、こちらを呼ぶ。
「りゅー」
「ここだ。手は離さない」
椅子を寄せて顔を近づけると、リーネは私を見たまま顎を上げた。
侍従が額へ布を添え、髪の湯を後ろへ流す。
私の指を握る手には力が入っていたが、リーネは顔を伏せずに待っていた。
湯を流し終えて布が離れても、しばらくは同じ格好をしている。
「もうよいぞ」
声をかけると、リーネは目を瞬かせた。
空いている手で自分の髪に触れ、それから私の手を離して湯へ戻す。
また遊ぶつもりらしく、掌で水面を押した。
「洗い終わったから、上がるぞ」
「りゅー、だっこ」
湯から出るのは嫌がらず、今度は両手を私へ伸ばしてきた。
私は立ち上がってリーネを抱き取り、待っていた侍従に布で包んでもらった。
布から出た手が私の襟をつかみ、頬が肩に触れる。
「リーネ様は、お疲れになりましたか」
「まだ起きたばかりだ」
そう答えて顔をのぞくと、リーネは目を開けたまま、侍従が片づけるバスタブを見ていた。
布で拭いてもらったリーネを侍従へ預け、服を着せてもらう間、私はそばで待った。
リーネは最後の袖を通すまで、湯を運び出す方へ顔を向けている。
着替えが済んだリーネを抱き取ると、今度は浴室の出口を指した。
「みんな?」
「ああ。朝食にしよう」
扉の外では、ルヴェンが待っていた。
その姿を見つけると、リーネが私の腕の中から手を伸ばす。
ルヴェンは尾先を差し出し、触れられるままにしていた。
『ずいぶんご機嫌ですね』
「私の手まで洗ってくれた」
『それは、丁寧にお世話をしていただいたようで』
リーネは尾の毛を撫で、それから自分の手を私へ見せた。
私はその手を握り、侍従の案内で朝食の部屋へ向かった。
◇
私たちのために用意された食事の部屋には、焼いたパンと温かなスープが並んでいた。
イレナはすでに身支度を整えて待っており、マルタと姉妹もほどなく入ってきた。
セラは席へ来る間も、ニナへ浴場から見た景色のことを話している。
「姉さん、私も一緒に見たよ」
「分かってるけど。あの高さでお風呂に入るなんて、昨日は思わなかったもの」
リーネを幼児用の椅子に座らせ、私とマルタもその両隣へ着いた。
手を伸ばしてくるリーネへ、食べやすくちぎったパンを渡す。
マルタがスープを冷ましている間に、私も自分の朝食へ取りかかった。
「風呂はどうだった」
「とてもよいお湯でした。あんな眺めを楽しみながら、朝からのんびりさせていただけるとは」
マルタの返事に、セラも頷いた。
「世界樹を見ていたら、なかなか上がれなくて」
「姉さん、途中で目を閉じてたじゃない」
「最後はちゃんと見てたでしょ」
私はスープを飲みながら、二人のやり取りを聞いていた。
リーネもパンを持ったまま、声のする方へ顔を向けている。
食事が進んだ頃、エルディンが部屋へ来た。
「殿下。祈り葉守ネフェリアより、朝食をお済ませの後、社へお越しいただきたいとのことです。大祭の打ち合わせをお願いしたいと」
「ああ。食べ終えたら向かうと伝えてくれ」
エルディンが礼をして下がると、セラがパンを置いた。
「社というのは、世界樹のところですか」
「麓にある。お前たちも一緒に来るとよい」
「おそばまで行けるんですね」
セラはニナへ笑いかけ、ニナも頷いた。
私も朝食を済ませ、リーネが残りのパンを食べ終えるのを待った。
マルタがリーネの口と手を拭いてくれたので、椅子から抱き上げる。
イレナが扉へ向かい、外で待つ侍従へ声をかける。
私もルヴェンを伴って席を離れた。
「では、行くか」
廊下へ出ると、リーネはついてくる三人へ手を振った。
セラが手を振って応え、ニナとマルタもその後に続く。
朝の光が差す廊下を、世界樹の麓へ向かう案内の者について歩き出した。
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