第86話 今年こそ、お迎えを
「外環が用意した休憩場所は、街道の南側がまだ足りません」
ハイエルネリア王宮の執務室で、ネフェリアは国王夫妻へ大祭の準備状況を報告していた。
王家直属侍従のエルディンが、夫妻の後ろに控えている。
ネフェリアは淡い灰緑色の髪を一本に編み、白とくすんだ緑色の祭務衣を着ていた。
胸元に留めた飾りは、七枚の葉を組み合わせたものだ。
世界樹の祭祀を預かる祈り葉守であり、今回は七葉の座を横断する大祭環の実施責任者も務めている。
増える帰郷者のため、中環は水と休息場所を追加し、外環は空いた場所への案内を進めている。
ネフェリアが社の準備へ報告を移したところで、扉の外から取り次ぎを求める声がした。
国王の許しを受けてエルディンが迎え入れた侍従は、関所からの報告書を彼へ渡すと退室した。
「リュセル王太子殿下のご帰還が、関所で確認されました」
エルディンは、関所責任者が本人と確認したこと、ルヴェンと、殿下が身元を保証した人間五名が同行していることを伝えた。
幼い女児もいると聞くと、王妃が身を乗り出す。
「リーネも一緒なのね?」
「はい」
王妃は国王へ顔を向けた。
「よかった。あの子だけ先に帰ってきたのでは、困ってしまうもの」
「あれがリーネを置いてくるとは思えぬがな」
「そうだけれど、ちゃんと聞けて安心したわ」
エルディンが報告を続けた。関所での争いや負傷はなく、一行には先導一名と前後の護衛が付いている。
ただ、王族用ペガサス空客車も賓客用の部屋も、リュセルは辞退していた。
「これまでお使いの箱馬車で、首都へ向かわれております」
「そうだろうな」
国王はそう応じ、首都へ入る前に新たな報告が届いたら、すぐに知らせるよう命じた。
ネフェリアも、以前から用意していた王太子出席時の進行を主に戻すと伝えた。
国王の許可を得て、大祭環への連絡は社へ戻ってから行うことにする。
「エルディン、リーネを迎える用意はお願いね」
「王家の内庭で、リーネ様のお部屋も引き続き整えております」
「到着したら、すぐ知らせてちょうだい。急がせなくていいけれど、私への連絡を後回しにしては駄目よ」
エルディンが承知すると、王妃は笑みを浮かべた。
「あの子が戻ってきて、リーネもここへ来るのね。楽しみだわ」
◇
王宮での報告を終え、ネフェリアは世界樹の麓にある社へ戻った。
社の背後には世界樹がそびえ、その麓で大祭環の者たちが帰郷者を迎える場所を整えている。
帰郷者や住民に続き、王家が最後に葉を捧げる場所では、内環の担当者が仲間と進行表を広げていた。王太子が出席する場合と、不在の場合の二通りが用意されている。
ネフェリアは彼らのところへ行き、王宮で聞いた知らせを伝えた。
「王太子殿下が国境を越えられました。今、首都へ向かわれています」
「では、今年は殿下をお迎えできるのですね」
進行表を広げていた担当者の声が弾んだ。周囲からも、帰還を喜ぶ声が上がる。
「ええ。お迎えする準備を進めましょう」
担当者は出席用の進行表を開き直し、仲間たちとの確認を再開した。
作業へ戻ってからも、殿下の帰還を話す声が聞こえてくる。
直近三回の大祭でも、ネフェリアは王太子を迎える準備をしていた。けれど三回とも欠席となり、そのたびに進行を組み替えることになった。
今年こそ、用意した進行で殿下をお迎えしたい。
ネフェリアは外環へ、帰郷者の往来を妨げずに一行を迎えるよう伝えた。中環には、王太子が保証した人間五人を離さず王家の内庭へ引き渡すことと、必要に応じて水や休息場所を用意することを任せる。
やがて内環の確認も終わり、担当者が出席用の進行表を残して、不在用の方を片づけかけた。
「不在の際の進行も、残しておいてください」
担当者は進行表を手元に残したまま尋ねた。
「もう、お戻りになるのにですか」
「王太子殿下がお戻りになったことと、式次第どおり動かれることは、別の問題です」
◇
世界樹を見つけてからも、リーネは私の膝の上で窓に向かっていた。
道に沿って立つ木々が流れていく。その隙間に大きな幹が見えるたび、窓に添えた小さな手が持ち上がった。
箱馬車は同じ調子で進んでいる。
客室には車輪と蹄の音が続き、向かいの席ではルヴェンが身体を丸めていた。
しばらくすると、リーネの背中が私の胸へ寄りかかってきた。
そのまま窓を眺めていたが、木々の切れ間が来ると、また身体を起こそうとする。私は腰を支えた。伸び上がりかけたところで、小さなあくびが出る。
「眠いなら、寝ていてよい」
リーネは首を横に振った。
まだ外を見たいらしく、窓を指して私を振り返る。
「分かった。ここからでも見える」
私はリーネを少し横向きに抱え、身体を預けたまま窓へ顔を向けられるようにした。
リーネはその姿勢で落ち着き、私の服をつかんだ。指していた手は下ろしたものの、顔はまだ外を向いている。
『三十年ぶりの故郷なのに、主は先ほどからリーネ様ばかりですね』
ルヴェンが言った。
「見慣れた景色だ」
『リーネ様のお顔も、毎日ご覧になっていますが』
私の腕に、リーネの身体がいっそう深く収まった。
「りゅー」
窓からこちらへ顔を寄せ、服をつかんだまま呼んでいる。
私は声を抑えて答えた。
「ここにいる」
ルヴェンへの返事は、それきりになった。
リーネはもう外を指さなかった。私に身体を預けて、馬車の揺れに一緒に揺られている。
窓を流れる木々を眺めながら待つうちに、腕の中から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
私は眠ったリーネを抱き直し、座席に腰を落ち着けた。
服をつかんでいた手も緩んでいる。
ルヴェンは話の続きを持ち出さず、丸めた身体に顎を乗せた。
窓の外では、木々の向こうに世界樹の幹が見えている。
私は眠ったリーネを抱いたまま、首都へ続く道を揺られていった。
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