第85話 遠くの世界樹
関所のざわめきが後ろへ遠ざかるにつれて、箱馬車の床がわずかに傾いた。
道が緩やかな上りへ変わったのだ。
木人は四頭の歩調を崩さず、前を行く先導役との間隔を保っている。
客室には、蹄と車輪の音が幹の奥から返ってきた。
私の膝に収まったリーネは、側面窓の外を見ていた。
窓のすぐ向こうを、深い筋の刻まれた樹皮が流れていく。曲がり角を過ぎると木の壁は離れ、今度は地中からせり上がった根が道の下へ潜り込んだ。
その先では、別の幹が斜めに立ち上がっている。
頭上で枝が重なり、一方の幹へ食い込んだ境目は、長い年月のうちに一つへ癒着していた。
関所を内包していた巨大樹は、正確には一本の木ではない。
幾本もの古い巨木が幹と根を絡ませ、枝で互いを支えながら、外から一つに見えるほど大きな姿を作っている。
リーネが窓へ片手をつき、近くを通る根から頭上の枝へ顔を上げた。
私は腰へ回した腕を動かさず、身体が揺れに持っていかれないように支える。
幹と幹が離れた場所へ差しかかると、上方まで続く道が見えた。
太い枝の付け根を回り込み、さらに別の幹の陰へ消える道を、荷を引く馬が歩いている。
「まだ上に道がある……」
セラの声につられ、ニナも同じ窓から上を見た。
下から見上げると、幅広い街道が絡み合う巨木の内側を螺旋状に巡り、はるか上まで続いていた。
徒歩の者も馬車も通れる緩やかな坂道だ。
幹の内側を抜け、根の上を渡り、枝の付け根を大きく回りながら、中層へ向けて少しずつ高度を上げていく。
前方から下りてきた荷車が、広い道の反対側を通り過ぎた。
徒歩の者も馬を引く者も、同じ巨木の中を行き来している。
マルタは荷車を見送った後、窓の上まで続く道を仰いだ。
「これは……街道なのですね」
「そうだ」
ニナは姉の袖を引き、頭上ではなく窓の近くへ現れた大きな空洞を示す。
そこから差し込む光が、進むほど広がっていった。
次の曲がりを抜けた瞬間、幹に囲まれていた右側の景色がなくなった。
蹄の響きはもう木の内側へ返らず、外から入った風が客室の窓に散っていく。
街道は、絡み合う巨木の外周へ出ていた。
幹から張り出した太い根が道の外側に沿って盛り上がり、その下では枝の付け根が幅のある路面を支えている。
四頭立ての箱馬車が進んでも余裕があり、先導役も速度を落とさない。
その根の向こうに、関所まで進んできたローディネル王国が広がっていた。
森は濃淡のある一面の緑となり、その間を細い街道が通っている。
さらに先には平原が続き、遠くの土地は傾いた日の光の中へ霞んでいた。
「……あれ、道ですよね」
セラが窓枠へ手を置いたまま尋ねる。
「たぶん。人も馬車も、ここからじゃ見えないけど」
答えたニナの声は、普段より小さかった。
マルタも窓へ近づいたが、すぐに座席の背へ手を戻す。
「まだ上るのでございますか」
「もう少しな」
開いたままの連絡小窓から、イレナの声が届いた。
「承知いたしました。道幅も、四頭の歩調も問題ございません」
リーネは声を出さず、根の向こうに広がる景色を見ていた。
遥か下の森と街道を見た後、今度は箱馬車より高く伸びる幹を見上げる。
私はこの道を昔から何度も通ってきた。
人間の大地が小さく見える場所も、この先で再び木々の間へ入ることも知っている。
リーネの身体が窓へ寄ったため、腰へ回した腕で座席の内側へ戻す。
外周をしばらく進むと、道は隣り合う二本の幹の間へ入った。
風が弱まり、蹄の音が再び木々の間へ響き始める。
頭上を覆う枝の隙間から、小さな精霊たちが光を引いて横切った。
リーネはその動きを追って身体をひねり、見えなくなった場所へ指を伸ばす。
「精霊だ」
リーネは指を伸ばしたまま、枝の隙間を見上げている。
次の隙間へ別の光が現れると、リーネは伸ばした指をそちらへ移した。
道は太い根に支えられた区間を抜け、一本の枝の上を大きく回った。
その先で上りが緩やかになり、やがて箱馬車の床から傾きが消える。
絡み合う最後の根を越えると、木々の向こうへ空が大きく開く。
箱馬車は、人間世界より高い位置に広がるハイエルネリアの上部国土へ出た。
上部国土へ出た先も、平坦な大地ではなかった。
外縁の高地から内側へ大地が大きく下がっているが、その間には高い尾根が突き出し、深い谷と裂け目が幾重にも走っていた。
森は斜面を覆い、谷底にも巨木が立っている。
中央へ向かう大地は、沈んでは持ち上がり、また別の谷へ落ち込んでいた。
先導役が入った道も、ほどなく深い谷の前へ出る。
谷底から斜めに伸びた巨木の幹が対岸まで届き、その広い上面には土が敷かれ、幅広い街道として使われていた。
木人は先導に続き、四頭をその幹の上へ進ませる。
土と落ち葉に覆われた路面はなだらかで、箱馬車の揺れも、それまでの道と変わらない。
「木が、向こうまで……」
セラが谷の先へ身を寄せると、ニナがすぐに姉の服をつかんだ。
「姉さん、窓から出ないで」
「出てないよ」
「今から出そうだった」
リーネは二人の声に振り返った後、すぐ窓の外へ戻る。
幹の下では、別の巨木から伸びた枝が重なり、谷を渡るもう一本の道を作っていた。
その上を歩くエルフが、こちらの先導と護衛に気づいて足を止める。
箱馬車が近づくと道の内側へ寄り、胸へ手を当てて頭を下げた。
私は返礼し、木人は速度を変えずに通り過ぎる。
リーネは遠ざかる長い耳へ手を上げかけたが、谷の上を舞う精霊の光に気づき、そちらを追い始めた。
谷を越えた後も、道は尾根を回り、根の間を抜けて中央方向へ進んだ。
右側を覆っていた森が途切れ、街道が大きく曲がる。
窓の向こうへ、ハイエルネリアの内側が一度に開けた。
高い外縁に囲まれた大地は、中央へ向かって大きく窪んでいる。
縁は入り組み、内側へ長く伸びた尾根の間には森と谷が重なっていた。
その向こうにも大地が続き、さらに遠いところで一つの幹が立ち上がっている。
これほど遠くからでも、幹の輪郭ははっきりと見えた。
周囲の巨木が森の一部として重なる中、その一本だけが地上から空の高みまでを占めている。
根元の周囲には広い大地が続き、枝は空の広い範囲へ伸びている。
巨大な樹冠は雲と重なっていた。
リーネは窓へ置いていた手をゆっくり持ち上げ、小さな指をその巨樹へ向ける。
私は指先の向こうを見た。
箱馬車は先導と護衛を伴ったまま、その方角へ続く街道を進んでいる。
私はリーネの腰を支えたまま、遠くに立つ樹の名を教えた。
「あれが世界樹だ」
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