第83話 関所
休憩場所を発った箱馬車は、再びハイエルネリアへ続く街道を進んでいた。
傾いた日の光の下、四頭の蹄が一定の間隔で土を踏んでいく。
休憩を終えて再び走り出すと、セラが側面窓へ身を寄せた。
「リュセル様の故郷、もう見えるかな」
「姉さん、そっちの窓からじゃ、前は見えないよ」
「分かってるよ。でも、もう近くまで来てるなら、何か見えるかもしれないでしょう?」
リーネも木の馬を止め、セラと同じ窓へ顔を向けた。
ニナが答える前に、連絡小窓の向こうからイレナの声がした。
「リュセル様。あちらが、ハイエルネリアでございますか?」
「ああ」
やがて街道が大きく曲がった。
これまで前方にあったものが、側面窓の向こうへ現れる。
人間の国の地平より、さらに一段高いところに別の大地が広がっていた。
山ではない。
大地そのものが高く持ち上がり、その縁が視界の果てまで続いている。
その上を覆うのは森だ。
人間の国で見てきた木々より二倍以上はある巨木が立ち並び、幾重にも重なった樹冠が地平線の向こうまで途切れずに延びていた。
「あの上が、全部森なんですか……?」
セラが窓へ近づき、上方へ顔を向ける。
「山の上に森がある、というのとは違うのですね」
マルタもリーネの後ろから外を見上げていた。
リーネは窓ガラスへ片手をつき、高い大地の上に並ぶ木々へ指を伸ばす。
「おっきい」
「そうだな」
私には、見慣れた故郷の景色だ。
だが、リーネがこれほどの森を見るのは初めてらしい。箱馬車が揺れても窓から離れようとしないため、背に添えた手はそのままにしておく。
「地面そのものが、あれほど高いのですか?」
イレナが前方を確認したまま、連絡小窓から尋ねた。
「人の国より、およそ一キロ高い」
「そんなに……」
声を漏らしたのはニナだった。
彼女は高い大地の縁を窓から追ったが、左右のどちらにも終わりは見えない。
「入口は、どこにあるのでしょうか」
「国土の四方にある。この街道も、その一つへ続いている」
答えている間にも、箱馬車は高い大地へ近づいていく。
街道を行くエルフの数は、先ほどまでよりさらに増えていた。
一人で荷を背負う者もいれば、数人で馬を引く者もいる。
幌を掛けた馬車には、家財らしい荷を高く積んだものもあった。
長い旅で裾の擦れた外套をまとう者もいれば、人間の町で仕立てたと分かる上着を着た者もいる。
身につけたものは異なっていても、全員が同じ入口を目指していた。
木人は歩く一団との間を空けて進み、道幅が広がったところでゆっくりと追い越した。
リーネは近くを通る長い耳を目で追い、その先へ続くエルフたちへ指を向ける。
「いっしょ」
「ああ」
十年に一度の大祭が近づけば、珍しい光景ではない。
各地で暮らす者たちが、今だけは同じ故郷へ帰ってくる。
箱馬車も、その流れの中を進んだ。
高い大地の最下部が迫るにつれて、街道の先に一本の樹が見えてきた。
近づくほど、その幹が視界を占めていく。
根元から幹の下部へかけて巨大な空洞が開き、人も馬も、箱馬車さえも余裕を持って入れる道が通っていた。
「あの樹が、入口なのですか?」
イレナの問いが、連絡小窓から届いた。
「ああ」
石の城壁も、鉄の門もない。
生きた巨大樹の中へ街道が入り、その内側に関所が置かれている。
入口の前には、帰還したエルフたちの列が続いていた。
大祭を前にして相当な数が集まっているが、押し合う者も列を乱す者もいない。
関所の兵たちは声を掛け、徒歩の者、馬を連れた者、馬車を一組ずつ先へ通していた。
木人が速度を落とし、前の馬車との間隔を保って巨大樹の空洞へ入る。
内部では、帰還したエルフが幹から張り出した根へ手を触れていた。
触れた場所へ淡い光がにじむ。
光が幹へ吸い込まれると、そばに立つ兵が頷き、その者を先へ通した。
次のエルフも同じように根へ触れる。
今度は光とともに、精霊の気配がわずかに揺れた。
「通行証を出している方がいませんね」
イレナも御者台から確認していたらしい。
「王国のような通行証は、必要ないのでしょうか?」
「ここでは、国境の樹と精霊が確かめる」
私は、根へ手を触れたエルフを見る。
「エルフであること。それから、何かで姿を偽っていないことをな」
「では、私どものような人間は、どうなりますか?」
前の馬車が進み、木人も四頭を少しだけ前へ動かした。
「こちらで身元を保証する者か、正式に招いた者が要る」
「今回の私どもは?」
「私が保証する」
イレナは「承知いたしました」と答え、前方へ向き直る。
列は滞りなく進み、私たちの箱馬車も確認場所へ近づいていった。
先頭にいた関所兵が片手を上げる。
木人はその合図に従い、四頭と箱馬車を指定された位置で止めた。
関所兵は御者台へ近づき、イレナの短い耳に気づいたところで足を止める。
別の兵が箱馬車の前へ回り、さらに二人が身体をこちらへ向けた。
そのうちの一人は、腰の武器へ手を添えている。
人間が、帰還するエルフたちの列に交じって国境まで来たのだ。
誰の客か分からない以上、警戒するのは当然だろう。
最初の兵が御者台へもう一歩近づく。
そこで、四頭分の手綱が動いた。
握っているのは、人間の手ではない。
枝を束ねた指の先で手綱を整えた木人には、目も鼻もない。
その顔は、関所兵の方へ向いている。
兵の口がわずかに開いた。
武器へ添えられた手は残っている。
馬車の前へ回った兵も、木人の指先へ視線を留めたまま進路を塞いでいた。
「……所属と入国の目的を」
最初の兵は木人を横目にしたまま、問いを続けた。
「それから、誰の保証で入るつもりだ」
イレナは御者台から落ち着いて答える。
「ローディネル王国、グレイフェル辺境伯家直属、イレナ・ヴァルクと申します」
武器へ触れていた兵は、その答えを聞いて手を柄から離した。
イレナは姿勢を変えず、続ける。
「リュセル様のご帰還に同行しております」
関所兵から返事がない。
「……リュセル?」
兵は御者台のイレナへ問いを重ねた。
「どこのリュセルだ」
開いたままの連絡小窓から、その声は車内まで届いていた。
私は最後部の座席から立ち、リーネを抱き上げた。
木の馬は座席へ残し、リーネの身体を両腕で支えて戸口へ向かう。
マルタが私の到着に合わせ、内側から扉を開けた。
リーネを抱いたまま地面へ降りる。
私は御者台の横に立つ関所兵へ向き、問われたことへ答えた。
「ここのリュセルだが」
関所兵の目が大きく開いた。
今度は、私の名を聞き返さない。
口を開いたが、声は出なかった。
私の腕にはリーネがいる。
開いた扉の奥にはマルタがおり、その後ろにはセラとニナもいた。
関所兵は、しばらく声を出さなかった。
「…………は?」
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