第79話 また一つ、伝説が生まれたみたいです
リュセルたちが宿を出ていった直後、物音を聞きつけたセラとニナが客室へ駆け込んできた。
二人が奥の寝室へ入り、何があったのか尋ねても、すぐに答える者はいなかった。
マルタはリーネを抱き、ルヴェンは寝台のそばで尾を丸めている。
廊下へ続く扉は、先ほど閉じられたままだった。
セラがその扉を見た。
「……大丈夫でしょうか」
『街が灰燼と化さぬことを祈るのみですね』
ルヴェンは穏やかな声で答えた。
マルタもセラもニナも、ルヴェンを見た。
『もっとも、この宿は私が守護しておりますので、ご安心ください』
三人はそろって口を閉じた。
マルタの腕の中で、リーネが扉の方へ身体を向ける。
「りゅー」
「私がおそばにおりますよ」
マルタが抱き直しても、リーネは扉を見ていた。
ルヴェンが白銀の尾を近づけると、一度は毛を握ったものの、すぐに手を離してしまう。
セラがリーネの顔の見えるところまで寄り、ニナも反対側から呼びかけた。
それでもリーネは口を尖らせ、マルタの服を握ったまま扉へ顔を戻す。
リーネはもう一度、リュセルの名を呼んだ。
その時、床の下を這うような音が遠くから響いた。
セラとニナが窓の方を向く。
続いて巨大な轟音が街を揺らし、窓枠と卓上の水差しが震えた。
マルタは反射的にリーネを胸へ寄せる。
セラは窓へ近づいたが、建物の向こうで何が起きたのかまでは見えなかった。
ルヴェンだけは耳を立て、音のした方へ向けている。
『……始まったようですね』
三人から返事はなかった。
◇
宿へ戻る道は、先ほどよりも人であふれていた。
居館の方角へ駆けていく者もいれば、通りの途中で立ち止まり、建物の屋根越しに伸びた大樹を見上げている者もいる。
だが私が進むと、誰も前には出てこなかった。
隣を歩くイレナも口を開かない。
まだ呼吸が整い切っていないのか、時折深く息を吸っていた。
宿の前には、拘束された兵士を見る者と、騒ぎを聞きつけた冒険者が集まっている。
私はその間を通り抜け、宿へ入った。
受付にいた宿主人が、私を見るなり帳面を取り落としかけた。
「リーネは?」
「に、二階のお部屋に……」
それだけ聞けば十分だ。
階段を上がり、割り当てられた客室の扉を開ける。
奥の寝室で、マルタに抱かれていたリーネがこちらを向いた。
「りゅー!」
私へ向けて両腕が伸びる。
すぐにマルタの前まで進み、差し出されたリーネを受け取って胸へ抱いた。
リーネは私の衣を両手でつかみ、身体を預けてくる。
一度顔を上げ、私の顔を見てから、また胸元へ額をつけた。
「どうした」
返事の代わりに、衣を握る指へ力が入る。
「もう大丈夫だ」
背へ手を当てると、リーネは離れようとしなかった。
「豚のところへ行っていただけだ。もう済んだ」
リーネは私の声を聞く間も衣をつかみ、話し終えると胸へ頬をつけた。
寝台のそばにいたルヴェンが、尾を足元で丸く折りたたんだまま尋ねる。
『主。街は残りましたか?』
「何を言っている。壊したのは豚の住処だけだ」
マルタとセラとニナが同時に口に手を当てた。
遅れて部屋へ入ったイレナは扉を閉め、その場で長く息を吐く。
私は豚の住処を壊しただけで、街には手を出していない。
居館の中にいた者も根で守った。
豚も、イレナが止めたため生きている。
何もおかしなことはない。
外では今も、人が走る音と大声が続いていた。
宿の中まで聞こえる騒ぎより、腕の中のリーネの方が気にかかる。
マルタが腕を伸ばした。
「お預かりいたしましょうか」
リーネは私の衣を握り直した。
「このままでいい」
夕食は客室へ運ばせた。
リーネを膝へ乗せたまま席につき、空いている手で食事を取る。
マルタがリーネの食事を口へ運ぶ間も、私の衣から手は離れなかった。
食べ終えて皿が下げられた後も、私の膝へ身体を預けている。
窓の外が暗くなっても、街の騒ぎは収まらない。
遠くで誰かが叫ぶたび、リーネは顔を上げたが、私が名を呼ぶと胸元へ戻った。
やがて大きなあくびが出る。
衣を握っていた指が、一本ずつ緩んでいった。
マルタはすでに寝具を整えている。
私は寝台のそばへ座り直し、リーネの背を一定の間隔で叩いた。
「ここにいる」
瞼が閉じる。
外の騒ぎが続く中、リーネの呼吸だけがゆっくりと整っていった。
衣を握っていた指が開いても、すぐには寝具へ下ろさない。
もう一度名を呼んでも、返ってきたのは寝息だけだった。
そこでようやく、リーネを寝具へ横たえた。
◇
翌朝、私たちは予定どおりオルディナを発つことにした。
マルタがリーネの朝の世話を終え、セラとニナは客室に残っていた荷をまとめる。
イレナは先に馬車置き場へ下り、四頭へ馬具をつけ、車輪と車体の周りを歩いていた。
私はリーネを抱いて階段を下りる。
リーネは木の馬を持ち、マルタが布の鳥を持って後ろからついてきた。
受付の前を通ると、宿主人が深く頭を下げて口を開いた。
私は一度だけ頷き、そのまま外へ出る。
宿の前には、出発を待つ箱馬車と四頭が並んでいた。
木人は御者台で手綱を持ち、イレナは車体と馬具のつなぎ目を一つずつ引いて最終確認を行う。
通りの屋根の向こうには、昨日まで存在しなかった大樹がそびえていた。
朝の光を受けた樹冠が、街の建物を覆うほど広がっている。
リーネが木の馬を握ったまま腕を伸ばした。
「おっきい!」
「そうだな」
イレナは留め具を握ったまま、大樹を見上げた。
数秒後、馬車へ顔を戻すと、同じ留め具をもう一度引く。
私はリーネを抱いたまま、先に箱馬車の客室へ乗り込んだ。
側面窓に近い座席へ座り、マルタから布の鳥を受け取ってリーネの隣へ置く。
マルタに続いてセラとニナが乗り込み、最後にルヴェンが客室へ入った。
全員が席へ着くと、イレナが客室の扉を閉め、御者台の空いた側へ上がる。
木人が手綱を動かし、四頭が歩き始めた。
宿の周囲には、昨日より多くの冒険者と住民が集まっていた。
箱馬車が通りへ出ると、人の列は城門へ向かう道の両側まで続いている。
顔を強張らせた者は、箱馬車が近づく前に道の端へ下がった。
対して、武器や防具を身につけた冒険者たちは、こちらへ向かって声を上げた。
「大樹のリュセルだ!」
「伝説の踏破者だ!」
「昨日の大樹を見たか! あれを一人でやったんだぞ!」
朝から騒がしい連中だ。
マルタが側面窓を開けると、リーネは窓枠へ手を置いた。
私は隣から身体を支え、外へ落ちないようにする。
道の端にいた冒険者が、リーネへ手を振った。
リーネも片手を上げ、左右へ動かす。
歓声が一段大きくなった。
「おおおおっ!」
「リュセル様!」
「またオルディナへ来てくれ!」
「……本当に朝から騒がしい連中だ。これだけは昔と何も変わらない」
リーネは私の言葉が終わる前に、もう一度手を振った。
止める理由はない。私はリーネの身体を支えたまま、城門まで窓を閉じずにおく。
門を抜けると、街路の喧騒が少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
城壁の向こうには、巨大な樹冠だけがまだ見えている。
箱馬車が街道を進み、道が曲がると、大樹も建物も窓の外から消えた。
◇
その後――。
統治責任者の居館跡から瓦礫が撤去されても、《天樹顕界》の大樹が切り倒されることはなかった。
街のどこからでも見えるほど巨大であり、何より、百二十年前に史上初の完全踏破を成し遂げた一人、大樹のリュセル本人が生み出した木である。
その由来は、居館が崩れた時の音を聞いた者、巨大樹が空へ伸びる光景を見た者、そして騒ぎの一部始終を知る者たちによって街中へ広がっていく。
やがて根元の周囲は、人が歩けるように整えられる。
中央広場に立つ四人の踏破者像とは別に、巨大樹もまた、オルディナを訪れた冒険者や旅行者が見物に来る場所となる。
時代が過ぎれば、新しく街へ来た者へ由来を話す者も現れた。
「あれか? あれは、かつて史上初の完全踏破を成し遂げた、大樹のリュセルが生やした木だ」
案内役の冒険者が指した先で、巨大な枝が建物の上へ広がっている。
「そんな昔から残っているのか?」
「いや。木が生えたのは、もっと後だ」
初めてオルディナを訪れた旅人は眉を寄せ、もう一度大樹を見上げた。
「本人が百二十年ぶりにこの街へ戻ってきた時、当時この街を預かっていた代官が喧嘩を売ったらしい」
「……それで?」
「ブチ切れた」
案内役も大樹を見上げる。
「その結果が、あれだ。居館の真下から大樹を生やして、館ごと壊したらしい」
「…………」
大樹の由来は、そうして後世まで語り継がれていった。
いつかリーネが成長し、もう一度この街を訪れる日が来るかもしれない。
その時は中央広場の四人像だけでなく、この巨大樹が生まれた理由も耳にすることになる。
父親が捕らえられそうになったこと。
その騒ぎで、自分の眠りまで邪魔されたこと。
そしてリュセルが本気で怒り、居館を一本の大樹で破壊したことも。
後にこの由来を知ったリーネが、父親を前に長いこと言葉を失うことになるのだが――それは、まだずっと先の話である。
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