第78話 大樹のリュセル(後編)
本日カクヨムのほうでサポーター専用SS『イレナの笑顔』を公開されています!
今回は、作中第16話と第17話の間、北緑館での小さな昼の一幕です。リーネに笑いかけられたイレナは、どう返せばよいのかリュセルに相談するのですが……。
カクヨムの方ではストーリー進行が遅いですが、専用エピソードを近況ノートの方に掲載していますので、興味ありましたら是非のぞいてみてください(サポーターズパスポート加入などが必要になります)。
白い粉塵の中から、一本の根が飛び出した。
根は太った男の胴を一巻きにし、瓦礫の上を引きずってくる。
そのまま門を越え、私の前へ放り出した。
「な、何なんだぁっ!!」
上等な衣服は埃まみれになり、片方の靴が脱げていた。
それでも男は自分を縛る根から逃れようと、短い手足をばたつかせる。
近くでは隊長が地へ蹲ったまま、顔を上げられずにいる。
門前の衛兵も動かない。
遅れて集まってきた者たちは、遠巻きにこちらを囲み始めていた。
男がようやく私の顔を見上げる。
「お、お前が、あのエルフっ! ど、どういうことだっ!」
その声だけは、ひどく大きい。
「き、貴様! 王国に楯突く気か!」
「はぁ……」
ここまでされても、自分の立場を理解できないらしい。
「豚よ。さえずるな」
細い根が伸び、男の口を塞いだ。
「むぐっ!? む、むううっ!」
私は騒ぐ豚を見下ろす。
「王国?」
体内に留めていた魔力を、今度は抑えなかった。
「取るに足らない、ちっぽけな人間の国が、この私に対して対等を気取るか」
解き放った魔力が、大河の濁流のように周囲を呑み込んだ。
空気が軋み、石畳に細かな亀裂が走る。
近くにいた衛兵たちは一歩、二歩と後ろへ下がった。
立っていられず、槍を杖にして膝をつく者もいる。
根に縛られた統治責任者の身体が震えた。
呼吸が急に浅くなり、見開いた目から涙が溢れる。
やがて衣服の下へ濡れた染みが広がり、石畳へ雫が落ちた。
群衆の中で、この様子を見ていた杖を持った女が掠れた声を漏らす。
「信じられない……何、あれ……。もはや、災害じゃない……」
私は右手を上げ、男へ向けた。
「豚よ。己がやったことを後悔しながら、あの世へ逝け」
指を曲げる。
握り込めば、この豚を巻く根も同時に締まる。
その直前、後ろにいたイレナが横から飛び込んできた。
「恐れながら、リュセル様っ!!」
イレナが私と豚の間へ入り、その場に跪いた。
顔から血の気が失せている。
額や頬には汗が浮かび、浅い呼吸に合わせて肩が震えていた。
それでも逃げることなく、両手を石畳について私を見上げる。
「ここまでで……何とぞ、ここまででございます! 何とぞっ!」
私は握ろうとした手を止めた。
「何をしている、イレナ。そこをどけ」
「この者の罪は、人間の手で罰します。ですので……何とぞ、その矛をお収めくださいませ!」
「……ならぬ。どけ」
イレナは石畳へ伏せるように首を垂れたが、私と豚の間からは動かなかった。
「この者は私に牙を剥いた。いや、それだけではない」
宿に残してきたリーネの泣き声が、耳の奥へ蘇る。
「リーネの安寧を邪魔した。それは万死に値する」
「……承知しております」
声は震えている。
それでも、イレナは退かなかった。
「どけ、イレナ。お前に対しては何もない。むしろ、リーネの世話をしてくれている恩人だ」
私が指先をわずかに動かすと、豚を巻く根が軋んだ。
「そんなお前を、豚の血で汚したくはない」
「リュセル様……それでも、どきませぬ」
イレナは顔を上げた。
魔力に圧され、呼吸すら苦しいはずだ。
だが、そのような状況の中であるにもかかわらず、その目だけは逸らされていなかった。
「……なぜだ。同じ人間とはいえ、こいつにお前自身を賭ける価値はなかろう」
問いかけると、イレナの唇が一度震えた。
それから息を吸い、はっきりと口を開く。
「……リーネ様に、何と言うのですか?」
「何?」
「この街には、リーネ様が感じることのできる、リュセル様の偉大な痕跡が数多く残っております」
中央広場に立っていた四人の像が頭に浮かぶ。
「将来、リーネ様が大きくなられ、様々なことを理解できるお年頃になった時、どう説明なさるのですか」
イレナは一度言葉を切った。
額から落ちた汗が石畳へ落ちる。
それでも、次の言葉を呑み込むことはなかった。
「ここは、リーネ様が父親たるリュセル様の過去を、最も感じ取ることのできる街でございます」
誰一人として声を発さず、遠くで瓦礫の崩れる音だけがした。
「その街へ、このような豚未満の者を害したという、泥以下の痕跡まで残されるおつもりですか」
私は答えなかった。
「それでは……リーネ様が、あんまりでございます」
数秒の沈黙が流れた。
根に巻かれた豚は、いつの間にか動かなくなっている。
胸が上下しているため、ただ意識を失っただけだ。
この街には、私たち四人の像がある。
リーネはそれを見て、私を指した。
いつか、あの像に刻まれたものだけではなく、私がこの街でしたことまで知る日が来るのだろう。
その時、私が何を語るか。
目の前の豚を殺したところで、リーネの眠りが戻るわけではない。
代わりに残るのは、私がこの街で人間を一人殺したという事実だけだ。
私は上げていた手を下ろした。
「……ふん」
放っていた魔力を収める。
空気を押し潰していた重さが消え、周囲のあちこちから荒い息が漏れた。
イレナも両手をついたまま、大きく息を吸っている。
「イレナ。帰るぞ」
私は踵を返し、宿の方角へ歩き出した。
しばらく進んでも、後ろから足音が聞こえない。
振り返ると、イレナはまだその場に跪き、私を呆然と見ていた。
「……何をしている」
「は、はいっ!」
イレナは慌てて立ち上がり、こちらへ駆けてくる。
居館へ続く道は、騒ぎを聞きつけた人間で埋め尽くされていた。
だが、不思議なことに誰も私の前には立たない。
一歩進むたびに人波が勝手に左右へ割れ、宿へ続く道が開いていく。
恐怖に顔を強張らせ、口を閉ざしたままの者も多い。
だが、冒険者らしい装備を身につけた者たちの間から、やがて一つの声が上がった。
「……これが、あの伝説の踏破者……。大樹のリュセルの力……」
「すげぇ……おとぎ話だと思っていたけど、おとぎ話以上じゃないか……」
「うおおおっ!」
一人が叫ぶと、別の場所からも歓声が上がる。
「伝説の踏破者だ!」
好き勝手な声を背に、私は歩き続けた。
隣へ追いついたイレナが、まだ少し乱れた息のままこちらを見る。
「大樹の……リュセル……?」
「……ふん。かび臭い過去のあだ名だ」
気に入っていたわけではない。
戦いのたびに木を生やしていたというだけで、人間たちが勝手につけた名だ。
イレナは少しだけ笑みを浮かべた。
「リーネ様に教えることが増えましたね」
「……リーネにとって一番要らない話だ」
読んでいただきありがとうございます。
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