第76話 私は、公平に扱っただけなのだが(後編)
扉を叩く音が、また二度聞こえた。
マルタが応対し、ほどなく先ほどの宿主人を前室へ通す。
今度は先ほど以上に顔色が悪く、額には汗が浮いていた。
「リュ、リュセル様……」
「今度は何だ」
「その……先ほどの、都市を預かる方から使いの方がお見えでございまして……」
宿主人は扉の方を気にした。
「どうしても一度、お話をさせていただきたいとのことで……」
「断ったはずだ」
「はい。ですが、その使いの方ご本人が、事情だけでもお話ししたいと……」
宿主人の怯え方は、同じ申込みを持ち帰ってきた者のものではなさそうな様子だった。
「…ふむ、しょうがない。使いだけなら会おう」
「ありがとうございます」
宿主人は何度も頭を下げ、受付へ戻った。
リーネは奥の寝室で眠っている。
マルタを寝台のそばへ残し、私は前室へ移った。
イレナも壁際に立つ。
その隣にルヴェンも座っていた。
内側の扉は閉め切らず、マルタから呼ばれればすぐ戻れるようにしてある。
やがて宿主人が、一人の男を連れてきた。
男は前室へ入ると足を止め、深く頭を下げる。
腰には剣があるが、手を近づけようとはしない。
廊下にも、武器を構えた者の気配はなかった。
「無理を承知で、お願いに参りました」
男は顔を上げても、私を正面から見続けなかった。
「他の面会希望者とは、お会いにならなくて構いません。どうか、都市を預かる方とだけ、ほんのわずかな時間でもお会いいただけませんでしょうか」
「何故だ?」
「この都市を預かる者として、正式にご挨拶を申し上げる機会だけでも、どうか」
「先ほど伝えたはずだ。人間の慣習に従い、全員を平等に遇することにした」
その言葉に男の顔が僅かに強張った。
「一人だけを選ぶ理由がない」
「そこを、どうか」
男はもう一度、頭を下げる。
「形式だけでも構いません。私どもの責任者へ、直接お言葉をいただければ……」
「意味がない」
会う理由もない相手へ、形式のために時間を使う方が余計だ。
男は頭を下げたまま動かなかった。
やがて顔を上げ、宿主人の方を向いた。
「申し訳ないが、外していただきたい」
宿主人は私を見た。
私が頷くと、廊下へ出て扉を閉める。
宿主人が扉を閉めると、男は私とイレナ、ルヴェンの前で姿勢を整えた。
そして男は一度息を整えた。
「……すでに、貴方様への捕縛命令が下っております」
「……何?」
「統治責任者が、面会拒否を侮辱と受け取りまして……」
男の喉が動いた。
そして僅かに身を震えさせた。
それはこれ以上、言葉を発したくはない、そう体で示すかのように。
「……貴方様を捕らえ、居館へ連れてくるよう命じました」
私を捕らえる。
……人間が? この私を??
身体の内に留めていた魔力が、前室へ漏れ出した。
男の肩が上がり、息が急に浅くなる。
イレナの手は武器へ向かわなかったが、指先まで力が入っていた。
壁も床も何も景色は変わっていない。
それでも、イレナは息をするのを忘れ、身を固くしたまま動けなかった。
「小僧」
男は答えなかった。
「今、何と言った?」
「…………あ、貴方様への、ほ、捕縛命令が………下っております」
「何と言った、小僧。もう一度申してみろ」
男の顔から血の気が引いていく。
『主。その程度でお納めください』
ルヴェンの声は耳に届いている。
だが、私は男へ向けた魔力を収めなかった。
使いの男よりも影響は少ないものの、イレナは身体を強張らせ、浅い息の合間にルヴェンへ顔を寄せた。
押し殺した声は小さかったが、わずかな震えまでは隠せていない。
「……あれ、本気で怒ってますよね」
『はい、かなり』
二人とも私に聞かせないつもりらしいが、すべて聞こえている。
それでも、男から意識を逸らす気にはならなかった。
『主は、侮られることを何より嫌いますので。まして、自分より遥かに年若い者から、捕縛するなどと言われれば……』
イレナが息を呑んだ。
「……これは、まずいですね」
その時、奥の寝室から泣き声が上がった。
「リーネ?」
前室に満ちていた魔力を身体の内へ収める。
男への追及を止め、すぐ寝室へ入った。
寝台の上で、リーネが口を大きく開けて泣いている。
マルタはすでにそばへ寄り、起き上がった身体を支えていた。
私が腕を伸ばすと、マルタが場所を譲る。
リーネを抱き上げ、胸へ引き寄せた。
「どうした」
リーネは泣いたまま私の衣をつかんだ。
背へ手を当て、一定の間隔で軽く叩く。
「ここにいる」
泣き声はすぐには止まらなかった。
息を吸うたびに身体へ力が入り、私の衣を握り直す。
もう一度名を呼び、背を叩き続けた。
やがて泣き声の間に、呼吸だけが聞こえる時間が増えていく。
寝室の入口では、イレナとルヴェンが顔を見合わせていた。
マルタも私を見た後、何も言わずリーネの呼吸に合わせて背へ手を添える。
前室に残った男も、口を開こうとして閉じた。
「お前たちが来たせいで、起きたではないか」
男は何も言わず、深く頭を下げた。
「リーネの昼寝を邪魔するとは……」
私を捕らえるというだけでも許し難い。
そのうえ、眠っていたリーネまで泣かせた。
腕の中では、まだ時折小さく息が跳ねている。
私は魔力を漏らさず、リーネの身体から力が抜けるまで待った。
衣を握っていた指が緩む。
マルタがそばへ寄り、リーネへ腕を伸ばした。
「私がおそばにおります」
私がリーネをマルタに預けると、ルヴェンは寝台のそばへ戻った。
「ルヴェン。ここにいろ」
『承知しました』
私は前室へ戻り、廊下へ続く扉へ向かった。
イレナが後ろから追ってくる。
「……どちらへ?」
「決まっている」
私を捕らえられると考えた人間がいる。
その命令を出した本人へ、誰を捕らえようとしたのか教えてやらなければならない。
「私を舐め腐った豚を――」
寝室を見る。
マルタに抱かれたリーネは、まだ私を見ていた。
「それに、リーネの安寧を邪魔した豚を始末しに行く」
「お待ちください!」
待つ理由はない。
前室の男は、先ほどよりも顔色を悪くしていた。
「案内しろ、小僧」
男はしばらく動かなかったが、やがて頭を下げた。
「……はい」
男を先に歩かせ、私は宿を出た。
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