第75話 私は、公平に扱っただけなのだが(前編)
宿主人が抱えている書面は、一枚ではなかった。
上に載った封書だけでも、都市の印、冒険者ギルドの印、見覚えのない紋が並んでいる。
馬車と四頭の確認を終えたイレナは、前室の壁際に控えていた。
外した手袋を片手に持ち、宿主人の抱える書面を見ている。
「断れ」
宿主人の腕がわずかに下がった。
「す、すべてでございますか?」
「ああ。会う理由がない」
明日の朝には、この都市を出る。
それまでに、名も知らぬ人間たちと顔を合わせる理由はなかった。
だがその決定に対して壁際に侍るイレナが、何かを言いかけて口を閉じた。
私の返事に、言いたいことがあるようだ。
「何だ。何かあるのか?」
イレナは一度、奥の寝台へ目をやった。
リーネは毛布の中で眠ったままだ。
「後々、面倒になる可能性がございます。一度くらいは、お会いになった方がよろしいのではないでしょうか」
「何故だ?」
イレナの視線が、宿主人の抱える書面へ戻る。
「リュセル様は、オルディナにとって百二十年前の完全踏破者ご本人です。ハイエルフであることも、すでに大勢に知られました」
宿主人は何度も頷いていた。
イレナは都市の印がある封書を示す。
「都市を預かる側まで正式に申し込んでいる以上、すべて無視すると、かえって後の取次や確認が増えるかもしれません」
会いたいという人間を放っておけば、さらに会いたい人間が増えるらしい。
人間は、随分と面倒な仕組みを作る。
「では、どの人間に会えばいい」
「必要な方を選びましょう」
イレナは宿主人へ手を差し出した。
最初の封書を受け取り、その後ろから別の紙を引き出した。
都市統治側の次に冒険者ギルド、現在の高名な冒険者、商人、周辺貴族の関係者と続いている。
イレナは一枚めくった。
さらに続く紙を前に、黙り込む。
「…………」
「どうした」
「……少々、多いですね」
宿主人が、さらに身を縮めた。
「まだ、増えております……」
イレナは返事をしなかった。
書面の上と下を見比べ、もう一枚めくる。
私は、その束を受け取った。
一枚ずつ、上から目を通す。
内容はどれも、私に会いたいというものだ。
だが、それぞれが、自分を先にすべき理由を添えている。
後でも構わないとする書面は、一枚もない。
ならば、誰を先にするかは、私が決めることになる。
人間には、こういう時、皆の扱いに差をつけないための考え方があったはずだ。
「人間には、公平という考え方があるのだったな」
イレナの返事までに、少し間があった。
「……はい」
「一人だけに会えば、その者だけを優遇することになる」
イレナの表情が、わずかに引きつった。
「まあ……そういう見方もできます」
「ならば簡単だ」
イレナが私を見る。
「全員に会わなければいい」
宿主人が目を何回も瞬いた。
イレナも、すぐには何も言わない。
「全員を同じように扱う。これなら公平だろう?」
私が一人だけを選ばなければ、誰も特別にはならない。
人間の身分も、迷宮での功績も、持っている財も関係なくなる。
イレナはしばらく考えていたが、やがてゆっくりと息を吐いた。
「……リュセル様が、それでよろしいのでしたら」
「決まりだな」
私が書面を返すと、イレナは宿主人へ向き直った。
「リュセル様は、特定の一人だけを優遇するわけにはいかないとのお考えです」
宿主人は書面を抱え直した。
「そのため今回は、どなたともお会いにならないとのことです。そうお伝えください」
「か、かしこまりました」
マルタが扉を開け、宿主人を廊下へ送り出した。
扉が閉じると、階段へ向かう足音が遠ざかっていく。
私は寝台のそばへ戻った。
リーネは起きていない。
イレナから、明朝の出発に問題はないと報告を受ける。
人間の意見を聞き、人間の慣習にも従い、全員へ同じ返事をした。
これで面会の話は終わったはずだった。
◇
宿へ申込みを届けた使者は、受け取った返答を持って執務室へ戻った。
統治責任者は、使者が入室を許されると、手元の書類から顔を上げた。
「面会につきまして、ご返答をいただきました」
統治責任者は、面会を受け入れられたかどうかを尋ねなかった。
「いつだ」
使者は答えず、視線を下げた。
側近と文官が、その様子を見て顔を見合わせる。
「……どなたとも、お会いにならないとのことです」
「何?」
統治責任者の眉が寄った。
「特定の一人だけを優遇するわけにはいかないため、面会希望者全員を平等に扱い、どなたとも会わないとのご判断だそうです」
「全員?」
「はい」
統治責任者は椅子へ深く座り直した。
「私もか?」
「…はい」
「冒険者ギルドの者も?」
使者は、また頭を下げる。
「……はい」
「商人どもも?」
「………………はい」
統治責任者は机へ両手をついた。
「私を、下々の者どもと同列に扱うというのか!」
「そ、そういう意味ではございませんっ」
側近がすぐに口を挟んだ。
「先方は、どなたにも同じ返答をなさっただけかと」
「だから、それが侮辱だと言っている!」
統治責任者が両手で机を叩いた。
使者が肩を震わせ、文官は持っていた筆を置く。
「この都市を預かる私をコケにした! これは侮辱だ!」
誰も言葉を返さなかった。
執務室に残ったのは、統治責任者の荒い息だけである。
「連れてこい」
側近は目を見開き、統治責任者を見返した。
「……は?」
「リュセルとかいう男を、ひっ捕らえて連れてこい!」
一瞬、執務室から物音が消えた。
「お待ちください!」
最初に声を上げた側近へ、文官も続く。
「それだけはなりません!」
別の側近が、机の前へ一歩出た。
「相手はハイエルフです!」
「ハイエルネリア王族である可能性が極めて高い方です」
文官は、統治責任者が遮る前に続けた。
「外国王族を、国王陛下の許可なく一都市の判断で捕縛すれば、重大な外交問題になります!」
「ここは王家直轄の都市だ。私には、この都市を守る責任がある」
「面会を断ったことは、都市への攻撃ではございません!」
「私への侮辱は、この都市への侮辱だ!」
統治責任者は、執務室の壁際に控えていた隊長を見た。
都市の警備と統治責任者の護衛を預かる男である。
「命令だ。捕らえてこい」
隊長はすぐに返事をしなかった。
側近も文官も、隊長の返答を待っていた。
「……私が参ります」
「それでいい。すぐに連れてこい」
側近がなお制止する中、隊長は執務室を出た。
廊下で待っていた部下たちが姿勢を正す。
「武器は抜くな。宿を囲むな。入口も街路も塞ぐな」
一人が隊長を呼び止めた。
「しかし、命令は……」
「だからこそだ。私が先に話す」
隊長は、部下たちが頷くまで待った。
「お前たちは宿の営業と通行を妨げず、合図があるまで動くな」
隊長は必要最小限の部下だけを選び、宿へ向かった。
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