第69話 リーネ、初めての別れと満天の夜空(前編)
翌朝、宿で朝食を終えると、二台の馬車は出発の支度へ移った。
ダリオが幌馬車の馬具を締め直し、クララは昨夜使った物を荷台へ戻していく。
リタは新しい木の鳥を抱え、クララが荷を留める間も翼を開いていた。
私たちの箱馬車では、イレナが四頭と馬具を調べている。
マルタはリーネの衣服を整え、セラとニナが宿泊の荷を車内へ戻した。
リーネは木の馬を手に持っていた。
いつもの布の鳥は、座席の上に置かれている。
「うま」
リーネが木の馬の脚を曲げると、掌の上で馬の頭が下がった。
両家の荷が収まり、全員が乗ると、二台は出発する。
昨日と同じく、幌馬車が先、私たちの箱馬車が後だ。
木人は幌馬車の速度を保ち、分岐まで四頭を進めた。
◇
道が二つに分かれる場所の手前で、ダリオが幌馬車を止めた。
木人も車間を残して箱馬車を止める。
イレナが先に降りた。
二台は道を塞がずに止まり、四頭の周りにも人はいない。
私はリーネを抱いて降り、地面へ下ろす。
マルタがすぐ後ろに立ち、イレナは道路と四頭を見渡せる位置へ残った。
クララもリタを荷台から降ろした。
リタは父と母の間で、新しい木の鳥を抱えている。
ダリオが私の前へ進み出た。
「それでは、私どもはこちらへ」
「ああ」
「道中、お世話になりました」
クララが頭を下げる。
「リタは、リーネちゃんと過ごせて楽しかったようです」
「リーネも同じだろう」
ダリオが背を伸ばし、改まった礼を取ろうとした。
だが、途中で動きを止める。
昨夜の酒席を思い出したのか、そのままクララとリタの隣へ戻り、旅人同士が道で別れる時の礼を取った。
「セルディオンへお越しの際は、ぜひフェルナー商会へ」
「覚えている」
ダリオが頭を上げると、クララがリタの背に手を添えた。
「リタも、ご挨拶を」
リタは木の鳥を片腕に抱え、空いた手を振る。
「リーネ、またね!」
リーネは木の馬を抱えたまま、手を振り返した。
「りた!」
クララがリタを荷台へ乗せ、自分も幌の中へ入る。
ダリオは二人が座るまで待ってから、御者台へ戻った。
幌馬車が動き出す。
リタは後ろの覆いから手を出し、木の鳥を見せた。
リーネも私のそばで手を振り続ける。
幌馬車は別の道へ入り、次第に遠ざかっていった。
やがて荷台の覆いも、リタの手も見えなくなる。
それでもリーネは、幌馬車が消えた先を向いていた。
「もう見えんぞ」
「りた……」
その場では泣かなかった。
リーネは腕の中の木の馬へ顔を戻し、その首を動かす。
「うま」
私はリーネを抱き上げ、箱馬車へ戻った。
マルタも乗り込み、全員が座ったところでイレナが扉を閉める。
リーネは座席の上で木の馬を持ち、マルタが隣へ座った。
布の鳥も同じ座席にある。
私は木人へ思念を送る。
「元の速度へ戻せ」
四頭の歩調が変わり、箱馬車は本来の速さへ戻った。
一行はそのまま、ハイエルネリアへの旅を続ける。
出発後も、リーネは車内の前方へ顔を向けていた。
だが、側面の窓を鳥の影が横切ると、そちらへ身体を向ける。
街道の草が風に倒れ、起き上がる。
遠くの木々が途切れると、今度は窓へ顔を寄せた。
膝の上では、木の馬を歩かせている。
リタの乗った幌馬車はもう見えない。
それでもリーネは木の馬を手放さず、窓の外を眺めていた。
◇
日が高くなった頃、馬を休ませられる場所で箱馬車を止めた。
四頭へ水と飼葉を与える間に私たちも昼食を取り、使った食器を片づけてから再び乗り込む。
午後の街道へ戻ると、イレナが今日の予定を告げた。
「本日は、日が落ちる前に予定していた場所へ入り、野営いたします。次に宿を取れる場所までは、一日では届きません」
「分かった」
出発前から決めていた予定だ。
マルタたち三人も驚かず、夕方に使う荷を取り出しやすい場所へ移している。
リーネだけはイレナの声へ顔を向け、木の馬を持ったまま首を傾けた。
「リュセル様は、以前の旅でも野営をなさっていたのですか?」
セラが尋ねた。
「ああ。旅の途中で何度も夜を越した」
「お一人で、ですか?」
「私とルヴェンだけの時が多かったな」
窓に近い座席で、ルヴェンが尾を揺らした。
「雨が降らなければ、木の根元でも岩陰でも眠れる。倒木へ背を預けることもあった」
食事は保存食で済ませる。
外套一枚を敷くか身に掛け、地面へ横になればよい。
「獣が来たら、どうなさるのですか?」
「近づけば目が覚める。その時に対処する」
ルヴェンが頭を上げる。
『主は以前など、倒木へ背を預けたまま夜を明かしておられましたね』
「雨が降らなかったからな。眠れれば問題ないだろう」
セラが返す言葉を探している間に、ニナが先に口を開いた。
「それを野営と言っていいのでしょうか」
私には、他の呼び方が思いつかなかった。
◇
午後の移動では、イレナが御者台の空いた側へ座り、前方の街道と周囲の地形を確認していた。
日が傾く前、連絡小窓の向こうからイレナの声が届く。
「予定していた場所が近づいています」
木人へ進路を伝えると、箱馬車は街道から外れた平らな場所へ入った。
周囲の木々は離れており、空が広く開けている。
箱馬車が止まると、イレナが最初に降りた。
草地の外周まで歩いて周囲の気配を探り、四頭を休ませる場所を選ぶ。
「魔獣や大型の獣が近くへ来た痕跡はありません。ここで問題ありません」
私は車外へ出て、マルタからリーネを受け取った。
セラとニナが箱馬車から敷物を運び、火を使う場所から離して広げる。
リーネをそこへ座らせると、マルタが隣に残った。
ルヴェンも敷物の上へ伏せ、尾をリーネの背後へ回す。
イレナは木人とともに四頭の馬具を外し、水と飼葉を与え始めた。
セラとニナは天幕の布と支柱、毛布、焚き火と食事に使う道具を運ぶ。
私はリーネのそばで、野営の支度を見ていた。
マルタが乾いた地面へ厚い敷物を重ね、その上へ寝具を置く。
「地面から冷えるな」
「厚い敷物を重ねております。寝具が地面へ直接触れることはございません」
マルタは答えながら、敷物の皺を伸ばした。
セラとニナが支柱を組み、天幕を張り始める。
日が落ちれば、草も荷も湿る。
「夜露は?」
「天幕があります。寝具へ落ちないよう覆います」
セラは布を持ち上げ、ニナが支柱へ留めた。
敷物の上を、黒い虫が横切った。
「虫が入る」
「虫除けも持ってきています」
ニナが荷から布袋を取り出し、天幕の周りへ置いていく。
やがて天幕が立ち、マルタが中へ寝具を運んだ。
敷物と毛布を置けば、使える場所はさらに減る。
「……狭くないか?」
「野営用ですので」
イレナが四頭のところから戻って答えた。
「夜を休むには足ります。明朝には畳んで出発いたします」
ニナが立てたばかりの天幕を振り返った。
「リュセル様ご自身は、その辺りでも普通に眠っておられたのですよね?」
「私はな」
敷物の上では、リーネが木の馬をルヴェンの尾へ乗せていた。
マルタが隣に座り、虫除けの袋をリーネから遠ざけた。
「だが、リーネを同じ場所へ寝かせる理由がない」
私なら地面で構わない。
だが、リーネには別の場所を用意できる。
「全員、そこから離れろ」
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