第66話 父親二人は育児の悩みを語り合う
リーネが眠った後も、しばらく寝台の脇に座っていた。
布の鳥を抱く腕から力が抜け、呼吸も一定になっている。
マルタは同じ部屋で旅用の衣服を畳み、ルヴェンは寝台の端に尾を収めていた。
その時、馬車置き場に残した木人から、預けていた魔力が少なくなっているのを感じた。
「木人へ魔力を足してくる。ついでに、馬車の周囲へ念入りに防御魔法をかけておこう」
「こちらはお任せください」
マルタが衣服を畳む手を止めずに答えた。
ルヴェンも眠るリーネのそばから動かない。
馬車置き場へ出ると、四頭は厩で飼葉を食べていた。
車体は門から離れた屋根の下へ収まり、扉と後部の留め具も閉じている。
木人は御者台を降り、車体の脇で指示を待っていた。
頭部へ手を置くと、昼に込めた魔力は残り少なくなっている。
一日走らせるだけなら足りたが、明日も任せるには心許ない。
減った分を補い、さらに余裕を持たせて魔力を流し込む。
木人の内側を満たす感覚が戻ったところで、その場に待機するよう命じた。
続いて、宿の者と馬の出入りを妨げないよう範囲を定め、車体へ簡単な防護を施しておく。
木人への補充と馬車置き場の防御を終え、宿へ戻る。
一階の食堂は片づけが終わり、灯りも半分ほど消えていた。
その脇には向かい合わせのソファーがあり、ダリオが一人で杯を持っている。
ダリオは私に気づくと、杯を卓へ置いて立った。
「リュセル様」
「よい。そのままでいろ」
ダリオはためらいながら、元のソファーへ腰を下ろした。
「何を飲んでいる?」
「麦酒です。この宿で出している安物ですが……」
杯の中には濁った色の酒が残っていた。
麦芽を発酵させた、酒精の弱い日常の酒だ。少し酸味があり、香りも穏やかで、一日の終わりに飲むには悪くない。
世界を旅していた頃には、土地の食事に合わせ、こうした麦酒をたまに飲んでいた。
「クララとリタは?」
「部屋で休んでおります。娘が寝るまでは、私がいると遊びたがりますので」
「そうか」
私は対面のソファーへ腰を下ろした。
「私も一杯飲もう」
収納空間を開き、酒瓶とグラスを二つ取り出した。
「収納魔法……ですか」
「ああ」
二つのグラスへ酒を注ぐ。
淡い黄金色の酒から、白い花と熟した洋梨に似た香りが立った。
「私の国で作られている酒だ」
「……私がいただいても?」
「そのために注いだ。そこそこいける」
私が先に口をつけると、ダリオもグラスを持った。
香りを確かめ、少しだけ含む。
すぐには飲み込まず、舌の上で味を確かめている。
「……美味い」
ダリオはグラスを灯りへかざした。
「花の香りだけではありませんね。熟した洋梨と、蜂蜜も少し……甘さが残り続けない。飲んだ後が、驚くほど澄んでいます」
「そうか」
「これほどの酒は、王都の商会でも見たことがありません。貴人のための酒でしょうか」
「貴人の酒ではない。向こうでは、少し良い酒という程度だ」
ダリオは、もう一度グラスの中を見た。
「エルフの品が、人間の国へ出ること自体、ほとんどないはずです」
「そうらしいな」
ダリオは私の長い耳へ一度目を向け、ためらいがちに口を開いた。
「……その、リュセル様はエルフで、それも貴人であるにもかかわらず、お傍には人間しかいないご様子ですが……」
「ハイエルフだ」
「そ、それは失礼しました……ん? ハイエルフ……?」
ダリオは口の中で同じ言葉を繰り返し、やがて目を見開いた。
「学院では、現存するハイエルフは世界でも十人ほどで、皆がアルヴァリス王家に連なると……」
ダリオは慌ててグラスを卓へ置き、ソファーから立ち上がろうとした。
「座れ。酒が飲めん」
「ですが――」
「今は酒を飲んでいるだけだ」
腰を浮かせた姿勢で止まったダリオは、ゆっくりソファーへ戻った。
今度は背もたれに触れず、グラスを両手で持っている。
「普通に飲め」
「努力いたします」
努力が要ることなのだろうか。
ダリオは葡萄酒をもう一口飲み、今度は卓へ戻す時に音を立てなかった。
「では、リーネ様もハイエルフなのですか?」
「いや。リーネは人間だ」
「……人間?」
「ああ」
「では……親を亡くした子を保護なさり、そのまま育てておられるのですか?」
「焼け落ちた町で見つけた。診療所の瓦礫の下で、女が守っていた。母親かどうかは分からない。ほかに生き残った者はいなかった」
あの日、私は記録帳に書いた「生存者なし」を消した。
そして、「生存者、一名」と書き直した。
「食べさせ方も、眠らせ方も、布の替え方も知らなかった。人間の女たちに教えられた」
「それから、ずっとリュセル様が?」
「ああ」
乳しか飲めなかった赤子は、もう自分で歩く。
言葉を覚え、持っていく玩具を選び、今日には私の指を離して別の子供の手を握った。
ダリオは、自分の麦酒ではなく葡萄酒のグラスへ口をつけた。
「大変だったでしょう」
ダリオの言葉に私はゆっくりと頷く。
「最初は、食べさせる、眠らせる、危険から遠ざける。それだけを考えればよかった」
泣けば、何が足りないのかを考える。
眠れば、起こさないようにする。
そして一年前は動ける範囲も、私の腕の中から遠くはなかった。
「今は歩く。話す。自分で選ぶ。ほかの人間へ自分から近づく。できることが増えるほど、どこまで手を出すべきか分からなくなる時がある」
今日も、リーネが布の鳥を抱き直した時、渡したくないなら止めるべきかと考えた。
しかしリタは待ち、リーネは自分から渡した。
食事でも、スプーンを取り上げずにいれば、こぼしながら口まで運んだ。
「成長すればするほど、子を育てるということが分からなくなってくる……。お前は、どうしている?」
ダリオは目を見開き、口へ運びかけていたグラスを止めた。
「私たちも同じですよ」
ダリオはそう答えた後、首を横へ振った。
「いえ、同じと言い切るのは失礼ですね。ただ、私も何が正しいのか分からないままです」
リタが生まれた時、ダリオは行商をやめることも考えたという。
クララと話し合った末、一つの町を拠点に、リタへ負担をかけない範囲だけを行商することにした。
荒れた街道は避け、体調が悪ければ商売を休む。
成長した今では、泊まる町も通る街道も少しずつ増えていた。
「今も、あれでよかったのかは分かりません。クララと二人で決めてきましたが、リタにとっては一つしかない子供時代ですから」
「お前は、行商に出る前に何をしていた?」
「王都セルディオンの学院で十八歳まで学びました。その後、家業の商家を継ぐため、実家で商人の修行を始めました」
学院では読み書きと算術のほか、地理や歴史、諸国の事情と商取引を学んだという。
「実家で修行していた時、父に言われました。帳簿しか知らない商人に、店は継がせられない、と」
ダリオは手にしていたグラスを卓へ置いた。
「それで、クララと各地を回っています。町ごとの値段も、必要とされる品も、街道も宿も、帳簿の中からでは分かりませんから」
昼に見た幌馬車には、各地で売る品と、家族三人が旅を続けるための道具が積まれていた。
ダリオは商品を売るだけでなく、町ごとの暮らしや街道を自分の目で確かめながら、商人の修行を続けている。
「リタにも、自分の目で見て、自分で選べる人間になってほしいと思っています」
ダリオはそこで葡萄酒を一口飲んだ。
「とはいえ、今日の水場では止めましたけどね。相手がどなたかも分からないのに、あの子は平気で近づいていく」
ダリオは笑いながら、冗談めかして言った。
「リーネも私の指を引いた」
「親が心配している間に、子供の方は勝手に世界を広げていくんですよ」
笑い声は長く続かなかった。
上の階を気にするように天井を見てから、グラスへ口をつけ、卓へ戻した。
「まあ、私もそれが正しいのかは分かっていませんけどね」
「分からないのか?」
「私だって、父親になって三年ですから」
三年。
リーネを育て始めてからは、まだ三年に届いていない。
「私より長い」
ダリオが声を上げて笑った。
すぐに笑い声を抑えた。
「申し訳ございません」
「よい」
私も、わずかに口元を緩めた。
その後も、寝かせ方や食事、子供が自分で何かをやりたがった時にどこまで手を出すか、思いつくまま話した。
ダリオも私も、何かの答えを持っているわけではない。
それでも、互いの失敗や迷いを話している時間は、不思議と苦にならなかった。
むしろ妙に楽しく感じたのは、酒のせいかもしれない。
しばらくして私は席を立つと、ダリオも立った。
「明日も、リタがご迷惑をおかけするかもしれません」
「リーネも同じだろう」
ダリオは一度黙り、今度は礼を取らずに頷いた。
◇
部屋へ戻ると、マルタは畳んだ衣服を収納へ収め終えていた。
ルヴェンは寝台の端に伏せ、リーネはその隣で眠っている。
『ずいぶん長い魔力補充でございましたね』
「ダリオと酒を飲んでいた」
『それは、防御魔法を重ねるより長くなりますね』
私は答えず、リーネのそばへ戻った。
危険から守ることはやめない。
だが、リーネが自分から伸ばした手まで、危険と同じように引き戻す必要があるのだろうか。
眠るリーネの片手は、布の鳥の翼に乗っていた。
指が一度動き、布の翼を掴み直す。
私はその手に触れず、寝台の脇に座っていた。
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