第64話 リーネ、旅先で女の子と出会う
森を抜けた先で、街道の両側から木々が消えた。
最後部の大窓いっぱいに、朝の光を受けた畑が広がっている。
リーネは座席へ両手をついて立ち、左の窓へ寄った。
畑の間では二人の男が土を起こし、道のそばには荷を背負った旅人がいる。
反対側で山羊が鳴くと、リーネはすぐに座席を渡った。
柵の向こうで三頭の山羊が草を食べ、その奥には煙突から煙を出す家が建っている。
リーネは私の袖を引き、窓の外を指した。
「りゅー、あれ」
「山羊だ」
リーネは山羊が後ろへ流れて見えなくなるまで窓へついていたが、街道の分かれ道に立つ道標が近づくと、今度はそちらへ身体を向けた。
私には見慣れた街道だ。
しかし、リーネは座席へ戻るたび、まだ見ていないものを見つけていた。
車輪が道の窪みを越えると、リーネは座席へ腰を下ろして私の袖を掴んだ。
揺れが収まれば袖を離し、次に窓へ現れるものを待っている。
車体の前から蹄の音が重なると、リーネは窓を離れた。
「うま」
リーネは私の袖を引き、空いた手を二列の座席が並ぶ先へ伸ばした。
箱馬車の中から見えるのは左右へ流れる景色までで、四頭も街道の先も前壁の向こうにある。
「御者台へ出たいのでしょうか」
イレナが最前列から振り返ると、リーネはもう一度「うま」と言って前へ腕を伸ばした。
私が最後部の座席へ座らせ直しても、袖を掴んだまま同じ方向を示している。
どうしたものか。
御者台は車外だ。馬のすぐ後ろでもある。走っている馬車からリーネを移すわけにはいかない。
私はすぐには動かず、なおも前を示すリーネの手を見た。
「よろしければ、私が御者台へ上がります。リーネ様は膝の上でお支えいたします」
最前列のマルタが続けた。
「最近のリーネ様は、気になるものへご自分から近づこうとなさいます。イレナがついているのでしたら、見せて差し上げてもよろしいのではないでしょうか」
危険だからと、すべてから遠ざければよいわけではない。
リーネが何を見て、何へ手を伸ばしたか。その一つずつも、この子がこれから生きる時間の一部になるのだろう。
私はイレナを見た。
「頼む」
私は木人へ止まるよう思念を送り、街道脇の平らな場所へ馬車を寄せさせた。
イレナが先に外へ出て御者台の空いている側へ上がり、私から受け取ったリーネを膝へ乗せた。
片腕を腹の前へ回し、木人が再び手綱を動かしても、その腕は外さない。
馬車が進み始めると、御者台からリーネの声が上がった。
私は最前列へ移り、車体の前壁にある連絡小窓を開ける。
そこから見えるのは、木人の腕とイレナたちの背中までだ。
街道の先は御者台の向こうに隠れたままだが、リーネは左右へ顔を動かし、見つけたものへ何度も腕を伸ばしている。
「あちらには山羊がおります。右手には、荷を背負った旅人もおりますよ」
イレナが指した先へ、リーネの頭が動いた。
しばらくすると、そのイレナが前を向いたまま声を上げる。
「前に、小さな幌馬車がございます」
四頭が進むうちに、イレナの声がもう一度連絡小窓から入った。
「幌の後ろから、女の子が顔を出しました。リーネ様より少し大きいくらいでしょうか」
リーネの身体が前へ傾き、イレナの腕が腹の前で止める。
次に連絡小窓から見えたのは、イレナが片手を上げるところだった。
「こちらへ手を振っています。こうして返すのですよ」
リーネの掌が上がり、イレナの手を追うように左右へ動いた。
車輪と蹄の音に紛れながら、イレナの声が届く。
「向こうも、もう一度振っています」
リーネの手は止まらない。
やがてイレナが前方の水場を告げると、木人も四頭の歩調を緩め、先を行く幌馬車との間隔を保ったまま広場へ入った。
水場には馬用の水桶と、荷車を止められる土の広場があった。
先に入った幌馬車から離れた場所へ、木人が私たちの馬車を進めて止める。
四頭の首筋は汗で濡れ、手綱が緩むとそろって水桶の方へ首を伸ばした。
私は先に降り、御者台の脇へ回ってイレナからリーネを受け取った。
マルタが車内から渡した布の鳥を抱かせ、リーネを地面へ立たせて人差し指を握らせる。
イレナは御者台から降り、水桶へ流れ込む水をすくってから、四頭をつなげる横木まで歩いた。
マルタが先に降り、セラとニナも座席から外へ出る。
最後にルヴェンが地面へ降りた。
幌馬車では、父親らしい男が汲み桶を下ろし、母親が女の子を抱えて地面へ降ろしている。
幌馬車の荷台の側面には、色の違う板を打ちつけた修理跡があり、荷を縛る紐は崩れないよう何重にも掛けられていた。
男は私たちの車体と御者台の木人を見上げた。
ルヴェンが翼を畳んで私の隣へ来ると、男は桶を置いて帽子を取る。
女の子がリーネを見つけ、口を開いた。
「あ!」
こちらへ歩きかけた女の子の身体を、母親が両手で支えた。
「待ちなさい。勝手に近づいてはいけません」
母親が女の子を引き留める一方で、リーネは私の指を強く引いた。
女の子の方へ行きたいと訴えるように、私が一歩進んでも力を緩めない。
私はその歩幅に合わせ、幌馬車へ近づいた。
父親が帽子を胸へ当て、頭を下げた。
「申し訳ございません。娘が失礼を」
「何がだ?」
「お連れのお嬢様へ、勝手に近づこうといたしました」
娘は母親に支えられた場所から動かず、リーネの方へ身体を傾けている。
リーネも私の指を握り、女の子のいる方へもう一度引いている。
「構わん。子供同士で話すくらい、問題はないだろう」
母親は私の返事を聞いてから両手を離したが、娘のすぐ後ろに残った。
女の子は手に持っていた木彫りの馬を、リーネの前へ出した。
鬣も手綱も彫られていない、木の形を整えただけの玩具だ。
女の子はリーネの前で膝を曲げ、木馬を地面へ走らせるように動かした。
「これ、うま」
「うま」
「おうま、知ってる?」
「うん」
知ったのは今朝だが、知っていることに違いはない。
リーネは布の鳥を両手で持ち上げた。
「とり」
「とりだ」
女の子が木馬を近づけると、リーネも布の鳥を前へ出した。
二人は近くに並んだ木馬と布の鳥を見比べる。
しばらくそうしてから、女の子は木馬を胸元へ戻し、空いた手を自分の胸へ当てた。
「わたし、リタ」
リタは空いた手を自分の胸へ当てた。
リーネも布の鳥を片腕へ抱き、リタの真似をするように自分の胸へ掌を置く。
「りーね」
「リーネ?」
「うん」
「リタ」
「りた」
リタは木馬を持ち上げ、リーネは布の鳥をもう一度持ち上げた。
二人とも次の言葉は出さず、そのまま相手の玩具を見ている。
「お許しいただき、ありがとうございます」
父親は帽子を胸へ当てたまま、もう一度頭を下げた。
「行商か」
「はい。妻と娘の三人で、町や村を回っております。布や糸、針、保存食のほか、普段使いの品を少しずつ」
荷の中には、同じ色の布を重ねた包みと、蓋を紐で押さえた木箱がある。
商売の品と三人の生活道具を、一台へ収めているらしい。
「次はどこへ向かう?」
「この先で最初の町です。その後もしばらく、同じ街道を使う予定でございます」
「同じ方向か」
「はい」
父親は娘のそばへ戻った。
同じ道を進むとしても、ここで一緒に行く理由はない。
先に水場へ入っていた商人一家は、私たちより早く出発の支度を始めた。
父親が荷を縛り直し、母親がリタを幌馬車へ乗せる。
リタは後ろの幌を持ち上げ、木馬を抱えたまま手を振った。
「またね、リーネ!」
リーネは私の指を離し、覚えたばかりの動きで手を振り返した。
幌馬車が街道へ戻り、道の先へ進んでも、掌は左右に動いている。
マルタがカップを差し出すと、リーネはようやく手を下ろして水を飲んだ。
イレナが四頭へ水を飲ませる間、木人は横木のそばに立ち、私たちは水場の木陰に残った。
飲み終えたリーネは私の隣へ座り、布の鳥を膝に置いた。
街道から別の荷車の音が聞こえても、先ほど幌馬車が消えた方を向いたままでいる。
やがて馬が水桶から離れ、木人が手綱を取り直す。
全員が元の座席へ戻り、私たちの馬車も同じ街道を進み始めた。
◇
昼を過ぎる頃には、街道沿いの家と畑が増えていた。
木の囲いと門を持つ町が近づき、馬車や徒歩の旅人が一つの道へ集まっていく。
リーネは最後部の窓から、屋根の並びを見ていた。
門の向こうには井戸を囲む人々と、洗った布を干す家が見える。
四頭立ての車体と木人の御者が門前へ着くと、門番たちは通行の列から私たちの馬車を分けた。
イレナが先に降りて人数と行き先を伝え、そのまま今夜使える宿を尋ねる。
やがてイレナが車内へ戻った。
「四頭の馬と、この車体を預けられる宿がございます。馬車置き場にも空きがあるそうです」
「分かった。そこにしよう」
宿については聞き返さず、イレナから聞いた道順と停止場所を木人へ渡すと、馬車は門を抜けた。
町の通りでは、家の前で荷を下ろす者も、井戸から水を運ぶ者も、通りかかる車体を見上げている。
リーネは窓際へ座ったまま、並ぶ家が途切れるまで動かなかった。
宿には通りから入れる広い門があり、その奥に厩と馬車置き場が並んでいた。
木人が建物の前へ馬車を止めると、イレナが宿の者へ四頭と車体を預ける話を始める。
マルタが先に降り、セラとニナが続く。
ルヴェンも座席から地面へ飛び降りた。
私は最後部からリーネを抱き上げ、布の鳥と一緒に地面へ下ろす。
「あ!」
馬車置き場の奥に、見覚えのある幌馬車が止まっていた。
商人夫婦は宿の者と荷の置き場所を話しており、そのそばに木馬を持ったリタがいる。
「同じ宿だったか」
リーネが私の指を握り、リタへ一歩近づいた。
「りた!」
リタは木馬を片腕へ抱え、空いた手を上げた。
「リーネ!」
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