第63話 リーネの旅支度(後編)
「馬車の準備ができました」
大樹の家へ戻ったイレナの報告を聞き、リーネが入口へ向かった。
「待て。地上までは一人で行けないだろ?」
リーネは入口の前で立ち止まり、私が来るのを待った。
荷物の方は朝のうちに、イレナとルヴェンが地上へ運んでいた。
マルタ、セラ、ニナ、ルヴェンもそろい、風のフィルネと下級の風精霊たちが私たちの身体を下から支える。
身体を支えられた一行は、大樹の幹に沿って地上へ降りていく。
草地へ着くと、四頭の馬をつないだ屋根付きの馬車が待っていた。
私たち五人とリーネ、ルヴェンを乗せても余裕がある、長旅用の車体だ。
「ローディネル王国からの貸与品です。王族専用の車体ですが、外装の紋章と飾り金具は外させました」
イレナの言葉どおり、外板には王家を示す紋章も、目を引く金銀の飾りもない。
リーネは馬車の手前で立ち止まり、その前につながれた馬たちを見上げた。
最も近くにいた一頭が首を巡らせ、リーネへ鼻先を向ける。
リーネは私の脚へ寄り、そこから動かずに見上げた。
馬の肩は、リーネの頭よりもはるかに高い。
イレナがその馬の手綱を持ったまま、リーネの近くへ来た。
「おっきい!」
「馬です」
「うま?」
「はい。馬です」
「うま!」
リーネは私の人差し指を握り、馬へ一歩近づいた。
私も歩幅を合わせ、隣を進む。
馬が首を下げ、鼻先をこちらへ寄せた。
リーネの身体が一度だけ後ろへ動き、握られた指へ力が加わる。
イレナが手綱を手繰り寄せ、空いた手で馬の首筋を撫でる。
馬は首を下げたまま動かず、耳だけをリーネへ向けた。私はリーネを抱き上げず、そのまま待った。
リーネは馬の鼻先を見たあと、もう一度、自分から腕を伸ばした。
指先が馬肌に触れる。
馬が鼻息を吐き、リーネの髪が揺れた。
リーネは驚いて手を戻したが、すぐに笑った。
「うま!!」
馬はもう一度鼻先を寄せた。
今度は身体を引かず、リーネは掌でそっと触れる。
馬の鼻先を二度撫でると、リーネは車輪のそばへ向かった。
屋根のある車体を見上げ、開いた入口から中を覗こうとする。
入口の縁を掴み、自分の身体を引き上げようとした。
だが、腕だけでは上がれない。
もう一度試してから、リーネは私を見た。
「りゅー」
私は身体を抱き上げ、入口から車内へ入れた。
リーネが馬へ触れている間に、マルタたちは衣服などの大荷物を車体後部の荷物入れへ収めていた。
車内には三列の座席が並び、最後部の座席だけは、左右の側面に大きな窓ガラスがはめ込まれている。
王族用の造りを残しているのは、外から見えない車内だけだった。
すぐに使うリーネ用の着替えなどは、最後部の座席へ置かれている。
リーネは自分の荷へ近づき、布の鳥を抱き上げた。
隣には、自分で選んだ木製の玩具もある。
布の鳥を戻し、玩具へ触れてから、車内の座る場所へ戻った。
セラとニナも乗り込む。
マルタは後部の荷物入れを閉じ、留め具を引いてから車内へ上がった。
セラたちが乗り込んだのを確認し、イレナは御者台へ回った。
四頭分の手綱を取り、二組ずつ両手へ分ける。
そのまま御者台へ上がろうとするイレナを、私は呼び止めた。
「御者はこいつにやらせる」
私は馬車の脇にある土へ魔力を流した。
地中から幾筋もの根が伸び、互いに絡みながら人の形を作る。顔に目鼻はなく、枝を束ねた両腕の先だけが手綱を握れる形へ分かれていた。
懐から道中の地図を出して広げ、ハイエルネリアへ続く街道と、途中で止まる場所を木人へ思念で渡す。
最後の根を土から抜いた木人は御者台へ上がり、イレナへ両手を差し出した。
イレナは何も言わずに木人へ手綱を渡した。
木の指が四頭分の手綱を二組ずつ持ち直しても、御者台の脇から動かず、わずかに口を開けている。
「……相変わらず、リュセル様の魔法は桁が違いますね。一応お聞きしますが……これは何ですか?」
「木人だ。木樹魔法で作った。地図にある街道と止まる場所を思念で渡してある。こいつが四頭を操り、指定した場所まで進む」
「御者まで務める木人ですか……」
「ああ」
「まだ一つある」
「何かございましたか?」
マルタが車内から尋ねた。
「大祭へ帰る者が持っていく物だ」
大祭の葉は忘れていない。
皆の荷を積み終えてから、最後に私が選ぶつもりだった。
私はリーネを抱いて車外へ降りる。
マルタは車内に残って留め具を締め、セラとニナは私たちに続いた。
私は大樹の枝葉を見上げた。
「大祭へ帰る者は、今暮らしている土地の葉を一枚持って帰る」
「葉を、ですか?」
セラも大樹を見上げた。
「ああ。自分が今どこで暮らしているのかを、世界樹へ示すためのものだ」
私が今暮らしているのは、ここだ。
持ち帰るなら、大樹の家の葉になる。
どれを取るか選ぼうとして、腕の中にいるリーネを見た。
今の家の葉を持ち帰るのなら、リーネが選んだものの方がいいのかもしれない。
「リーネ。持っていく葉を一枚、選んでくれ」
リーネは私を見たまま、手を動かさなかった。
私は頭上の枝葉を指す。
「あの中から一枚だ」
リーネは私の指先を追い、大樹を見上げた。
最も低い枝でも、私が抱き上げた程度では手が届かない。
しばらく頭上を見ていたリーネが、遠くの枝へ向かって、掌を上にして手を伸ばす。
その先で一本の枝が揺れ、一枚の葉が離れた。
葉は幾重もの枝の間をゆっくり落ち、リーネの開いた小さな手のひらへ収まる。
リーネは手を胸元へ戻し、掌の葉を見た。
「これ」
「それにするのか?」
「うん」
私はリーネの掌から葉を受け取った。
傷まないよう布へ包み、収納空間へ収める。
これで私の旅支度も終わった。
地上では、水のネレアが馬車のそばで身体を揺らし、地のドルムがその隣で待っている。
火のカーナも熱を抑え、風のフィルネは頭上を回っている。
私が地面へ下ろすと、リーネは水のネレアへ近づいた。
透明な身体へ掌で触れ、そこを離れると、地のドルムの丸い石の身体を撫でる。
火のカーナは熱を抑えてリーネの前へ進んだ。
リーネが指を伸ばすと、橙色の身体を触れられる位置まで寄せる。
三体との別れを終えるまで待っていた風のフィルネが、リーネの前へ降りた。
リーネは長い耳へ触れ、羽毛に似た尾を撫でた。
『いってらっしゃい!』
「かえる」
『……うん!! 待ってる!』
返事を聞いてからリーネを抱き、馬車へ戻る。
木人は御者台で四頭分の手綱を持ち、イレナとマルタが最前列、セラとニナが二列目へ座った。
私が最後にリーネを抱いて乗り込み、最後部の座席で大樹の家に近い方の窓際へ座らせる。
ルヴェンも私たちの隣へ上がり、白銀の尾を座席の上へ収めた。
私は木人へ出発を思念で命じる。
木人が手綱を引くと四頭の馬が歩き出し、馬車はゆっくり動き始めた。
車体が揺れると、リーネは座る場所へ手をつき、窓の外を見た。
大樹の家が少しずつ離れていく。
水のネレア、地のドルム、火のカーナが地上に残っている。
風のフィルネだけは馬車の横まで飛んできた。
森の道を進む間、風のフィルネは窓のすぐ外で羽毛に似た尾を振っていた。
リーネも窓へ両手をつき、尾の動きを追って身体を左右へ揺らしている。
大樹の家から十分に離れた頃、風のフィルネの速度が少しずつ落ち始めた。
馬車との間が開いていくと、リーネが窓から身体を出そうとした。
私は腰へ腕を回し、座る場所から落ちないよう支える。
風のフィルネは空中で止まった。
馬車だけが森道を先へ進んでいく。
「ふぃる!」
遠くなった風のフィルネが、尾を何度も左右へ振った。
『いってらっしゃい!』
「かえる!」
リーネは窓枠を掴んだまま、風のフィルネへ返した。
風のフィルネも尾を振り返す。
木々の間を馬車が進み、やがて風のフィルネの姿が隠れた。
大樹の家も見えなくなる。
姿が消えた木々の間を、リーネはしばらく見つめていた。
その先で道が曲がり、窓の反対側から朝の光が入る。
窓の外には低い灌木が続き、その間を土の道が朝の光の中へ伸びていた。
リーネはゆっくり前へ向き直り、隣に座る私の人差し指を握る。
私はその指を握り返した。
大樹の家を出た。
今度は、私が知っている世界をリーネへ見せる番だ。
馬車は大樹の家の森を抜け、ハイエルネリアへ続く旅路を進んでいった。
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