第60話 絵の中のリーネと今のリーネ
風のフィルネが、開いていた窓から共用空間へ飛び込んできた。
『主。お客さんが来たよ』
リーネは床に置いた木片から手を離し、自分で立ち上がった。
少しして、共用空間の扉が開いた。
丁寧に布で包まれた荷を抱えた絵師を、イレナが連れてくる。
「リュセル様。以前お越しになった絵師がお見えです」
絵師は抱えていた荷を示した。
布に包まれた肖像画が卓の上へ置かれる。
一年前にも大樹の家を訪れ、リーネを描いた者だ。
リーネは私の近くに立ち、見慣れない来客を見ている。
絵師は迷わずリーネへ一礼したあと、立っている姿を見て口を開いた。
「……大きくなられましたね」
私は隣にいるリーネを見る。
「人間の子供は成長が早い」
「まだ一年ほどですよね?」
「ああ。それだけあれば、人間の子供は随分変わるらしい」
私は毎日リーネを見ている。
立てるようになり、歩けるようになるまでを、そばで見てきた。
だが、一年前の姿を最後に帰った絵師には、その間の変化が一度に見えたのだろう。
あの時のリーネは、私の服をつかんで、ようやく自分の力で立ち上がったところだった。
「あの時は、立ち上がられただけでも皆様が驚いておられましたのに」
「そうだったな」
あの時は、立っただけで全員が動きを止めていた。
倒れないかを見守る中、紙の上で炭が走る音だけが続いていたことを覚えている。
「本日は、その時の肖像画をお持ちしました」
絵師は抱えていた荷を示した。
共用空間へ案内すると、卓の上へ布に包まれた肖像画が置かれる。
結び目が解かれ、布の中から完成した絵が現れた。
絵の中で、リーネは私の服を両手でつかみ、自分の力で立っている。
私はその身体へ触れず、倒れればすぐに支えられる位置へ両手を添えていた。
あの日に選んだ素描と同じ瞬間だ。
背景や服よりも、初めて立ったリーネと、そのそばにいる私の姿が先に目に入る。
包みが解かれる間に、マルタとセラ、ニナも卓の近くへ来ていた。
ルヴェンもマルタたちの後ろまで来て、完成した絵を覗き込んでいる。
皆が同じものを見ていると分かったのか、リーネも絵の前まで歩いてきた。
描かれた子供を見上げ、指を伸ばす。
「これ?」
「お前だ」
リーネは絵を見たまま、自分の胸へ手を当てた。
それから、もう一度絵の中の子供を指す。
「りーね?」
「ああ。リーネだ」
リーネは返事を聞き、絵の中の自分を見ている。
同じ名で呼ばれる子供が自分だと、どこまで分かったのかは判断できない。
絵の中のリーネは、私の服がなければ立っていられない。
その前に立つリーネは何にもつかまらず、絵の端を見るために横へ数歩歩いた。
一年前なら、それだけで全員が動きを止めただろう。
今では、リーネが立って歩くたびに誰かが驚くことはない。
「小さい頃のリーネ様も、本当にかわいらしいですね」
セラが絵の前で言った。
「今も小さいだろう」
「そういう意味ではありません!」
「本当に大きくなられましたね」
マルタは肖像画を見てから、絵の前を歩くリーネを見る。
「この頃は、まだ歩けなかったんですよね」
ニナの問いに、私は頷いた。
「ああ」
リーネは皆の言葉より、近くへ来た白銀の尾に気づいた。
「べるー」
『はい。リーネ様』
ルヴェンは普段と同じように答え、尾先をリーネの手が届く位置へ動かす。
リーネは尾へ触れたあと、もう一度肖像画を見た。
絵が描かれた頃、リーネはまだルヴェンの名を呼ばなかった。
今では自分から呼び、返事を待つことができる。
絵師も、完成した肖像画と現在のリーネを見ていた。
「同じ方を描いたはずなのですが、一年でここまで変わられるのですね」
描き始めた時には、絵の中の姿が現在のリーネだった。
だが、人間の子供は、こちらが絵を完成させるのを待ってはくれないらしい。
◇
絵師は用件を終えると、長く滞在せずに帰っていった。
私は共用空間へ戻り、完成した肖像画の前に立った。
母上は以前、この絵が完成したら自分にも一枚欲しいと言っていた。
だが、どのように渡すかまでは決めなかった。
◇
同じ日の午後、イレナが封書を持って共用空間へ来た。
「リュセル様。ハイエルネリアからです」
差し出された封書には、ハイエルネリア王家の印が押されている。
差出人の名を確認するまでもなく、誰が送ったのかはおおよそ分かった。
封を開き、中の手紙を読む。
「ふむ」
「王妃陛下からでしょうか」
「ああ」
「差し支えなければ、どのような内容か伺ってもよろしいでしょうか」
私は手紙をイレナへ渡した。
イレナは恐る恐る受け取り、文面を読んだ。
「王妃陛下は、大祭の準備が始まったため、リュセル様とリーネ様にそろって必ずお戻りになるよう求めておられます。国王陛下もリーネ様ご本人にお会いになりたく、肖像画だけを送って済ませてはならない、と」
「いかにも母上らしい手紙だ」
「お返事は、いかがなさいますか」
「それはあとで考える」
丁寧な文面ではあるが、私に断らせるつもりがないことは最後まで読めば分かる。
今回は、帰ってこいというだけではなく、大祭へ参加することまで言い切られていた。
「リュセル様。大祭とは、どのようなお祭りなのでしょうか」
「世界樹を讃える祭りだ。十年に一度、ハイエルネリアの首都エルセリスで行われる」
「なぜ、その都で行われるのでしょう」
「世界で唯一の世界樹があるからだ。エルセリスは、その世界樹の周りに築かれている」
「いつから続いているのでしょう」
「数千年前からだ。祭りの日には、精霊王も精霊界から降りてきて、共に世界樹を讃える」
「それほど大きな祭りなのですね」
「ああ。ハイエルネリアでは、国を挙げて行う祭りだ」
「エルフの方々は、皆、出席されるのでしょうか」
「多くはな。王族は特に出席を求められる」
「では、リュセル様も毎回?」
「いや。三度続けて出ていない」
私の言葉にイレナは驚いた表情を見せる。
「三度も欠席されたのですか?」
「ああ。世界の記録をまとめる方が忙しかった」
「……では今回は、出席なさるおつもりですか」
「四度続けて欠席するのも問題だ。そろそろ出るべきだとは思っていた」
イレナは手紙を私へ返した。
私はまだ、旅の支度について何も命じなかった。
手紙を持ったまま、午前中に届いた肖像画を見る。
絵の中のリーネは、一年前に初めて立ったばかりで、まだ歩けない。
「この肖像画だけを母上へ送るか」
そうすれば、リーネに長い旅をさせずに済む。
だが、父上が会いたがっているのは、絵の中のリーネではない。
母上も、歩いて話すようになった今の姿は知らない。
「さて、どうしたものだろうな……」
答えを考えている間にも、リーネは肖像画の前を自分で歩いていく。
父上と母上に会わせたいのは、今ここを歩いているリーネだ。
私が大祭へ出る時に連れて帰れば、二人は肖像画ではなく、今のリーネに直接会える。
私は木片を持って歩くリーネを呼んだ。
「リーネ」
リーネが私を見る。
「りゅー?」
「ハイエルネリアへ行くぞ」
ハイエルネリアという名を理解したかは分からない。
リーネは私を見たまま少し考えた。
「いく?」
「ああ。今度は少し遠い」
リーネは持っていた木片を床へ置き、私のところまで歩いてきた。
そして、初めて遊び場の外へ向かった時と同じように、私の人差し指を握る。
「りゅー、いく」
あの時は、遊び場の外にある森道へ一緒に出ただけだった。
今度は、この小さな手を引いて、私の故郷まで行くことになる。
「ああ。一緒に行く」
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