第59話 リーネは、みんなの名前を呼ぶ
朝食の時間になると、リーネは大樹の中を歩き始めた。
私は隣を歩いているが、手はつないでいない。
曲がる場所でも迷わず、食卓のある部屋へ続く通路を進んでいく。
部屋へ入ったリーネは、皿を運んでいたマルタを見つけると、食卓へは向かわず、そのままマルタのところまで歩いていった。
「まるた」
「はい、リーネ様。おはようございます」
マルタは皿を食卓へ置き、リーネの前まで来た。
リーネはマルタを見上げ、口元を動かす。
「おはよ」
「はい。よくできました」
リーネは返事を聞くと、食卓に置かれた水のカップまで歩き、両手を伸ばした。
「みず」
「どうぞ。両手でお持ちくださいね」
マルタがカップを下ろすと、リーネは両手で包むように持った。
持ち上げる時に片側が傾いたため、マルタが底へ手を添える。
リーネはそのまま縁へ口をつけ、自分で傾けた。
一口目は飲めたが、二口目で水が口の端から顎へ伝った。
マルタが布を取ると、リーネはカップを抱えたまま身体を横へずらす。
「まだ飲まれますか?」
リーネは答えず、もう一度カップへ口をつけた。
マルタは取り上げず、底だけを支え直す。
リーネは何口か飲んでから自分でカップを離した。
「飲めましたね」
マルタが濡れた口元を拭いているところへ、セラが料理の入った皿を持ってきた。
リーネは布の下からセラを見つけ、身体ごとそちらへ向く。
「せら!」
セラの口元が開き、持っていた皿をすぐ食卓へ置いた。
「はい! セラです、リーネ様!」
勢いのある返事に、リーネは一歩だけ後ろへ下がった。
セラはリーネの前へしゃがみ、顔の高さを合わせる。
「もう一度、呼んでいただけますか?」
その時、食卓の向こうを白銀の尾が通った。
リーネはセラの横から伸びる尾先を見つけると、もうそちらへ歩き出していた。
「べるー!」
『はい。ここにおりますよ、リーネ様』
ルヴェンは立ち止まり、尾先をリーネの手が届く高さまで下ろした。
リーネは両手で毛を挟み、指の間から出た毛先へ頬を寄せる。
「そのまま素通りされた…やっぱりルヴェン様は別格なのですね……」
セラがしゃがんだままおよよ、と泣きまねをするもリーネは白銀の尾を離さず、返事もしない。
「幼児がお前の期待に合わせると思うな」
「……明日は二度呼んでいただけるかもしれません」
『それまでに何度、私を呼ばれるでしょうね』
セラはルヴェンを見たが、言い返す前にマルタから席へ着くよう言われた。
◇
朝食のあと、ニナは窓に近い机で文字の稽古をしていた。
紙には同じ文字がいくつも並び、その端に鳥の絵が描かれている。
リーネは机のそばまで行き、椅子に座るニナの服へ触れた。
「にな」
「なあに、リーネ様」
ニナは筆記具を置くと、紙を持って椅子から降り、床へ座った。紙を自分の前へ広げ、隣を手で軽く叩く。
「リーネ様、ここ」
「うん」
リーネはそこへ腰を下ろし、紙へ両手をついた。
「これは?」
ニナが鳥の絵を指す。
リーネは絵へ顔を近づけ、嘴から羽までを眺めた。
「とり」
「そう。鳥。ぴよぴよ」
「ぴよぴよ!」
森道で鳥の声を聞いた時にも、リーネは同じ言葉を使っていた。
今日は鳴き声も羽ばたきもない絵を見て、それを鳥と呼んでいる。
ニナは鳥の横の文字を指した。
「じゃあ、これは?」
リーネは少しだけ首を傾げる。
紙に並んだ線を指先でなぞろうとして、まだ乾いていない墨の前でニナに手を止められる。
「そこは触ると黒くなります。これは、まだ難しいね」
ニナは紙を少し回した。リーネは乾いた文字を指でなぞり始めた。
答えられなくても、リーネはその場を離れなかった。ニナもそれ以上は尋ねず、二人で同じ紙を見ていた。
私は少し離れた食卓から二人を見ていた。
一年前のリーネは、自分で相手のところへ行くことも、相手と同じものを見ることもできなかった。
今は自分からニナの隣へ座り、知っているものには言葉を返している。
ニナの筆記具が動き始めると、リーネはその先を追って紙の上へ身体を寄せた。
◇
昼前、イレナは外出用の装備を整え、大樹の入口へ向かっていた。
腰には剣があり、肩にはヴァルネから運ぶ物を入れるための空の鞄が掛かっている。
リーネはその姿を見つけると、イレナの進む先へ回り込んだ。
「いれな」
イレナは立ち止まった。
「はい、リーネ様」
リーネは剣と鞄を見てから、開いている入口を見た。
「いく?」
「はい。ヴァルネへ行ってまいります」
イレナが入口へ身体を向けると、リーネもその隣へ並び、一緒に外へ出ようとする。
「お前は行かない」
私が止めると、リーネは入口の内側へ戻った。
私の顔を見上げたあと、入口に立つイレナを見る。
「夕方には戻ります」
リーネはイレナの鞄へ手を伸ばしかけたが、触れずに下ろした。
それ以上はついていこうとせず、入口の内側に立ったまま片手を上げる。
イレナは一度立ち止まり、同じように手を上げてから外へ出た。
◇
昼には、風のフィルネと下級風精霊に運ばれ、大樹の根元にある遊び場へ降りた。
リーネは王妃から贈られた木製玩具の箱から、角を丸くした木片を二つ取り出した。
セラは草地で布を畳んでいる。
リーネは木片を両手に一つずつ持って近づき、片方を差し出した。
「せら」
「一緒に遊びましょうか」
セラは布を籠へ入れ、差し出された木片を受け取った。
一つを地面へ置くと、リーネがその上へもう一つを載せようとする。木片の端同士が当たり、上の一つが草へ転がった。
セラは拾って積み直すのではなく、下の木片を平らな場所へ動かした。
「ここなら載せられますよ」
リーネは転がった木片を拾い、両手で下の木片へ載せた。
二つが重なったまま残ると、口元を開き、セラの腕を叩いた。
「できましたね、リーネ様!」
リーネは重ねた木片を自分で崩し、二つとも抱えた。
そのまま少し離れたニナのところへ歩いていく。
「にな」
ニナは地面へ座り、差し出された木片を一つ受け取った。
「今度は並べる?」
ニナが一つを置くと、リーネもその隣へ一つを置いた。
間が空きすぎたため、ニナが自分の木片を近づける。
リーネもまねをして、二つが触れるまで押した。
「もうニナのところへ行ってしまうのですか?」
後ろからセラが言う。
リーネは木片を押すことに夢中で、振り返らなかった。
草の上を風が通り、二人の前に置いた木片の周りで葉が回った。
風のフィルネが淡い青白色の身体を風の中から現し、長い耳を動かしながら降りてくる。
リーネは木片から手を離して立ち上がった。
「ふぃる」
『呼びましたね! 今、私を呼びましたね!』
風のフィルネはリーネの周りを一度回り、伸ばされた手の前で止まった。
リーネが長い耳へ触れると、耳が指の下で動く。
今度は羽毛に似た尾へ手を伸ばし、両手で挟んだ。
『もっと風を出しましょうか? 葉も回せますよ!』
風のフィルネが尾を振ると、リーネの髪が持ち上がった。
「それ以上は強くするな」
『分かっています。リーネが立っていられるくらいにします!』
リーネは髪を揺らす風を気にせず、風のフィルネの尾を撫で続けている。
尾が揺れた時に一枚の葉が目の前の草へ落ちると、リーネは風のフィルネから手を離し、しゃがんで拾い上げた。
◇
午後になり、入口の外で荷物の置かれる音がした。
遊び場にいたリーネは大樹の方を向き、戻ってきたイレナを見つけた。
「いれな!」
片手には、先ほど風に運ばれてきた葉を握っている。
リーネは葉を持ったまま、自分で入口まで歩いていった。
イレナはリーネが来る前に鞄を地面へ置き、剣の鞘が触れないよう腰の後ろへ回してしゃがんだ。
リーネはその前まで歩き、握っていた葉を差し出す。
「これ」
「見つけたのですか」
リーネは頷き、イレナの手の上へ葉を載せた。
イレナが葉を裏返すと、リーネはもう一度その葉へ指を触れる。
「きれいな色ですね。ありがとうございます」
リーネはイレナの返事を聞き、今度は地面へ置かれた鞄へ手を伸ばした。
「中の物は、あとでマルタへ渡します」
説明のすべてが分かったとは思わない。
それでもリーネは鞄へそれ以上手を伸ばさず、葉を手にしたイレナの隣を歩いて大樹の中へ入った。
以前のイレナは、リーネを守るためにここへ来た人間だった。
今では出ていく時に呼び止められ、戻ればリーネの方から迎えに来る。
イレナが渡された葉をそのまま手にしているのを見れば、二人のやり取りに私が口を挟む必要はなかった。
◇
夕食を終えた頃には、リーネの歩みは昼より遅くなっていた。
それでも自分で食卓を離れ、ルヴェンの尾へ一度触れ、片づけをするマルタのそばにも行った。
一年前、リーネが何かを求める時は、泣くか、腕を伸ばすか、私の服を掴むことがほとんどだった。
自分で相手のところまで歩くことはできず、誰かの名を呼んで返事を待つこともなかった。
今日だけでも、リーネは何度も自分で相手を選んだ。
呼ばれた者は返事をし、リーネはその返事を聞いて水を飲み、隣へ座り、見送り、玩具や葉を渡していた。
私がリーネのために用意した大樹の家で、今度はリーネ自身が、一人ずつそれぞれとの関係を作っている。
そうして部屋を歩いていたリーネが、最後に私のところへ来た。
服の裾を掴み、顔を上げる。昼から何人もの名を呼んでいた口が、今度は私を呼んだ。
「りゅー」
「どうした」
リーネは両腕を私へ伸ばした。
「りゅー、だっこ」
「分かった」
身体の下へ腕を入れて抱き上げる。
リーネはすぐに力を抜き、私の胸元へ頬を寄せた。片手で服を握り、もう片方の腕を私の身体と自分の間へ挟む。
背を支え直すと、瞼が下がっていった。
一年前より、リーネが自分から呼ぶ名は増えた。
その名を持つ者たちのところへ、自分で歩いていけるようにもなった。
それでも一日の終わりに眠くなれば、リーネは私を呼び、抱き上げろと腕を伸ばす。
広がったリーネの世界の中で、最後に戻ってくる場所は、今も私の腕の中にあった。
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