第58話 リーネの散歩
蝶は木々の間へ消えたまま、戻ってこなかった。
それでもリーネは私の人差し指を握り、森道を進んでいる。
土の見えるところへ足を置き、草が伸びたところでは靴先で押してから踏み出す。
先ほどまで何度も私の指を引いていたが、今は道の両側を見ながら歩いていた。
途中には土の盛り上がった場所もあった。
リーネは片足ずつ上へ置き、止まらずに越えた。
イレナは私たちより先にいる。
離れすぎない位置を保ち、道の先と木々の間を確認していた。
歩く途中に道脇に花が咲いていて、リーネはその前で止まり遠目で花を見たあと、私を見上げた。
握った指が、花の方へ引かれる。
「今度はあれか」
返事の代わりに、リーネはもう一度私の指を引いた。
「分かった。だが、ゆっくり行け」
リーネは道の端まで歩き、花の前にしゃがんだ。
顔を近づけ、片手を花びらへ伸ばす。
その指が触れる前に風が通り、花が横へ揺れた。
伸ばした指は花びらに届かず、宙に残った。
花が元へ戻り、もう一度揺れると、リーネは首を傾けた。
「風だ」
「かぜ」
「ああ。風だ」
リーネは花から手を離し、周りの草を見た。
同じ風を受けた草が一斉に傾くと、そちらへ顔を動かす。
しばらく眺めたあとで立ち上がり、私の人差し指を握り直した。
先にいたイレナも足を止めていたが、リーネが歩き出すと再び道の先へ進んだ。
木の上から鳥の声がした。
リーネは足を止め、枝の重なる方を見上げる。
もう一度鳴き声がすると、空いている手を上へ伸ばした。
「とり」
「いるな」
「とり」
葉の間で鳥が動いた。
リーネの伸ばした指が、その枝へ向いた。
鳥が隣の枝へ飛び移った。
さらに道から離れた木へ飛ぶと、リーネもそちらへ足を出す。
だが私は握られている指を止めた。
「そっちは行かない」
リーネは私を見上げた。
鳥の声がした方へ顔を戻し、しばらくしてから、また私を見る。
やがて伸ばしていた腕を下ろし、道の中央へ戻った。
「そうだ。それでいい」
私が指を動かすと、リーネは前へ向き直って歩き始めた。
◇
一年前なら、行き先を決めて抱いていくのは私だった。
今はリーネが自分で花を見つけ、鳥の声を探し、次に進む方を選んでいる。
歩ける場所が増えれば、行きたい場所も増えるらしい。
しばらく道を進んだところで、私は大樹の方を指した。
「そろそろ戻るか」
リーネは止まり、不思議そうに私を見上げる。
「随分歩いたぞ」
リーネも大樹の方を見た。
だが、道の先の土に落ちていた木の実を見つけると、そちらへ身体を向けた。
「まだ行くのか」
握られた指が前へ引かれた。
私はその場で待ったが、リーネは木の実から顔を動かさない。
「……分かった。だが走るな」
リーネは木の実まで歩き、その前でしゃがんだ。
拾い上げると、両手で持って眺め、それから口元へ近づける。
「それは食べるな」
リーネは木の実を口元へ近づけたまま、動かなくなった。
「たべる?」
「食べない」
「たべない」
「そうだ」
リーネは木の実を道端へ戻し、立ち上がった。
私の言葉をどこまで分かっているかは知らない。
それでも、聞いた言葉をまねて返すことは増えている。
一年前にはなかったやり取りだった。
再び歩き始めてから、リーネの足がどうも疲れたような素振りを見せている。
先ほどより左右の足の間が狭くなり、歩幅も随分と狭くなっていた。
それまでは私を先へ連れていくために指を引いていた。
今は握った指へ体重を預け、それから足を出している。
「リーネ様、少しお疲れではありませんか」
イレナが歩みを緩め、私たちのそばまで戻ってきた。
「ああ。さっきより歩幅が狭い」
話し声を聞いたリーネが、私たちを見上げた。
私は足を止める。
「疲れたか?」
リーネは答えなかった。
「抱くか?」
リーネは私の腕を見たまま待っていたが、両腕を伸ばしてはこなかった。
やがて前へ向き直り、また一歩を出す。
「まだ歩くのか」
リーネは歩き続けた。
「……そうか」
足取りは疲れているように見える。
だが、本人はまだ歩こうとしており、道に危険もない。
私とイレナがそばにいるなら、ここで無理に抱き上げる必要はなかった。
私は歩幅をさらに狭め、身体が傾けばすぐ支えられる位置を歩いた。
そうした中で、リーネが何もない道の途中で止まった。
「どうした?」
返事はない。
しばらくして一歩を出したが、数歩も進まないうちにまた止まる。
草が揺れれば草を見て、鳥が鳴けば木の上を見た。
だが、先ほどまでのように近づこうとはせず、足は動かなかった。
もう、はっきりと疲れている。
「リーネ」
呼ぶと、リーネは私を見上げた。
「戻るぞ」
リーネは私の顔を見たまま動かなかったが、嫌がりはしなかった。
私が大樹の方へ身体を向けると、リーネもそちらへ向き直る。
「帰るぞ」
「かえる」
「ああ」
来た道を戻り始めた。
リーネは数歩進んでは止まり、また数歩だけ進む。
指を握る力は、行きよりも強くなっていた。
やがて、来る時に越えた土の盛り上がりまで戻った。
リーネは片足を上へ置いたが、次の足がなかなか上がらない。
私は反射的に手を伸ばしかけた。
だが、リーネは指を握り、身体を前へ傾けている。まだ自分で越えようとしていた。
私は腕を支えられる位置に置いたまま待った。
リーネは握った指へ体重をかけ、もう片方の足を上げる。
靴が土の上へ乗り、起伏を越えた。
その先で止まり、今度は歩き出さなかった。
「リーネ?」
呼びかけると、顔だけがこちらへ動いた。
私はしゃがみ、顔の高さを近づける。
「どうした」
リーネは私の顔を見た。
しばらくして、人差し指から手を離す。
それから、両腕を私へ伸ばした。
「りゅー、だっこ」
泣くのでも、服を掴むのでもなく、何をしてほしいのかを言葉で伝えている。
私は伸ばされた腕の下へ手を入れた。
「分かった」
両脇を支えて抱き上げると、それまで張っていた腕と足が緩んだ。
腕が私の首へ回り、顔が肩へ伏せられる。
片手は私の服を掴み、足はもう地面へ伸びようとしなかった。
「……随分疲れていたではないか」
私は背と腰を支え直した。
リーネは肩へ顔を伏せたまま、服を掴む指だけを動かす。
「それでも歩きたかったのか」
返事はなかった。
私はリーネを抱き直して立ち上がる。
「随分歩かれましたね」
イレナが隣まで来る。
「ああ。本人はまだ歩けるつもりだったようだがな」
「歩けるようになったことが、嬉しいのでしょうね」
「だからといって、歩き続けられるわけではない」
「はい。まだ幼いですから」
私たちは大樹へ向かって歩き出した。
私の腕の中にいるリーネは、来る時にしゃがみ込んだ花の前を通っても顔を上げない。
木の上から、先ほどと同じ鳥の声がした。
それでも、肩へ伏せたままだった。
「眠いのか」
返事はない。
瞼が下がり、私の服を掴んでいた指も緩み始めている。
「眠いなら寝ろ」
リーネは私の肩へさらに身体を預けた。
歩いているうちに呼吸がゆっくりになり、服を掴んだ指がさらに緩んでいく。
「眠られましたね」
イレナは声を抑えて言った。
「ああ」
自分で歩けるようになったからといって、長く歩けるわけではない。
歩いた分だけ疲れ、抱いて戻ることになり、そのまま眠ることもある。
今日の森道だけでも、出る前には分からなかったことがいくつもあった。
大樹の家へ戻ると、入口でマルタが迎えた。
眠っているリーネを見ると、声を抑える。
「お眠りになったのですね」
「ああ」
「随分と歩かれましたか?」
「途中まではな。帰りはこうなった」
私は肩で眠るリーネを見た。
マルタは笑った。
「歩けるようになったからといって、ずっと歩けるわけではありませんから」
「分かっているつもりだった」
だが、知っていたのは、幼い子が疲れるということだけだ。
今日のリーネがどこまで歩き、どのように足を止めるのかは、実際に一緒に歩くまで分からなかった。
「だが、実際にどの程度で疲れるかまでは知らなかった」
「それは日によっても変わりますよ」
「日によって?」
「よく眠れたか、食事をどれだけ取ったか、その前に何をしていたかでも違います。今日と同じ道でも、毎回同じとは限りません」
「なるほど」
私は眠っているリーネを寝台へ運んだ。
服を掴んだ指を一本ずつ外し、身体を横たえる。
傍らには、いつもの布の鳥を置いた。
森道へ出る時、リーネは私の指を引いて「りゅー、いく」と言った。
歩けなくなった時には、自分から腕を伸ばして「りゅー、だっこ」と求めた。
行きたいことも、できなくなったことも、以前より言葉で伝えられる。
ならば私も、今のリーネがどこまでできるのかを、今までとは違う形で知る必要がある。
ハイエルネリアまで行くなら、今日より長く外で過ごし、何日も馬車へ乗ることになる。
母上に帰ってこいと言われてから、食事や着替えは先に考えていた。
だが、必要なのは物だけではない。
リーネがどの程度歩けるのか、外で食べられるのか、慣れない場所で眠れるのかも、知らなければならない。
まだ、帰ると決めたわけではない。
だから、出発のために荷をまとめる段階でもない。
寝台の上では、リーネが布の鳥の方へ指を動かし、そのまま眠っている。
「まずは、一日外で過ごしたらどうなるのか。それを知るところからか」
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