第57話 あれから、一年くらい経ちました
「べるー!」
リーネの声が、大樹の根元に広がる草地へ響いた。
幼児用の靴が草を踏み、葉が足元で伏せては戻る。
リーネは両腕を左右へ開き、見上げても先の遠い大樹の幹を背にして、自分の足で前へ進んでいた。
枝葉の隙間から差す日の光が、草の上にいくつもの形を作っている。
その間を縫うように、白銀の尾が揺れた。
少し前を進むルヴェンは、本気で逃げてはいない。
リーネが近づけば速度を緩め、伸ばされた手が尾先の毛へ触れそうになると、その分だけ前へ出る。
白銀の毛をあと少しで掴めそうになるたび、リーネの口元が開き、足の運びが速くなった。
『リーネ様。こちらですよ』
ルヴェンが長い耳を動かし、尾先を草の上で左右へ振る。
「べるー!」
リーネは開いていた腕を前後に動かし、歩く速さを上げた。
初めの数歩は普段と変わらない。
だが、ルヴェンの尾ばかりを見ているうちに上半身が先へ出て、歩みはそのまま駆け足へ変わった。
靴が草を続けて踏み、開いた両腕が上下に揺れる。
ルヴェンはリーネが追いつく直前に身体を横へ滑らせた。
白銀の尾が右へ移り、リーネもすぐにそちらへ曲がろうとする。顔と身体は向きを変えたが、前へ進んでいた足だけが一歩遅れた。
踏み出した靴の先が草へ引っかかる。
前へ傾いた身体が両腕より先に地面へ近づく寸前、私は横から胸元と腹を支え、そのまま抱き止めた。
リーネの足が一度だけ宙で動いた。
それでも泣きはせず、自分を支えている腕を辿るように顔を上げる。
私がいることを確認すると、驚いた様子もなく口を開いた。
「りゅー」
「なんだ」
返事を聞いたリーネは、私の胸へ寄りかかることもなく、地面へ両足を伸ばした。
靴の裏を草へ近づけ、降ろせと身体を下へ向けている。
「まだ歩くのか」
リーネは足先で草に触れようとした。
私は胸元と腰を支えたまま地面へ下ろす。
両足で立ち、次の一歩を出せるところまで待ってから腕を離した。
母上が大樹の家を訪ねてから、およそ一年が過ぎた。
一年前は、立ち上がっただけでマルタたちがそばへ集まり、私も倒れないよう手を添えていた。
今では手を離した途端、自分で行き先を決めて歩き出す。
以前は届かなかったルヴェンの尾へ自分から近づき、私の言葉にも、覚えた言葉で応える。
昨日までできなかったことができるようになったかと思えば、次に見る時には、それが最初からできていたように繰り返している。
自分の足で進み、覚えた言葉を返す姿を見ていると、この一年でリーネが確かに成長したのだと実感する。
リーネは受け止められた場所を振り返りもせず、草地の先へ進んだ。
普通に歩いている間は足取りも崩れない。
急いだ時や、別のものに気を取られた時だけ、身体の動きに足が追いつかなくなる。
ならば、危険になる前に手を出せる場所で歩かせればよい。
大樹の根元には、草地の中を巡る道がある。
土を踏み固めすぎず、幼い足でも段差に取られないよう地表を整えた道だ。左右には草を残し、大樹から伸びる根の間を通り、木陰で腰を下ろせる場所まで続いている。
リーネは道の中央を歩き、途中で土の盛り上がった場所へ足をかけた。
足を上げて越える程度の起伏は残してあるが、靴に当たる石や、地表へ突き出た根はない。
地のドルムが石を地中へ沈め、根を傷つけないまま土の高さを変えて、道を保っていた。
リーネが起伏を越えたところで、上から乾いた枝が一本落ちてきた。
道へ触れる前に横から風が吹き、枝は草地の外まで運ばれる。
風のフィルネが枝を追って飛び、道の上で向きを変えた。
『枝は草地の外へ出したよ。これで、リーネが踏むことはないからね』
「そうか」
風のフィルネは返事を聞くと、次は草地へ落ちた葉を風に乗せ始めた。
すべてを取り除くわけではない。
踏めば足を取られる枝や、葉が重なって滑りやすくなった場所だけを選んでいる。
リーネが歩き始めてから、慌ててここを作ったのではない。
つかまらずに立つ時間が増えた頃には、私は四体の家付き精霊と地上の使い方を決めていた。
足を運ぶ先から石を除き、手が届く高さに危険なものを残さず、外へ興味を持つ前に森との境も整えた。
今では、リーネが困ってからではなく、困る前に次に必要なものを考えている。
火のカーナは木陰よりも大樹の入口に近い場所にいた。
リーネが地上で遊ぶ間は草地へ入らず、自分の熱を遊び場へ近づけないと決めている。
道の先にある木陰では、マルタが飲み物の入った器を用意していた。
リーネはマルタの姿を見つけると、迷わずそちらへ身体を向けた。
歩みを止めず、器とマルタを何度か見上げながら道を進む。
「まるー」
リーネはマルタを呼びながら、木陰まで歩いた。
そばにいるセラを見つけると、今度はそちらへ声をかける。
「せらー」
二人の前まで来ると、マルタが飲み物の入った器を差し出した。
リーネは器を両手で持ち、マルタに底を支えてもらいながら、何口か飲んだ。
飲み終えると、マルタが器を受け取り、口元についた水を布で拭った。
リーネはもう次のものを探して、駆け出していた。
草と土の境に、色の抜けかけた落ち葉が一枚あった。
「これ」
リーネが葉を指さすと、ニナが隣にしゃがんだ。
「葉っぱですね。拾えますか?」
リーネはしゃがんで葉を摘まもうとしたが、指先に押されて土の上を滑った。
「もう一度です」
今度は親指も使い、葉を拾い上げた。
「取れましたね」
「これ!」
リーネは葉を握って立ち上がったが、身体が横へ傾いた。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
ニナの声を聞きながら、リーネは両腕を広げて姿勢を戻した。
それから私のところまで歩いてくる。
途中で葉を落とさないよう胸元に寄せ、私の前へ着くと、腕をできるだけ上へ伸ばした。
「これ」
「葉だ」
リーネは返事を聞いても腕を下ろさず、今度は私の手へ触れそうなところまで葉を差し出した。
私は差し出された葉の端へ触れ、頷いた。
ニナも隣へ来てしゃがみ、虫食いの穴を指した。
リーネは穴へ指を入れようとして、土のついた葉を掌で握り直す。
指先まで汚れたところで、水のネレアが木陰の水を一筋だけリーネの手元へ運んだ。
『手を開いてください』
リーネが掌を上へ向けると、水のネレアは指の間を流れる量だけ水を広げた。
マルタが布を差し出し、洗い終えた手から水を拭き取る。
その間も、リーネはもう片方の手で葉を離さなかった。
白銀の尾がニナの背後から伸びてきた。
リーネは尾先が揺れるのを見つけると、葉を握った手をルヴェンへ向け、顔を明るくした。
「べるー」
『はい。ここにおりますよ、リーネ様』
ルヴェンは当然のように答え、尾先をリーネの肩へ触れさせた。
リーネは毛へ頬を寄せようとするが、ルヴェンがわずかに尾を動かすと、今度は手で捕まえようとする。
ルヴェンはリーネが呼ぶ「べる」の呼び方を直さない。
呼ばれるたび、ルヴェンは同じように返事をしてきた。
私も、最近は最初からそういう名だったように聞き慣れている。
その時、草地の上を蝶が横切った。
白銀の尾へ伸びていたリーネの腕が下がった。
顔が蝶の進む方へ動き、蝶が草の上で上下に揺れながら先へ進むと、リーネは身体ごと向きを変える。
握っていた葉が足元へ落ちた。
だが、もう葉には戻らない。リーネは蝶のあとを歩き、蝶が先へ進むと足を速めた。
蝶は草地を越え、森へ続く道の方へ飛んでいく。
リーネも土の道を外れ、遊び場を囲む起伏へ向かった。
私もその後を追った。
境の外にはイレナがいた。
森側から大樹へ近づくものがないか、道を通る人間がいないかを見られる位置に立っている。
リーネが進む方向を変えた時には、イレナもすでに境へ身体を向けていた。
私がすぐ後ろまで来ると、イレナは境の傍に立ったまま、前へは出なかった。
「そこから先へ一人で行くのは、だめだぞ」
リーネの足が、土の起伏を越える直前で止まった。
前へ出しかけた片足を戻し、私の声がした方へ上半身を回す。
蝶は境の向こうを進み、森の木々の間へ近づいていく。
リーネは一度そちらへ腕を伸ばしたが、追って起伏を越えることはしなかった。
腕を下ろすと、今度は身体の向きを変え、来た道をこちらへ戻ってくる。
急いではいない。
一歩ずつ道を戻り、私の前まで来て足を止めた。
「なんだ」
リーネは答えず、私の手へ両手を伸ばした。
片方の手で私の人差し指を握り、境の方へ身体を向けた。
そのまま、私の指を引いた。
私は動かずにいた。
リーネは足を踏ん張り、身体の重さまで使ってもう一度引いた。
それでも私が歩き出さないため、振り返って私の顔を見上げる。
指を握る力は緩めない。
「りゅー、いく」
一人で外へ出たいのではない。
私も一緒に来いと言っている。
「分かった。私から離れすぎるな」
私が一歩を出すと、リーネもすぐ前へ向き直った。
人差し指を握ったまま境の起伏へ向かい、自分の足で越える。
私は腕を下げてすぐ横を歩き、身体が傾けば支えられるようにした。
境の外へ出た時には、蝶はもう木々の間に隠れていた。
それでもリーネは止まらず、イレナが立っていた道を進む。
草が道へ伸びている場所では靴で踏み、土が見える場所では、まずそこへ片足を置いてから次の一歩を出した。
私なら一歩で届くところを、リーネは何歩かかけて進む。
そのたびに握られた指が前へ引かれ、私は足を止めずに歩幅を変える。
後ろでは、ルヴェンが白銀の尾を揺らしながら境の内側に残っていた。
マルタは飲み物の器を持ち、セラとニナもそのそばにいる。イレナだけが私たちより先へ出て、道の周囲を見られる位置へ移った。
私の指を引いて境の外を進むリーネを見て、母上が訪ねてきた日のことを思い出した。
あの日、母上はハイエルネリアへ帰ってこいと言った。
次の大祭が近く、リーネも一緒に、と。
まだ、帰ると決めたわけではない。
だが、自分で行きたい場所を示すようになったリーネを見ていると、旅のことを本当に考える時期は来ているのかもしれない。
リーネは立ち止まらず、握った指を時折引きながら道を進む。
以前は、行き先を決めてリーネを抱いていくのは私だった。
今は、リーネが自分で進む方を決め、私の指を引いている。
小さな靴が、また一歩先の草を踏んだ。
リーネは私の指を握ったまま前へ進み、私はその歩幅に合わせて隣を歩いた。
新章突入に伴い、次回から1日1話掲載となります。
予めご了承ください。




