第54話 母上が来るだけなのだが(後編)
母上を迎える条件についての話が一段落しても、リーネは私の指につかまったまま、立ち上がろうとしていた。
私の手を引いた拍子に小さな身体が傾いたが、背後に回っていたルヴェンの白銀の尾が受け止める。
「では、お迎えする場所も整えなければなりませんね」
少し離れたところで衣類を畳んでいたマルタが立ち上がった。
セラも卓上を見て、使うカップと皿を数え始める。
「王妃陛下には、どのお茶をお出しすればよいのでしょう。お菓子も必要ですよね?」
「お茶だけでは足りないんじゃない? 遠くからいらっしゃるんでしょう」
ニナの言葉を聞き、セラは食料を置いている部屋へ行こうとした。
「何もしなくていい」
私が止めると、三人ともこちらを見た。
「そういうわけにはまいりません」
マルタは畳み終えた衣類を籠へ収める。
「母上は食事をしに来るのではない」
「殿下、それでも、お客様を何もお出しせずお迎えするわけにはまいりません」
「母上と同じ場所で食事をするのは初めてではない。私がハイエルネリアにいた頃は、同じ食卓についていた」
「でしたら、なおのこと、お好みをご存じなのではございませんか?」
「……知らない」
セラが困った顔でマルタを見た。
ニナは卓上のカップを棚へ戻し、奥に置かれていた別のカップを取り出した。
「普段使っているものでいいだろう。母上は、この家とリーネを見に来るのだからな」
「では、普段どおりの場所を整え、お茶だけはすぐお出しできるようにいたします」
マルタの立場としては譲れないラインがあったので、あえて私が強く止めることはしなかった。
もちろん私の母であるので、多少の歓待自体は否定しない。
共用空間を母上のために掃除し、飲み物を用意する程度まで止めるつもりはなかった。
ただし、ほぼリーネ専用となっている敷物や布の鳥も片づけさせなかった。
母上が見たいと言っているのは、飾り立てた部屋に座らされたリーネではないはずだ。
受け入れ条件をグレイフェルへ伝えたあと、今度は母上から私宛ての私信が届いた。
私信には、訪問の準備を進めていることと、リーネへ何か贈りたいので、喜ぶ物や必要な物があるか教えてほしいと書かれていた。
「特にない」
読み終えた私が言うと、近くにいたマルタが畳んだ服を持ってきた。
以前、リーネの身体が大きくなったと教えられた時の服だった。
「お洋服はいずれまた必要になりますが」
「必要になれば、こちらで用意する」
「それはそうでございますが、王妃陛下は何かお贈りになりたいのでございましょう」
リーネ本人は、欲しいものを言葉にできない。
今も布の鳥を掴み、翼の先を口へ入れようとしている。
気に入っているのは分かるが、同じ鳥を増やす必要もないだろう。
私は私信を畳み、イレナへ渡した。
「今必要な物はない。母上が何か選びたいなら、好きにすればいいと返してくれ」
「そのままお伝えしてよろしいのですか?」
「ほかに答えようがない」
「……承知しました」
イレナは私信を受け取り、マルタはまだ何か言いたそうに服を抱えていた。
だが、私が知らない物を必要だと答えることはできない。
母上が選びたいのなら、自分で選べばよい。
それから、イレナがいくつかの報告を運んできた。
ハイエルネリア側とローディネル側で、入国と警護の調整がまとまった。
王国側の兵は大樹の家から離れ、森へ入る者も必要な範囲に限られる。
家へ入る者には、事前にこちらの許可を取らせるという。
「王妃陛下のご一行も、必要な方だけに絞られたとのことです。そしてご訪問の日も決まりました」
「ようやく決まったのか」
「両国で決めることが多かったようです」
イレナが差し出した知らせには、母上が大樹の家へ来る予定だけが、私にも分かる形で記されていた。
私は知らせを卓上へ置いた。
「……母上が来るのか」
ルヴェンは目を閉じたまま、尻尾だけを左右にゆっくりと動かしていた。
◇
訪問当日の朝も、リーネの食事の時間はいつも通りで変えなかった。
食べ終えたあとは共用空間の敷物へ下ろす。
リーネは布の鳥を両手で持ち、翼を引っ張っていた。
マルタたちは、卓上と椅子を整え、お茶の用意をしている。
部屋は普段より片づいているが、リーネの敷物も、ルヴェンが休む場所もそのままだ。
イレナは外で、到着の知らせを待っていた。
やがて、開いていた窓から風のフィルネが飛び込んでくる。
淡い緑の身体が共用空間を一周し、私の前で止まった。
『主。来たよ』
「母上か?」
『ハイエルフが一人。エルフも一緒にいる』
『王妃陛下でございましょう』
ルヴェンが身体を起こす。
その直後、イレナも共用空間へ戻ってきた。
「王妃陛下一行がお着きになりました」
その知らせに、迎え支度をしていた三人の手が止まった。
セラは卓上へ置いたカップの向きを直し、ニナは姉が触れたカップを元へ戻した。
「ニナ、どうして戻すの?」
「姉さんが直す前ので合ってたから」
「でも、こっちのほうがきれいじゃない?」
「姉さん、さっきから同じカップを行ったり来たりさせてるだけだよ」
「お二人とも、もう触らなくて結構です」
マルタに止められ、セラはカップへ伸ばしかけていた手を背中へ隠した。
三人のやり取りが収まったところで、私は口を開いた。
「ようやく来たか」
私は敷物へ手を伸ばし、リーネを抱き上げた。
布の鳥も持ったままで、私の腕へ収まる。
家へ入る者は、事前に決めたとおりに絞られていた。
イレナが外で確認し、四体の家付き精霊も入室を拒んでいない。
母上とエルディン、それに必要最低限の随行者だけが、長い螺旋階段を上ってくる。
ほどなくして、共用空間の扉が開いた。
最初に入ってきたのは、母上だった。
私と同じ長い耳を持ち、王妃の衣装をまとっている。後ろのエルフたちは、誰も母上より先へ出ようとしない。
それでも、私には見慣れた母親の姿でしかなかった。
最後に会ったのがいつだったか、すぐには思い出せない。
それでも母上は、昔とほとんど変わっていなかった。
母上は私を見た。
次に、私の腕の中で布の鳥を握っているリーネを見る。
リーネも顔を上げ、長い耳を持つ来客を見ていた。
母上は戸口を越えたところで足を止めた。
エルディンたちは扉の近くに留まった。
母上はリーネを見たまま、口を開いた。
「その子が、リーネ?」
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