第50話 王妃陛下は、リーネに会いに行く
大樹の家を辞したエルディンがハイエルネリア王宮へ帰り着くと、旅装を解く暇もなく、国王夫妻の私室へ来るよう命じられた。
扉の前で衣服の乱れを整え、入室の許しを待つ。
中へ入ると、国王は窓際の長椅子に腰を下ろし、その向かいでは王妃が席を立っていた。
エルディンが帰国の挨拶を述べようとした、その時だった。
「それで、リーネは?」
王妃の問いに、用意していた報告の順序がすべて飛ばされた。
「……ご報告申し上げます。リーネ様は、お健やかにお過ごしでございました」
「そう」
王妃はそれだけ答えると、ようやく元の席へ戻った。
国王が空いている椅子を手で示したため、エルディンも一礼して腰を下ろす。
「登録書の内容に、誤りはなかったのだな」
「はい。リュセル殿下は、リーネ様をご自身の家で養育なさっておられます」
エルディンは、大樹の家で見たものを順に報告した。
家には、イレナをはじめとする人間の女性が四人暮らしていること。
リーネには専用の部屋が用意され、日々の世話を皆で分担していること。
そして、訪問した時にはリュセル自身が匙を持ち、リーネへ離乳食を食べさせていたこと。
「あなたが訪ねた時にも、その子に食べさせていたの?」
「はい。食事の途中でございましたので、私は終わるまで待つよう命じられました」
国王は小さく息を吐き、王妃は二度、はっきりと頷いた。
「ほかには?」
「リーネ様は、腹這いで室内を移動なさいます。殿下を見つけると、まっすぐそちらへ向かわれました」
王妃の身体が、わずかに前へ傾いた。
「それから?」
「殿下の衣服を支えに、ご自分の脚で立たれました。殿下はすぐには抱き上げず、倒れそうになった時に支えられる位置で見守っておられました」
「だから言ったでしょう。あの子は父親になったのよ」
王妃は国王へ顔を向けた。
国王はすぐには同意せず、エルディンへ問いを重ねた。
「リュセル自身が、そう名乗ったのか」
「いいえ。父親という言葉は、一度も口になさいませんでした」
「では、あれは何と言っていた」
「人間が嫌いなのは、今も変わらないと」
国王の眉間に浅い皺が寄った。
「その時も、リーネ様は殿下の衣服を握っておられましたが」
王妃が口元へ手を添えた。
笑い声を抑えていることは、エルディンにも分かった。
「リュセルらしいわ」
「笑い事ではないと思うが」
「では、あなたは違うと思うのですか?」
国王は答えず、卓上の杯を手に取った。
その仕草を見た王妃は、追及する代わりにエルディンへ向き直る。
「それで、リーネはどのような子でした?」
「どのような、と申されますと」
「会ったのでしょう。声は? 表情は? あなたを怖がりませんでしたか?」
今度は報告書にも書きようのない問いだった。
エルディンは大樹の家で向けられた、青い瞳を思い出した。
「よく周囲をご覧になる方かと存じます。私が近づくと、まず耳をご覧になりました」
「耳を?」
「私が近づくと、しばらく顔をご覧になったあと、耳の辺りへ視線を向けられました。お名前をお呼びすると、『あぅ』と声を上げられました」
「まあ」
「その後、私からリュセル殿下へ視線を移すと、そのまま殿下のもとへ向かわれました」
「それで?」
王妃は、まだ答えが足りないという顔をしていた。
「可愛らしかった?」
国王が杯を置いた。
静かな室内で、その音だけが妙に大きく響いた。
「……はい。大変、可愛らしいお子でございました」
「では、行きましょう」
王妃は晴れやかに言った。
エルディンは返事をしかけ、止まった。
国王も杯へ伸ばしかけていた手を止める。
「待て。どこへ行くつもりだ」
「決まっているでしょう。リーネに会いに行くのです」
「リュセルへ伝えさせたことは聞いている。だが、今すぐ決める話ではない」
「今決めなければ、準備も始められません」
エルディンへ私信を託した時、王妃はすでに、自分もリーネへ会いに行くと告げていた。
国王は額へ指を当てた。
「お前はハイエルネリアの王妃だ。しかも、ローディネルは戦の最中にある」
「承知しています。ですから、セルディオンへは参りません。目的地はヴァルネ近郊にあるリュセルの家だけです」
「そういう問題ではない」
「歓迎の式典も、会談も必要ありません。大勢の随行も連れていきません。家族に会うための、私的な訪問です」
王妃が一つ条件を挙げるたび、国王の眉間の皺が深くなっていく。
やがて王家の国外移動を預かる侍従長と、護衛を統括する近衛の責任者が私室へ呼ばれた。
王妃の希望を聞いた侍従長は、しばらく言葉を失っていた。
「恐れながら、王妃陛下。先触れもなく他国の国境を越えることはできません。経路の選定、国境での確認、宿営地、護衛の交代、ローディネル側との安全調整も必要でございます」
「そこまで大がかりな行程にするつもりはありません」
「規模の問題だけではございません」
「私は今回は、母親として行くのです」
侍従長は一度目を伏せたあと、まっすぐ王妃を見た。
「ローディネル王国から見れば、ハイエルネリア王妃陛下でいらっしゃいます」
室内を沈黙が満たす。
エルディンは侍従長へ同情した。
王妃の言葉を退けず、なおかつ王妃を王妃として扱うためには、必要な指摘だった。
「よい」
国王の一言で、集まっていた者たちの視線がそちらへ向いた。
「公式の外交使節とはしない。大規模な儀仗も組まぬ。王妃付きの侍女と王家護衛は、必要な人数だけに絞れ」
「あなた」
「ただし、安全を軽んじることは許さぬ。ローディネル王国へ正式な先触れを出し、経路と滞在中の安全を調整する。返答を得るまでは、王宮を出るな」
王妃は少し考えたあと、頷いた。
「分かりました。それで構いません」
「エルディン」
「はっ」
「お前も同行しろ。リュセルの家まで行った者がいた方が、余計な案内を増やさずに済む」
「承知いたしました」
先ほど戻ったばかりで、再び同じ道を進むことが決まった。
だが、今度は王妃を伴う。
私的訪問という言葉だけで、前回と同じ旅になるはずがなかった。
王妃は、ふと思い出したように国王を見た。
「あなたもいらっしゃいますか?」
「行かぬ。二人で動けば、私的訪問では押し通せまい」
「そうですか」
「……戻ったら、話は聞かせろ」
その言葉に、王妃は柔和な笑みを浮かべた。
◇
決定が下ると、王宮の空気が一斉に動き始めた。
侍従長は必要な随行の選定へ向かい、近衛の責任者は地図を広げて経路の確認を始める。
エルディンはその場に残り、ローディネル王国へ送る文面に誤りがないか、現地を見た者として確認を求められた。
文面には、ハイエルネリア王妃がヴァルネ近郊に住むリュセル王子を私的に訪ねたいことが記された。
また、公式の国家訪問ではなく、大規模な歓迎、儀礼、会談のいずれも求めない旨が明記された。
随行は必要最小限とし、入国経路と滞在中の安全についてのみ事前の調整を願う、と文面は続く。
「訪問の理由は、これでよろしいでしょうか」
侍従長が文面の一節を示すと、王妃は首を傾げた。
「孫に会うのに、理由が必要ですか?」
「まだ孫と決まったわけではない」
国王が即座に訂正する。
「ですから、私がこの目で確かめてまいります」
「何をどう確かめるつもりなのだ」
国王の問いへ答える前に、王妃は出来上がった文書へ目を落とした。
そして程なくすると、王家の印が押され、封が閉じられる。
返書が届くまで、出発はできない。
それでも、先ほどまで言葉だけだった訪問は、すでに王宮中の仕事になっていた。
日が傾き始めた頃、文書を託された使者が騎馬で王宮の門を出ていく。
エルディンは王妃とともに窓辺から、その姿が木立の向こうへ消えるまで見送った。
「エルディン」
「はい」
「リーネは、私を嫌がらないでしょうか」
ローディネルからの返答より先に王妃が気にしたのは、そのことだった。
「私が近づいた際には、泣かれることはございませんでした」
「そう。それなら少し安心しました」
「それなら、贈り物は何がよいでしょう」
「リーネ様のお好みでしたら、世話役として傍についておられるマルタ殿へ尋ねるのが確実かと」
「ローディネルからの返書を待つ間に、リュセルへ私信を出して、何がよいか尋ねます」
「……殿下から答えを聞き出すのは、難しいかと存じます」
「答えなければ、私が選びます」
窓の外では先触れの騎馬が遠ざかり、王宮の別室では、王妃の国外訪問に必要な書類が次々と運ばれていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




