第4話 徒歩の旅と最初の授乳(後編)
「人間の赤子に飲ませる乳が必要だ」
「えっ、あ、え……?」
男の視線が、私の顔から腕の中の赤子へ移る。
そして再び、私へ戻る。
「その、赤ちゃんは……」
「拾った」
「赤ん坊をですか!?」
男の声に驚いた赤子が、さらに激しく泣き出した。
泣き声の原因を作った男へ顔を向ける。
「大声を出すな。泣いたではないか」
「す、すみません!」
「謝罪はいい。乳だ。山羊のものでも構わないのか?」
「お、俺に聞かれても……!」
「この村の者だろう」
「赤ん坊を育てたことはないです!」
使えない村人だ。
私がそう思っていると、見張りの男が村の中へ向かって叫んだ。
「ばあちゃん! サナばあちゃん! ちょっと来てくれ!」
「大声を出すなと言っただろう」
「すみません!」
やがて、杖をついた老婆が村の奥から現れた。
白髪を後ろでまとめた、小柄な人間の女だ。
年齢は70前後。
人間としては老いているが、足取りはしっかりしている。
「騒々しいね。狼でも出たのかい」
「それより大変だよ。エルフが赤ちゃんを拾ってきた!」
「何を馬鹿なことを――」
老婆は私を見上げた。
次にルヴェンを見る。
そして、私の腕の中で泣いている赤子へ視線を落とした。
「……本当じゃないか」
「乳を用意してほしい」
私が言うと、老婆は返事をせず、私の腕の中をじっと見た。
なぜ黙っている。
「聞こえなかったか」
「聞こえてるよ」
「ならば早く――」
「その前に、その抱き方は何だい!」
突然怒鳴られた。
怒鳴られる理由が分からず、老婆を見返した。
これまで人間は私を恐れ、敬い、時には崇拝した。
怒鳴られたのは、いつ以来だろう。
「……何が悪い?」
「首がぐらぐらしてるじゃないか! ちゃんと支えな!」
「支えている」
「支えられてないよ!」
老婆が杖を見張りの男へ押しつけ、私へ近づいてくる。
ルヴェンが前へ出ようとしたため、手で制した。
老婆から敵意は感じない。
ただし、怒気はある。
「ほら、こっちの腕を背中へ回して。手のひらで首を支えるんだよ」
「こうか」
「力を入れすぎ! 潰す気かい!」
「潰さない程度には加減している」
「あんたの加減なんて知るもんか! 赤ん坊に合わせな!」
「人間の赤子の強度など知らん」
「だったら覚えな!」
なぜ私が叱られている。
私はハイエルフだ。
精霊王の血を引く者だ。
竜王すら私の名を知っている。
人間の国王が面会を求めても、気が向かなければ断る。
それなのに今、名も知らぬ村の老婆から、赤子の抱き方を叱られている。
『リュセル様』
「何だ」
『首が安定したことで、泣き声が小さくなりました』
腕の中を見る。
たしかに、赤子の泣き声が少し弱まっている。
先ほどまで苦しそうに歪んでいた顔も、わずかに落ち着いた。
老婆は赤子の額と首筋へ手を当て、呼吸を確かめた。
「人間よ、この赤子は少し熱い気がした。問題はないのか?」
「赤ん坊は大人より温かく感じるもんだ。呼吸も落ち着いてるし、今のところ熱を出してる様子はないよ」
「……抱き方が悪かったのか」
「当たり前だよ」
「最初から教えればいいものを」
「教えてる最中だよ!」
老婆は私を村の中へ連れていった。
村人たちが家々から顔を出す。
私を見ると、村人たちの話し声が消えた。
さらにルヴェンを見て固まり、最後に赤子を抱く私を見て、わけが分からないという顔をする。
「…見世物ではない」
私が言うと、一斉に顔が引っ込んだ。
『主よ』
「何だ」
『赤子を抱いたまま威圧するのはお控えください』
「威圧などしていない」
『村全体の精霊が震えております』
「……次から気をつける」
連れていかれたのは、村の中央にある古い家だった。
中には薬草と乾燥した花が吊るされている。
どうやら老婆は薬師らしい。
「そこへ座りな」
「私に命令するのか」
「立ったままじゃ乳を飲ませにくいだろう」
私は椅子へ座った。
老婆が手早く鍋へ水を入れ、火にかける。
棚から器を取り出し、布で拭く。
「山羊の乳を薄めて、乳児用の調乳薬を混ぜる。母親の乳には及ばないが、この村で今夜用意できる代用品はこれだけだよ」
「そのまま飲ませてはいけないのか」
「赤ん坊の腹には重いんだよ。少しずつ慣らす」
「少量なら、栄養が足りないのでは」
「だから回数を分けるんだ」
「非効率だな」
「赤ん坊相手に効率を求めるんじゃないよ」
老婆は山羊の乳を温め、棚から取り出した薬草の粉を混ぜる。
「乳だけでは足りない栄養を補う薬だ。長く飲ませるものじゃないが、今夜をしのぐには使える」
それから小さな木匙を取り出した。
「口を開けさせて、少しずつ飲ませる」
「私がやるのか」
「拾ってきたのはあんただろう」
「村へ届ければ、人間に任せるつもりだった」
「だったら今は、あんたがやりな」
「なぜだ」
「その子があんたの髪を離さないからだよ」
言われて気づく。
赤子の片手は、まだ私の銀色の髪を握っている。
途中で何度か緩んだはずなのに、完全には離さなかったらしい。
「単に、つかみやすい場所にあっただけだ」
「そういうことにしておこうかね」
ルヴェンと同じような言い方をする老婆だ。
気に入らない。
老婆から木匙を受け取る。
乳をすくい、赤子の口元へ運ぶ。
口に入る前に、半分ほどこぼれた。
「下手だねえ!」
「……初めてなのだから当然だ」
「開き直るんじゃないよ。もっと匙を横にして」
「こうか」
「一度に入れすぎるな。むせるよ」
「少なすぎれば飲めないだろう」
「赤ん坊の口を見な。飲み込んでから次だ」
赤子の唇へ木匙を近づける。
今度は、ほんの少しだけ。
赤子は口を動かし、乳を飲み込んだ。
泣き声が止まる。
「……飲んだな」
「腹が減ってたんだろうさ」
「もっと早く知らせればいいものを」
「泣いて知らせてただろう」
「内容が不明確だ」
「赤ん坊に言葉を求めるんじゃないよ」
ひと匙。
もうひと匙。
赤子は必死に乳を飲んだ。
先ほどまでの泣き声が嘘のように静かになる。
小さな喉が動くたび、乳が身体の中へ消えていく。
「…これだけで泣き止むのか」
「腹がいっぱいになればね。別の理由なら、また泣くよ」
「まだ泣く理由があるのか」
「眠い、寒い、暑い、不安、寂しい、おむつが汚れた、腹が痛い」
「多すぎる」
「エルフに生を説くのはアレだが、生きるってのは、そういうもんだよ」
その言葉を聞き、木匙を持ったまま赤子の顔を見た。
生きるということ。
これまで数え切れないほどの生と死を記録してきた。
国が生まれ、王が死んだ。
街が焼け、病と飢饉が人を奪った。
だが、人が生きるということを、私はどこまで知っていただろうか。
自分が抱いている赤子に目を向けた。
腹が減り、眠くなり、不安で泣く。
誰かの腕の中で、ようやく安心する。
記録帳には残らない、小さな出来事だった。
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