第39話 私たちの家へ(前編)
「では、リーネの物をここへ運ぼう」
私が告げると、ギルベルトはすぐに頷いた。
「では、北緑館へ人を向かわせます。荷馬車も用意いたしましょう」
「荷を運ぶだけなら必要ない」
窓の外では、風のフィルネが下級の風の精霊たちと枝の間を飛び回っている。
大きな物なら地のドルムたちに任せればよい。
私がそう説明すると、マルタが一歩前へ出た。
「殿下。運ぶ手段は精霊方にお願いできるとしても、何をこちらへ持ってくるかは一度確認した方がよろしいかと存じます」
「リーネの物はすべて運べばよいだろう」
「今すぐ必要なものと、予備として保管するものがございます。それに、家具も新しいお部屋に合うか確認しなければなりません」
なるほど。
私には、北緑館にある物のうち、どれがリーネに必要で、どれがなくても困らないのか分からない。
「そうか。ならば戻るとしよう」
「私も参ります」
マルタに続き、セラとニナも頭を下げた。
イレナは当然のようにこちらへ歩いてくる。
ギルベルトだけは、この後ヴァルネで土地利用の書面や人員の手続きを進める必要があるらしい。
「必要な物がございましたら、こちらでも手配いたします」
「分かった」
私は木の寝床にいたリーネを抱き上げた。
リーネの手からルヴェンの尾先が離れると、小さな指が追いかけるように伸びる。
ルヴェンが尾をリーネの腕へ緩く巻きつけた。
『私も参ります、主』
「うむ。では行くぞ」
◇
北緑館の部屋へ入ると、マルタはすぐに荷物を仕分け始めた。
「こちらは毎日使いますので、最初に運びます。こちらは替えの寝具ですから、その次で結構です」
部屋の中へ置かれていた籠や箱が、次々と分けられていく。
リーネの衣類や替えの布、毛布は、今すぐ使う物と予備に分けられた。
北緑館で使っていた乳児用の敷き寝具も、最初に運ぶ荷へ加えられた。
乳を飲ませるための器具や身体を拭く布、入浴用品、小さな玩具も、籠や箱へ収められていく。
どれも教会が用意した、人間の乳児用の品々だ。
いつの間に、これほど増えたのだろう。
ロアナを出た時、リーネが持っていた物などほとんどなかった。
今も大切そうに抱えている布の鳥くらいだ。
それが今では、リーネのためだけにこれだけの物がある。
「随分と増えたな」
私が呟くと、マルタが答えた。
「乳児は成長が早うございます。身体が大きくなれば衣類も替わりますし、その時々で必要になるものもございます」
「これからも増えるのか」
「おそらくは」
そうなると、家にも物を置く場所が必要になる。
その辺は後で増やせばよいか。
その隣では、セラが大きな箱へ布を詰めていた。
まだ入ると思ったのか、その上へさらに衣類を押し込む。
やがて蓋を閉じようとして、上から体重をかけ始めた。
「お姉ちゃん」
ニナが別の籠を抱えたまま言った。
「それ、入れすぎ」
「でも、まだ閉まりそうなの」
「閉まっても、中がぐちゃぐちゃになるよ」
「風のフィルネ様たちが運んでくださるから、重さは大丈夫でしょう?」
「重さの話じゃないよ」
セラが蓋から手を放すと、ニナは箱の中から布を何枚か取り出し、別の籠へ移した。
それだけで蓋は簡単に閉じた。
「ほら」
「……ありがとう」
どちらが姉なのか分からない。
風のフィルネが二人の周囲を飛びながら、楽しそうに長い耳を動かしていた。
マルタは口を挟まず、次の荷をまとめていく。
人間の生活に慣れた者がいるというのは、確かに便利らしい。
◇
荷物をまとめ終える頃には、部屋の中がずいぶん広くなっていた。
リーネを抱いたまま窓の近くへ立つ。
外にはヴァルネの街並みが見える。
ここへ来てから、何度もあの鐘を聞いた。
洗礼の後、リーネが眠れなくなった時も、敵軍が近づいて警鐘に怯えて泣いた時も、ここにいた。
その泣き声を聞いたことが、静かな場所を探すきっかけになった。
今は鐘の音はない。
窓の外から聞こえるのは、人間の街が動く音だけだ。
私にとって、この場所は最後まで人間の街の中にある仮住まいだった。
だが、リーネにとっては違うのかもしれない。
ここで乳を飲み、眠った。
笑うこともあれば、泣くこともあった。
リーネが過ごした場所であることに変わりはない。
部屋を出ると、北緑館を管理していた神官たちが玄関近くに集まっていた。
荷物が運び出されるのを見て、事情を理解したのだろう。
私は足を止めた。
「ここを出る」
「承知しております」
神官の一人が深く頭を下げる。
「新しいお住まいが決まられたと伺いました」
「ああ」
私はしばらく考えてから続けた。
「世話になった」
神官たちが顔を上げた。
何かおかしなことを言っただろうか。
ここを使わせてもらった。
リーネに必要な物も用意された。
ならば礼を言うのは間違っていないはずだ。
やがて先頭の神官が、再び頭を下げた。
「もったいなきお言葉でございます。リーネ様がお健やかにお育ちになりますことを、心より願っております」
腕の中のリーネは、神官の言葉を理解している様子もなく、私の胸元をつかんでいた。
「私もそうするつもりだ」
それだけ答えて、北緑館を出た。
◇
建物の外では、風のフィルネと下級の風の精霊たちが待っていた。
風のフィルネが高く跳ねると、まとめられた箱や籠が一つずつ浮かび上がる。
大きな家具には地のドルムと土の精霊たちが集まり、その下から支えた。
水のネレアと火のカーナもすでに新居へ戻る準備をしている。
『全部運ぶ?』
風のフィルネが尋ねた。
「ああ。ただし中身を崩すな」
『分かった』
そのやり取りを見ていたニナが、セラの隣へ並んだ。
「ちゃんと分けたから大丈夫だよ」
「分かってるわよ」
私はリーネだけは精霊へ預けず、自分で抱く。
ルヴェンも私たちの横へ浮かび上がった。
荷は任せればよい。
だが、リーネは私が連れて帰る。
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