第38話 この家に仕える条件③
四体の精霊は、しばらくイレナの周囲から離れなかった。
風のフィルネが彼女の肩から背中へ回り、水のネレアは足元を巡ったまま、透明な身体をゆっくりと揺らしている。
地のドルムはイレナの靴の前まで進むと、丸い頭を上げた。
火のカーナだけは少し離れたところに浮かび、赤い核を明るくしたままその場に留まっている。
イレナは何もせず、その場に立っていた。
やがて風のフィルネが彼女の肩へ飛び乗った。
『私は問題ない』
水のネレアも足元から離れ、水場へ戻っていく。
『隠していることはありますが、この家へ持ち込もうとしているものではありません』
「隠していることがあるのか」
私が尋ねると、イレナの眉がわずかに動いた。
「任務上、お話しできないことはいくつかございます」
「……ならばいい」
ギルベルトの部下なのだから、私へ話せないことくらいあるのだろう。
地のドルムはイレナの靴を前脚で一度叩くと、その場へ腰を下ろした。
『森を壊す気もない』
まだ判断を示していない火のカーナはしばらく動かなかったが、やがて尾の火を一度大きく揺らした。
『私もいい』
そのままリーネの寝床近くへ飛んでいき、壁へ張りつく。
ルヴェンが頷いた。
『四体とも、異論はないようでございます』
「ならば、イレナはここにいてよい」
「……これで、終わりなのですか」
イレナが珍しく戸惑った声を出した。
「何か足りないのか」
「もう少し、何らかの試練を受けるものかと」
精霊たちが認めたのだから、それ以上何をする必要があるのだろう。
「拒まれていない。それで十分だ」
「……承知いたしました」
「では、残る侍女についてはこちらで候補を選定いたします」
「それは構わない。だが、決めるのはこの者たちだ」
ギルベルトも頷いた。
「心得ました」
その日の話は、そこで終わった。
◇
翌日の昼前。
ギルベルトは五人の女を連れて大樹の家へやってきた。
正確には、侍女として選ばれた候補は四人で、そのうち最も若い女の後ろに、もう一人、小柄な少女がついている。
風のフィルネと配下の風の精霊たちに運ばれ、一行が高層部の踊り場へ降り立った。
昨日、自分が運ばれた時は慌てていたギルベルトも、今日は何事もないような顔をしている。
「辺境伯家と城館で働く者の中から、身元、勤務態度、家事能力を確認して選びました」
最初に紹介されたのは、四十を少し越えたほどの女だった。
名をマルタという。
長く辺境伯家に仕え、料理から洗濯、乳児の世話まで経験しているらしい。
その隣にいたのは十八歳のセラ。
さらに、その背後からこちらを覗いている少女がいた。
「そちらの小さい人間は何だ」
私が尋ねると、少女が一歩前へ出た。
「ニナです。十二歳です」
返事だけは妙にはっきりしている。
ギルベルトが続けた。
「セラの妹です。城館で侍女見習いとして、洗濯物の仕分けや簡単な雑務をしております」
残る二人も、辺境伯家と城館で働く侍女だという。
「候補は四人ではなかったのか」
「本来はセラだけを候補として考えておりました。しかし、住み込みとなれば事情が変わります」
セラが申し訳なさそうに頭を下げた。
「両親がおりませんので、私が妹と暮らしております。こちらへ住み込む場合、妹だけを残すことができません」
「ならば、一緒に住めばよい」
ギルベルトが一瞬黙った。
「ですが、まだ十二歳です」
「十二歳の人間が、この家にいてはならない人間側の決まりがあるのか?」
「……ございません」
ならば問題はない。
ニナもここで暮らすのであれば、同じように精霊たちに見てもらえばよい。
「始めろ」
私が告げると、四体が候補者たちの前へ出た。
候補者がすることは、順番に前へ出て立つだけだ。
最初に進み出たのは、そのうち辺境伯家で長く勤めている侍女だった。
礼も立ち居振る舞いも整っている。
「こちらの精霊方には、どのように命令を出せばよろしいのでしょうか」
その瞬間、風のフィルネが一歩下がった。
地のドルムも床へ身体を沈め、その女から離れる。
女は二体の反応に気づき、戸惑った。
ルヴェンが静かに告げる。
『この者たちは、この家の使用人ではございません。自ら役目を引き受け、この家とリーネ様へ力を貸している精霊でございます』
「……失礼いたしました」
女はすぐに頭を下げた。
悪意があるわけではない。
ただ、人間の屋敷で長く働いてきたため、家の仕事をする者には主人が指示を出すものだと考えているらしい。
四体は戻らなかった。
「合わないようだな」
私が言うと、その女は悔しそうな顔を見せたものの、再び丁寧に頭を下げた。
二人目の候補にも、仕事そのものの問題はない。
女が前へ出ると、四体はその周囲を一度だけ回った。
地のドルムが彼女に背を向け、水のネレアも離れていく。
風のフィルネと火のカーナは、すでに次の候補の前へ移っていた。
女は何も言わず、丁寧に頭を下げた。
四体は戻らなかった。
この女も悪い人間ではない。
ただ、この家で暮らす考え方とは合わない。
ギルベルトも二人を責めることなく、護衛にヴァルネへ戻すよう指示した。
残ったのは、マルタとセラ、それから見習いのニナだった。
◇
次にマルタが前へ出た。
水のネレアはマルタの足元を巡り、小さな水球を浮かべた。
「リーネ様がお使いになる布を洗う時は、こちらのお水をいただいてもよろしいでしょうか」
『必要なら呼んでください。赤子に使うものなら、温度も合わせます』
「ありがとうございます。では、その時はお願いいたします」
命令はしなかった。
過剰に恐れることもない。
水のネレアはそのままマルタの横に留まり、地のドルムも彼女の足元へ座った。
風のフィルネと火のカーナも離れない。
「一人目だな」
「これほど早く、お任せいただけるとは思いませんでした」
「何か問題があるのか」
「いいえ。光栄にございます」
昨日のイレナと同じことを聞く人間だった。
人間は試験というものを、もっと長く行いたいらしい。
続いてセラが前へ出る。
風のフィルネが周囲を一周し、セラの肩へ飛び乗る。
「よろしくお願いします、風のフィルネ様」
『うん』
風のフィルネは肩から離れず、他の三体もセラの周囲に残った。
「二人目だ」
セラはもう一度頭を下げた。
最後にニナが前へ出た。
「この人たちは、いつ休むんですか」
部屋が静かになった。
「休む?」
「ずっと働いてもらうんですか。夜も見張って、水も運んで、荷物も運んで、暖かくしてくれるんですよね」
「疲れないんですか?」
風のフィルネが長い耳を動かした。
『風があるところなら、私は平気。でも、休みたい時は休む』
「じゃあ、その時は階段を使えばいいんですね」
『うん』
「水のネレアさんも?」
『泉へ戻る時はあります』
「分かりました」
「休みのことが気になったのか」
「働く人が休めない家は大変なので」
十二歳の人間が、妙なところを気にする。
だが、四体の反応は分かりやすかった。
風のフィルネはニナの肩へ乗り、水のネレアは足元へ細い水を伸ばす。
地のドルムは彼女の前まで歩くと、その場へ座った。
火のカーナもニナの頭上へ移動し、赤い光を小さく揺らしている。
ルヴェンの尾先が一度揺れた。
『どうやら、三人目も決まりのようでございます』
「その、私は見習いですけど…」
「それが何か問題になるのか」
「問題ではないです。でも、できない仕事もあります」
「ならば、できることをすればよい」
できないことを無理に任せる必要はない。
それより、この家で長く暮らすのであれば、精霊たちと問題なく過ごせる方が重要だ。
「マルタ、セラ、ニナ。この三名でよろしいでしょうか」
「この三人でよい」
私が告げると、ギルベルトが頷いた。
イレナも三人へ向き直る。
「では、北緑館に残している家具や衣類、リーネ様がお使いになっている品をこちらへ運ばせましょう」
家はでき、水も火もある。暮らしを支える精霊と人間も揃った。
「では、リーネの物をここへ運ぼう」
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




