第19話 王女と大司教、リーネの洗礼へ動く
ヴァルネ教会が、アルヴァリス王家の庇護下にある人間の乳児リーネへ洗礼を提案するため、王国より先に教皇庁へ火急の照会を送った。
王都セルディオンの王城で、国王エドヴァルド三世・ローディネルは、その知らせを記した一枚の文書を机へ置いた。
昼前の小会議室にいるのは、国王のほかに宰相マティアス・クロイツ公爵と宮廷魔術院長オルランド・セインズ侯爵だけだった。
「教会は、すでに動いたのか」
「はい。王国へ正式な相談を行うより先に、教皇庁へ判断を仰いでおります」
聖灯教会は王国の下部組織ではない。
宗教儀礼について聖都へ判断を求めること自体は、教会に認められた権利だった。
エドヴァルドが問題としたのは、その権利ではなく、洗礼の先に残るものだった。
「このまま洗礼を施した後、どのような実利を教会は得ることになるか?」
国王の問いに、宰相であるマティアスは事前に用意していた説明を始めた。
リーネはロアナで生まれた人間の子であり、すでにローディネル王国民として確認されており、そもそもだが洗礼は国籍を与える儀式ではない。
だが、洗礼を受ければ聖灯教会の信徒として記録され、成長後の宗教教育や祝祭、人生の節目ごとに、教会がリーネへ関わる根拠になる。
そして、リーネへ関わるたび、その庇護者であるリュセルとも連絡を取る理由が生まれる。
「教会が欲しているのは信徒としての所属と、その庇護者へ続く宗教上の縁です」
「ハイエルネリアに、聖灯教会の拠点はあったか?」
「ございません。正式な教会も、常駐する宣教師も、確認された信徒の集まりもないはずです」
オルランドは机上の文書を国王の方へ差し出した。
「我が国の民を通じて生じた縁でありながら、その窓口を教皇庁だけに握られることになります」
各国が閉ざされたハイエルネリア王国との接点を得られずにいる中で、教皇庁だけが王族との継続的な連絡手段を持つ。
将来、魔術や精霊、稀少な素材に関する話が生じても、王国が教会を頼らなければ情報へ届かない事態さえあり得た。
「我が国民を使い、教会だけが成果を得るつもりか」
「意図は明言しておりません。ですが、この降って湧いた状況に、利用しない理由もございません」
マティアスの口調に非難はなかった。
教会には教会の務めと利益がある。
好機を好機として扱うのは、王国が国益を考えることと変わらない。
「洗礼を止めるべきではございません。止めれば、教会に利益を独占させる以上の損失となります」
王権が宗教儀礼を妨げれば、信仰への介入と受け取られる。
それだけではない。
人間として生きるリーネから人間の慣習を遠ざければ、リュセルにも王国の意図を疑われるだろう。
「だが、教会だけの成果にさせるわけにはいかぬぞ?」
国王の問いに、一瞬だがマティアスはためらいを含ませた。
「……第二王女エレオノーラ殿下を、王家の名代として立ち会わせるべきかと存じます」
マティアスの言葉に、少しだけ驚いた表情をセインズ侯爵は見せる。
王太子や第一王女では、ハイエルネリアへの外交使節と受け取られかねない。
第二王女であれば王家を正式に代表できる一方、自国民の立場を確認するための立会人という範囲を守れる。
外交儀礼に通じたエレオノーラなら、教会の典礼を侵さずに王国の立場を示せるはずだった。
「王女殿下が立てば、洗礼によって生じたリーネ殿との縁を、教会だけが得たとは誰も受け取れません」
マティアスの進言に、国王は少しだけ思案する。
確かに、宰相の言うことも一理ある。
ただ、王族を出席させれば、洗礼が国家行事と受け取られる懸念もあった。
王族が一人の乳児の洗礼へ臨むなど、通常であればあり得ない。
事情を知らぬ諸外国からは、ローディネル王家がハイエルネリア王国へ過度にへりくだったと受け取られるおそれもあった。
だが、宰相が出した案は現実的には相当に効くことも、容易に想像できることでもあった。
であれば、だ。
多少のことは目を瞑りつつ、我が王権が下がることもないように、上手く立ち回れば相応の利益はつかみ取ることが出来るだろう。
「……洗礼は教会の領分だ。だが、我が国の民を使って、教皇庁だけに果実を持っていかせる理由はない」
エドヴァルドは二人へ決定を告げた。
「エレオノーラを出せ。リーネが我が国の民であると、王家の名で示させる」
ここまで黙って聞いていた、セインズ侯爵はその決定に対して懸念の声を上げる。
「……教会は、王国が儀式を国家行事へ変えるつもりかと反発するかと」
「反発させておけ。こちらも、教会だけの行事にするつもりはない」
「……御意に」
王女には、リーネの引き取りも、リュセルとの国家交渉も命じない。
アルヴァリス王家の庇護を認めた上で、ローディネル王国も自国民の保護を放棄していないと示させる。
「リーネを奪う必要はない。だが、リーネとの縁まで教会へ譲るつもりもない」
◇
数日後、聖都エルノアにある教皇の執務室には、二通の文書が並んでいた。
一通はヴァルネ教会から届いた洗礼の照会。
もう一通は、洗礼がリュセルに承諾された場合、第二王女エレオノーラを立ち会わせるという王国の通知だった。
教皇アウレリウス六世は王国の通知を読み終え、向かいに立つセヴェリン・サレス大司教へ渡した。
「王国は第二王女を出すそうだ」
「洗礼を、王国民の確認を行う国家儀礼へ寄せるおつもりでしょう」
「そして、我らだけがハイエルネリアとの縁を得ることを許さぬつもりだ」
セヴェリンも同じ判断だった。
王国は教会の典礼を止めない。
その代わり、王家の人間を立たせ、洗礼を国家の出来事としても記録へ残そうとしている。
「ハイエルネリアに、我らの教会はいくつある」
「一つもございません」
「信徒共同体は」
「正式に確認されたものはございません。宣教師も常駐できておりません」
長く閉ざされたハイエルネリアには、祈りを伝える者も、その祈りを受け継ぐ場所もない。
今、王族の庇護下にいる人間の子が信徒となれば、教会は初めてその内側へ続く正規の縁を持つことになる。
「ならば、これは聖灯教会がハイエルネリア王族圏へ得る最初の縁となり得る」
「はい。洗礼は一日の儀式ではございません。その子が生きる限り、教会との縁を残します」
信徒となったリーネには、教義を学ぶ機会があり、聖灯祭をはじめとした祈りの場が開かれる。
成長の節目、やがては婚姻や葬送を迎える時にも、教会は支えを申し出ることができる。
その連絡は必ず、庇護者であるリュセルへも届く。
「一人の赤子が、一国を改宗させるわけではない」
「ですが、前例は常に一人から始まります」
教皇は、王国からの通知を再び手に取った。
「第二王女殿下が立ち会えば、各国は王国がこの縁を得たと受け取ります」
「洗礼を施すのは王女ではない。我らだ」
しかし、ヴァルネの司祭だけが主宰すれば、儀式の印象は王女の格に覆われる。
王国が王家の名代を立てる以上、教会にも典礼を代表する者が必要だった。
だが一方でセヴェリンは本件を強行した場合、教会内部でリーネを特別な呼び名で祭り上げようとする者が現れる可能性を口にした。
教皇は、考える間もなく退けた。
「聖女などと呼べば、リュセル殿下はその日のうちに連れ去るだろう」
教会が欲するのは、一時の熱狂ではない。
リーネを囲い込めば、庇護者との関係はそこで絶える。
正規の洗礼を施し、信徒として迎えた事実を残してこそ、教会は彼女の成長へ関わり続けられる。
「奪うな。教会へ戻る理由を、あの子の人生へ確実に残せ」
「はい、それは確実に。では、承諾が得られましたら、私がヴァルネへ参ります」
典礼院長であれば、王女へ礼を尽くしながら儀式の主宰権を守れる。
リュセルの信仰へ踏み込まず、リーネだけを信徒として迎えるための線引きも任せられる。
「うむ。ただし、教皇庁の権威を見せつける行列は不要だ」
教皇はセヴェリンの申し出を認めた。
「王国へリーネの身分は認めさせればよい。だが、その魂まで王国のものにさせるな」
◇
それから王都と聖都の間で、数度の書状が交わされた。
王国は王女の立会いと王国民としての確認、アルヴァリス王家の庇護の承認、記録官一名の同席を求めた。
そして教会に対し、法的保護者を名乗らず、洗礼を教皇庁だけの成果として公表しないよう求めた。
一方の教会はセヴェリンが典礼を主宰し、王女と記録官は儀式へ介入しないこと、リーネを信徒として記録し、将来の宗教教育と行事を提案できることを譲らなかった。
双方は、まずリュセルの承諾を得ること、承諾が得られた場合は王女と大司教の双方が立ち会うことにだけは、すんなりと合意した。
書状のやり取りを重ねた結果、王国と教会は別々に記録を作り、互いの内容を否定しないことで合意した。
どちらもリーネの身柄を求めない。親権と庇護権も主張せず、アルヴァリス王家の庇護を明記する。
こうして、互いの権限と利益を残した条件が密かにまとまった。
誰もリーネを奪わない。
だが、王国も教会も、その子との縁を相手へ譲るつもりはなかった。
◇
午後、授乳を終えて昼寝から起きたリーネを抱き、私は隣の居間で客を迎えた。
訪れたのは、イレナが身元を確かめたヴァルネ教会の司祭とシスターが一人ずつ。
ルヴェンは窓辺に座り、イレナは扉のそばに控えている。
リーネは片手に布の鳥を持ち、その翼をしきりにつまんでいた。
司祭は私たちから離れた場所で立ち止まり、頭を下げる。
「面会の機会を頂き、ありがとうございます。本日はリーネ様へ、聖灯教会の洗礼をお受けいただくことをご提案したく参りました」
「……む…洗礼か」
私はこれまで、世界で起きたことや各地の営みを記録してきた。
当然、人間の宗教儀式についても一通りは調べている。
洗礼を受ければ聖灯教会の信徒として記録され、人間社会へ名を残し、教会との縁を結ぶことも知っていた。
もっとも、細かな作法までは覚えていない。
さほど興味がなかったからだ。
「まずは洗礼で行うことからご説明を――」
「知っているからいい。説明は不要だ」
司祭が口を閉じた。
手にしていた書類へ、まだ一度も目を通していない。
「この国では、人間の子の多くが受けるのだろう?」
「はい。幼いうちに受ける者が大半でございます」
ならば、リーネも受けた方がよい。
私にとって宗教儀式などどうでもよいが、人間の中で生きるリーネにとっては違う。
私が関心を持てないという理由で、この子から人間として普通に得られるはずの縁を取り上げる必要はなかった。
「受けさせよう」
司祭とシスターは、そろって目を瞬いた。
「もう、お決めになるのですか?」
「おかしなことを言う。お前たちは今日、そのために来たのではないのか」
「いえ、その通りでございます。ただ、もう少しお時間をいただくものと……」
司祭の手には、説明するために用意したらしい書類が何枚もある。
すべて無駄になったようだ。
リーネが布の鳥を握ったまま、もう片方の手を司祭へ伸ばした。
求めたのは、胸元にある灯火をかたどった銀の印だった。
司祭が私を窺う。
「触りたいらしい」
司祭が近づくと、リーネは銀の印を指先で何度かつついた。
満足したのか、すぐに布の鳥へ手を戻す。
「あの、殿下。まだお伝えしなければならないことがございます」
「何だ」
「ご承諾いただけた場合、王国からは第二王女エレオノーラ殿下が立ち会われます。聖都からも、セヴェリン大司教がお越しになります」
「好きにしろ」
司祭が再び言葉を失った。
「ですが、王女殿下と大司教猊下がそろって――」
「洗礼ですることは変わらないのだろう?」
「それは……はい」
「ならば誰が来ようと同じだ」
イレナによれば、王国と教会はリーネとの縁をどちらの功績とするかで、ずいぶん揉めたらしい。
人間たちが勝手に競うのは構わない。
リーネへ不利益がなければ、私には関係のない話だった。
「儀式の間、リーネは私が抱いている。それと、嫌がったら止めろ」
「承知いたしました」
「時刻は授乳と昼寝に重ならないようにしろ。王女と大司教にもそう伝えろ」
「……必ず、そのようにお伝えいたします」
王都と聖都を巻き込んだリーネの洗礼は、当のリーネが布の鳥に飽きるよりも早く決まった。
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