第18話 リーネ、初めて服を仕立てる(後編)
イレナが選んだのは、居住区から商業区へ抜ける道だった。
工業区と大市場を避け、教会の者も利用する仕立て屋へ向かう。
商業区が混み始める前に着くつもりらしい。
彼女は数歩先を歩き、曲がり角では先を確かめるが、私たちを置いていくほど距離を取らない。
高い塀と庭木が途切れ、通りの両側に店が並び始めた。
最初に通った荷車の馬が石畳を蹴ると、リーネは肩を揺らして私の胸元へ寄った。
馬車が通り過ぎるまで抱く腕を緩めずにいると、顔を上げる。
遠ざかる蹄の音を聞きながら、もう一度馬の方を見た。
音には驚いても、馬そのものから目を背けるわけではないようだ。
次に見つけたのは、店先で風に揺れる赤や黄色の布だった。
リーネは私の腕の中から指を開き、届かない布へ手を伸ばした。
通りの先を子どもが走り抜ける。
弾んだ笑い声を聞いたリーネは、その背中を見えなくなるまで追っていた。
これまで、リーネが人間の子どもを見る機会はほとんどなかった。
街を避け続ければ、あの姿を知る機会も失うことになる。
道ですれ違った者は、足元のルヴェンを普通の猫として見ただけだった。
角や翼に驚く者も、大精霊だと気づいて道を空ける者もいない。
幻惑は意図したとおりに働いている。
◇
イレナが足を止めたのは、糸巻きと針を描いた看板の下だった。
通りに面した窓には子ども用の上着と帽子が並び、その奥では色ごとに巻かれた布が棚を埋めている。
この店では、乳児向けの既製品も扱っているらしい。
「こちらです」
イレナは店内を確かめてから、私たちのために扉を押さえた。
リーネを抱いたまま敷居をまたぐと、戸口の鈴が鳴る。
リーネが頭上を見上げている間に、ルヴェンが足元を抜け、イレナも後ろから店へ入った。
「いらっしゃいませ」
奥の作業台にいた女主人が、私たちを迎えた。
女主人は私の腕のリーネを見るなり、明るい声を上げた。
「まあ、なんて可愛らしいお嬢さん。大きな目で、店の中をよく見ているのね」
「そうだろう」
思わず答えると、リーネは女主人へ顔を向け、「あぅ」と声を返した。
「お返事までしてくれるの。お名前は?」
「リーネだ」
「リーネちゃん。きれいなお名前ね」
「外でも、気になるものを見つけるたびに手を伸ばしておられました」
イレナが言うと、リーネは彼女へも手を伸ばした。
「好奇心も旺盛なのね。元気で、とてもいい子だわ」
可愛いと言われたのも、名を褒められたのもリーネだ。
それでも、二人の話をもう少し聞いていたいと思った。
「本日は、リーネ様に合う普段着を仕立てていただき、すぐに使える肌着や日よけ、上着、抱き布も選びたく参りました。成長されて、いまお持ちの衣類では合うものが少なくなっております」
イレナが来店の目的を伝えると、女主人は頷いた。
「承知しました。では、まず今の大きさを見せてくださいね」
女主人は会話を続けながら、さりげなくリーネの身体へ布を当て、必要な大きさを確かめる。
私は並べられた品の中から、最も厚く目の詰まった布を取る。
「これは刃物を通すか」
「……赤ちゃんの服は、鎧ではありませんよ」
「火には耐えるか」
「普通に燃えます」
「では、衝撃を逃がす術式を織り込めるか」
女主人が言葉を失った。
代わりに、イレナが私の手にある布を指でつまんだ。
「……リュセル様」
「何だ」
「リーネ様を、何と戦わせるおつもりですか」
「戦わせるつもりはない」
「でしたら、戦場へ出す装備ではなく、赤ちゃんの服をお選びください」
「外へ出る以上、万一への備えは必要だ」
「その万一は、リュセル様が防がれるのでしょう」
「当然だ」
「では、この布は必要ございません」
イレナは私の手から厚い布を取り、元の棚へ戻した。
女主人が差し出したのは、先ほどの布より薄く、触れると形を変えるほど柔らかな布だった。
「必要なのは、柔らかく、洗いやすく、身体を動かしやすい物です」
イレナがその布をリーネの腕へ当てた。
リーネは腕を曲げたまま嫌がらず、布が頬へ触れても顔を背けない。
「こちらは魔力をよく通す。防護を重ねやすい」
「また防御の話へ戻らないでください」
「しかし、必要なことであろう?」
「リーネ様の一日は、戦闘ではなく、食事と睡眠と好奇心で成り立っております」
「そのとおりです。毎日洗っても傷みにくく、肌を傷つけないことの方が大切ですよ」
女主人は、乳児の服は大人の旅装と違い、成長すればすぐ合わなくなると説明した。
長く使える物を選ぶより、その間に何度洗っても肌を傷つけない方が重要らしい。
ルヴェンはこのやり取りに声を出してはいないが、笑いを堪えた表情を見せていた。
「……ふん」
だが、イレナとこの女主人が言うことも一理ある。
リーネのことを考えると、確かにそちらの方が合理的な考え方なのだろう。
であれば、魔力を通しやすい布より、今のリーネが自由に動ける布を選ぶべきということになる。
そして、日よけと上着、抱き布もイレナたちの言う通りの基準で決めた。
女主人が品を包みながら私へ尋ねる。
「初めてのお子さんですか?」
「私の子ではない。庇護しているだけだ」
返事をしつつ抱く位置を変えようと少し離すと、リーネは私の服を握って離さなかった。
「ふふふ。その子にとっては、あまり違わないようですけどね」
女主人は包み作業へ戻り、イレナも何も言わなかった。
そしてあらかた用事は済ませた頃、店の奥から、3、4歳ほどの子どもが母親と一緒に出てきた。
その子は腕の中のリーネを見つけると、少し離れた場所で足を止める。
「赤ちゃん、見てもいい?」
私はイレナへ顔を向けた。
イレナは子どもが何も隠し持っていないことと、母親がすぐ後ろにいることを確かめ、頷く。
「見るだけなら構わない」
子どもは布で作られた鳥を両手で持ち、リーネから届くところへ見せた。
青い胴に黄色い翼を縫いつけた、片手に収まる鳥だった。
リーネは私の服を握ったまま、もう片方の手を鳥へ伸ばす。
布の翼へ指が触れると、子どもは声を弾ませた。
子どもが鳥を羽ばたかせるように動かすと、リーネの指もその動きを追う。
やがてリーネは鳥だけでなく、その子の顔を見て「あぅ」と応じた。
子どもが笑い声を返すと、リーネも口を開き、もう一度声を出す。
腕から離れようとはしていない。
だが、ここにいれば、知らない人間へも手を伸ばせるらしい。
「街へお連れした意味はあったようです」
「……一度では判断できない」
子どもは布の鳥をリーネの手へ残した。
リーネが翼をつかんでも、今度は引き戻さない。
代金を出そうとしたが、母親が首を横へ振る。
「うちの子が、この子にあげたいそうなので」
受け取るだけでよいのか分からず、私はイレナを見た。
「この場合は、礼を言えば十分です」
「リーネのために受け取る。礼を言う」
「どういたしまして」
子どもは母親の隣へ戻った。
リーネは布の鳥をつかんだまま、その姿を見送った。
◇
北緑館へ戻るまでに、リーネは私の腕で眠った。
そして、店で子どもからもらった布の鳥だけは手から離していない。
シスターたちが購入品を整理すると、私が防御性能を理由に選んだ布はほとんど……いや、すべて選ばれていなかった。
採用されたのは、女主人とイレナが選んだ柔らかい上着と抱き布である。
「……なぜだ。解せぬ…」
◇
リーネはいつもの時刻に乳を飲み、安心したのかスヤスヤと寝息をたてている。
初めての外出であっても眠りや食事のタイミングが変わらなければ、同じ程度の時間であれば今後も外出は出来るであろう。
『最もお気に召したのは、子どもからもらった品のようでございますな』
「価格と好みは一致しないらしい」
夜、私は記録帳へ、初めての市街外出についてしたためた。
馬の音には警戒したが、色のある布と人間の子どもには自分から興味を示した。
見知らぬ人間との短時間の接触にも問題はない。
リーネは私の外見を変えても識別でき、ルヴェンは人間から普通の猫として認識された。
その末尾へ追記する。
――再度の外出を検討する。
『検討、でございますか』
「明日ではないが…。リーネの様子を見て決める」
次に外へ出す時も、今日と同じ時間帯なら負担は少ないだろう。
そして寝床では、リーネが布の鳥を握ったまま気持ちよさそうに眠っていた。
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