第17話 リーネ、初めて服を仕立てる(前編)
イレナが北緑館へ残ってから、10日ほどが過ぎた。
最初のうち、イレナの仕事は外周の警戒と、リーネの部屋から見える庭先でシスターを手伝うことが中心だった。
だが、用事でイレナが窓の外からいなくなるたび、リーネは不満そうな顔をする。
それが何度か続くうちに、イレナは館内にも控え、警護とシスターたちの手伝いを兼ねるようになった。
外では洗った布を運び、館内では乳や衣類の支度を手伝う。
屋敷の内外を警戒しながら、できるだけリーネの近くにいるのが、今では彼女の役目になっていた。
彼女は毎朝、館の内外に異常がないと報告し、領主館から書状が届けば私へ取り次いだ。
シスターたちはこれまでどおり交代で通い、リーネの乳や布、体調を確かめている。
リーネがイレナへ手を伸ばすことも増えた。
イレナは作業を中断して手袋を外し、近くへ来ても自分から抱こうとはしない。
差し出すのは、最初の日と同じく人差し指だけだった。
リーネはそれをつかむと満足し、しばらくすれば自分から離す。
リーネが指を離すと、イレナは手袋を戻して手伝いを続ける。
リーネも追おうとはしなかった。
その日の早朝、シスターの一人が衣類を並べながら告げた。
「リーネ様の身体が大きくなり、合う衣類が少なくなってまいりました。そろそろ新しいものを仕立てた方がよろしいかと」
シスターは、袖が合わなくなった服を一枚持ち上げた。
「街から、乳児の服に慣れた仕立て屋を呼びましょう」
「来訪者の身元は私が確かめます。採寸もここで済ませるのが安全です」
イレナも同意した。
人間の衣服は人間に任せた方がよい。
「そうだな。それでよい」
話が決まり、シスターが衣類を畳み始める。
その時、開いた窓の向こうから、通りを行く子どもの声が微かに聞こえた。
腕の中のリーネが声のした方へ顔を向け、窓へ手を伸ばす。
やがて声が遠ざかっても、しばらく窓の外を見ていた。
最近リーネは外のちょっとした変化に、すぐ反応を見せるようになっていた。
恐らくはこれが成長、というものだろう。
外の世界の出来事を情報として捉え、そしてそれを学びに変える時期に入りつつあった。
「……ふむ」
仕立て屋をここへ呼べば、リーネを危険に近づけずに済む。
だが、それでは新しい人間が一人、この館へ入ってくるだけだ。
リーネは人間の子だ。
守ることと、人間の世界から遠ざけることは同じではない。
館の中だけを安全に整え続けても、外にあるものを何も知らずに育ててよいとは思えなかった。
このタイミングで私の心の中を見透かすかのように、ルヴェンが語りかけてくる。
『森の幼子も、日の光や風、土の匂いに触れて育ちます。人の子であれば、人の営みに触れることも必要かと』
ルヴェンの言葉を聞き、もう一度リーネを見る。
まだ窓の向こうへ手を伸ばしていた。
「……いや、仕立て屋は呼ばなくてよい。こちらから行く」
シスターは持っていた服を膝へ戻した。
イレナも、珍しく返事に間を置く。
「いえ、それは……」
「何だ」
シスターとイレナは顔を見合わせた。
「殿下のお姿で街へ入れば、大変な騒ぎになります。それに本日の外出となれば、経路の確認も警護の配置も間に合いません」
城門で身分を示した時でさえ、周囲の人間は騒いだ。
今は辺境伯家も私の名を知っている。
この姿のまま歩けば、人が集まり、リーネに街を見せるどころではなくなるらしい。
その懸念は尤もなことだろうが、それは私にとってなんら問題にはなり得ない。
「私がいれば、何の問題もない」
「殿下をお守りできるかどうかが問題なのではございません」
「人間が騒がなければ問題ない、だろう?」
私は幻惑を自分へ重ねた。
長い耳は人間と同じ形に、銀髪は濃い茶色に見せる。瞳の色と魔力の気配を抑え、王族の衣も街道を歩く旅人の服へ見えるよう覆った。
変えたのは周囲からの見え方だけだ。
「これなら、私だとは分からない」
「……お姿については、問題ございません」
イレナはそう答えると、すぐに机へ向かった。
紙へ数行を書き、小さく巻いて筒へ収める。そのまま部屋を出ていき、間もなく庭から鳩の羽音が聞こえた。
戻ってきたイレナへ尋ねる。
「何を飛ばした」
「緊急連絡用の鳩です。辺境伯様へ、外出先と経路をお知らせしました」
「…許可は求めていない」
「許可ではございません。増援の要請です」
何を増やす必要があるのか分からなかったが、人間には人間の備え方があるのだろう。
鳩を飛ばしてから、北緑館の中は急に慌ただしくなった。
イレナは机へ市街図を広げ、やってきた伝令へ経路を書いた紙を渡す。
シスターは外出用の布と乳を用意し、着替えと抱き布をひとまとめにしていく。
私はリーネを抱いたまま、ルヴェンと支度が終わるのを待った。
イレナは市場が混む前なら人通りが少ないと説明し、北門側の道にある仕立て屋を選んだ。
『わたくしは、外から見ると猫にしか見えませぬ。姿を変える必要はございませんな』
足元のルヴェンは猫ほどの大きさで、体つきも猫に近い。
「大きさも猫と変わらない。そのままで問題ないだろう」
シスターとイレナは、同時にルヴェンの頭と背を見た。
「……鹿のような角と、翼がございますが」
「……人界の猫には、ないのか?」
「ございません」
ルヴェンが背中の翼を1度広げる。
『では、少々目立ちますかな』
私はルヴェンにも幻惑を重ねた。
枝角と翼を人間の目から隠し、翼がある背中も普通の毛並みに見せる。
大精霊の気配も抑えたが、角と翼そのものはただ幻惑で隠しているだけなので、触れられれば幻惑だと分かるが、街中で角や翼へ触れさせなければ問題はない。
腕の中のリーネが、私の顔を見続けていた。
見慣れた銀髪も長い耳もなくなったように見えるためか、すぐには胸へ寄ってこない。
泣きも笑いもせず、濃い色に見える髪から人間の形に見える耳まで、顔の一つ一つを確かめている。
「私だ、リーネ」
声を聞くと、リーネの手が私の頬へ触れた。
指で頬を押し、次に幻惑で人間の形に見える耳へ触れる。
何度か触れた後、今度は胸元へ鼻先を寄せた。
匂いと体温は変えていない。
抱く腕の位置も、身体を支える手もいつもと同じだ。
リーネは少しだけ息を吸ってから頬を押しつけると、出発用の外套を握り、いつもの位置へ身体を収めた。
顔が違って見えることは、もう問題ではないらしい。
『お姿ではなく、主ご自身を覚えておられるようでございます』
「当然だ。私は何も変わっていない」
確認が済んだのなら、出発に問題はない。
◇
北緑館を出ると、門の先に見慣れない人間が増えていた。
北緑館があるのは、ヴァルネ北側の居住区でも、貴族町にほど近い緑の多い一画だ。
街路樹の向こうには高い塀が続き、その上から庭木の枝がのぞいている。
近隣に住むのは、裕福な商人や役人など、広い庭と使用人を抱えられる家ばかりだった。
ヴァルネでは、居住区と工業区、商業区が明確に分かれている。
この辺りには店の看板が一つもない。
衣服や家具が必要になれば、商人や職人を屋敷へ呼ぶのが常だった。
仕立て屋を北緑館へ呼ぶという案が先に出たのは、ここではそれが普通だかららしい。
庭師に扮した男が街路樹の枝を調べ、荷箱を抱えた女が近くの屋敷の門番へ声をかけている。
屋根の上では、瓦を点検する職人がこちらへ背を向けていた。
どれもこの一帯にいて不自然ではない姿だが、誰もが北緑館と居住区を抜ける道を警戒している。
「あれが増援か」
「はい。兵は使用人や配達人に、暗部は職人に扮しております」
『鳩が帰ってから、さほど時は経っておりませぬが』
「緊急要請ですので」
イレナは当然のことのように答えた。
私たちの後ろへ行列を作るのではなく、通りと屋根へ散って異常があった時だけ動くという。
「なるほど。人間の世界ではこれが通常なのか…」
『ハイエルネリア王国では、このような過剰な護衛を街中では行いませぬ』
「申し訳ございません。貴人の護衛は万全の態勢で臨めと、領主様からの指示でございますので…」
「よい。別に責めてはおらぬ。それに今はまだ戦時であるし、その辺りは理解できる」
「…ありがとうございます」
門を出て歩き始めると、リーネは忙しそうに顔を動かした。
街路樹の葉が風に揺れると、頭上を仰いで手を開く。
石塀に止まっていた小鳥が飛び立てば、身をひねってその行方を追った。
近くの屋敷から犬の鳴き声が響いた時だけは、私の服を握り、門の奥へ顔を向けた。
驚いても、すぐに目を背けることはない。
次に何が現れるのか待つように、私の腕の中から通りを見回している。
「外はそれほど珍しいか」
声をかけると、リーネは私を見上げて「あぅ」と答え、また街路樹の枝へ顔を向けた。
館へ戻りたい、という返事ではないらしい。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




