第16話 暗部の女、リーネに選ばれる
私は差し出された書状へ目を通した。
「……ふむ」
領主館へ来いという命令ではない。
ギルベルト本人が北緑館へ伺い、日時はこちらへ委ねると記されている。
政治交渉を求める文言もなかった。
面会を拒む理由はない。
ただし、人間同士の会談時刻を優先して、リーネの生活を崩す理由もなかった。
ここ数日で、乳を飲み終える時刻と昼寝から起きる時刻はおおよそ分かっている。
ギルベルトがこちらへ来るなら、その間へ入れればよい。
「三日後の午後で構わない。リーネが乳を飲み、昼寝から起きた後にしろ」
使者は一瞬、目を瞬かせた。
「眠っている時に大勢で来られては困る」
「……承知いたしました。三日後の午後、その旨を必ずお伝えいたします」
使者はリーネを起こさぬよう、足音を抑えて退室した。
扉が閉じると、窓辺にいたルヴェンの耳が北東へ向く。
『本日は北東の木立でございますな』
「昨夜は西側の屋根にいた」
北緑館へ移った最初の夜から、館の外には人間が一人いる。
こちらへ敵意を向けず、窓や扉を探ることもない。
見ているのは館へ続く道と、森から近づく者だけだった。
足跡は途中で消え、風下を選んで動いている。
人間の兵や旅人なら気づかずに通り過ぎるだろう。
隠れ方そのものは、人間として見れば優れていた。
『追い払われますか』
「館へ入ってこないなら問題はない」
◇
それから三日間、北緑館の生活は大きく変わらなかった。
シスターたちは交代でリーネの世話を手伝い、教会から乳と洗った布が届く。
私は寝床のそばで記録を続け、ルヴェンは窓辺から動かなかった。
リーネはシスターが用意した乳を飲み、私の指を握ったまま昼寝をする。
教会の荷車が来る時だけは外の人間も道から離れ、御者やシスターの動きを妨げなかった。
館の外にいる人間だけが、毎日場所を変えた。
二日目は街道沿いの物置、三日目は北東の木立。
姿を隠す場所を変えても、気配までは完全には消えていない。
商人らしい男が荷箱を抱えて館への道へ入ろうとしたことが一度だけあった。
木立の人間が先回りし、男へ何かを告げる。
荷箱は門へ届かず、男は来た道を戻っていった。
争う音はなく、荷箱の中身を道へ広げることもない。
男へ領主の命令書らしき紙を見せ、別の道まで案内してから、木立の中へ戻っている。
『少なくとも、役目は果たしておられるようです』
「…館へ入ってこないなら問題はない」
◇
使者が来てから三日後。
リーネが昼寝から目を覚まして間もなく、北緑館の前へ馬車が止まった。
降りてきたのはギルベルトと家令、従者の三人だけだった。
武装した兵も軍旗もなく、贈答品を積んだ荷車もない。
ギルベルトは館前でシスターへ取り次ぎを頼んだ。
従者は玄関に残り、館内へ入ったのはギルベルトと家令だけだった。
人数を抑えろという私の条件を、形式だけで済ませるつもりはないらしい。
会談には、リーネの部屋を使った。
リーネを別の部屋へ移す必要がなく、疲れればすぐ寝床へ戻せる。
私はリーネを抱いたまま椅子へ座った。
ギルベルトは家令とともに入り、深く礼をする。
リーネは二人の声へ顔を向けたが、すぐに私の胸元へ頬を戻した。
見知らぬ人間が増えても泣かず、かといって自分から手を伸ばすこともない。
「ローディネル王国東部を預かる、ギルベルト・グレイフェルでございます」
「リュセル・アルヴァリスだ。話は使者から聞いた」
ギルベルトは、事前に来訪を把握できなかったこと、城門で通常の確認を行ったこと、教会が北緑館を用意したことに問題がなかったかを尋ねた。
「不備はない。門番も教会も、必要なことをした」
城門で身分を確かめた者も、教会でリーネを預かろうとした者も、与えられた役目を果たしただけだ。
「私は国命を帯びていない」
ギルベルトは黙って次の言葉を待った。
「ハイエルネリア王国と、お前たちの国の交渉を始めるために来たのではない。この地へ来た目的は、リーネを安全に育てられる環境を探すことだけだ」
「承知いたしました」
彼は資源にも交易にも触れなかった。
申し出たのは、教会からの物資輸送を妨げないこと、必要なら医師や薬師、行政の担当者を北緑館へ寄こすこと、不審者を館へ近づけないことだった。
医師や役人も、こちらが求めた時だけ来させるという。
連絡役を一人に定め、領主館から別々の者が用件を作って押しかけないことも約束した。
「リーネを見物しようとする者を近づけるな」
「かしこまりました」
「教会の者たちが使う道を塞ぐな」
「巡回の者にも徹底いたします」
必要な支援はそれで足りる。
話が終わりかけたところで、私は開いた窓の向こうを見た。
「それから、庭の外にいる女も、お前の部下か」
ギルベルトの眉が動き、家令は口を閉じた。
『最初の夜は西の屋根、昨日は街道沿い、本日はあちらの高木でございます』
ルヴェンが尾を高木の方へ向ける。
「最初の夜から気づいている」
ギルベルトは言い逃れをしなかった。
「私の配下です。ただし、殿下や館内を探らせたものではございません。北緑館へ近づく不審者を止めるため、外周へ配置いたしました」
「それは分かっている。敵意があれば、すでに排除している」
館の中を探る気配はなく、商人を道の途中で引き返させてもいる。
毎日隠れ場所を変え、教会の荷車を通し、それ以外の者だけを止めていた。
こちらの護衛としては不要でも、人間を北緑館へ近づけない役目には使える。
私は高木へ向けて告げた。
「聞こえているだろう。出てこい」
枝の間から、暗色の服を着た女が地面へ降りた。
黒に近い灰褐色の短髪で、表向きに武器は見えない。
女は窓へ近づかず、庭を回って正面玄関へ向かった。
シスターへ取り次ぎを求め、許可を得てからリーネの部屋へ入る。
歩く音は抑えているが、今は気配まで隠していない。
呼び出された後まで身を隠す必要はないと判断したのだろう。
「イレナ・ヴァルク。グレイフェル辺境伯家直属の者です」
ギルベルトが名を告げると、イレナは片膝をついた。
「外周の警戒を命じられております。殿下方や館内を探る意図はございませんでした」
「護衛なら必要ない」
『主をお守りするには、少々力が足りませぬな』
イレナは反発せず、ルヴェンへ一礼した。
「承知しております。私が止めるのは、殿下方へ近づこうとする人間です」
自分の役割も、力の差も理解している。
人間を相手にする限り、役に立たない者でもなかった。
腕の中でリーネが身体を動かした。
ギルベルトが名乗った時も、家令が話した時も、リーネは私の服をつかんでいた。
だが今は、部屋の端で膝をつくイレナへ顔を向けている。
イレナは笑いかけず、声もかけない。
そしてリーネの手が私の服を離れ、イレナへ伸びる。
シスターたちへ抱かれることはあっても、初めて会った人間へリーネから触れようとしたことは記憶にない。
ギルベルトも家令も、その手が自分たちへ向かなかったことを理解して黙っていた。
「お前に触れたいらしい」
イレナは灰色の目を一度見開いた。
「私に、でございますか」
「そうらしい」
彼女は手袋を外した。
リーネを抱こうとはせず、手が届くところへ人差し指だけを差し出す。
武器を扱う手には硬い部分と古い傷があった。
リーネはその指をつかみ、握った。
イレナは動かなかった。
指を引けば小さな手ごと動かしてしまうため、その姿勢を保っている。
リーネは握った指を一度引き寄せ、手の甲へもう片方の手を添えた。
イレナの肩がわずかに強張る。
標的に気づかれず近づける者でも、赤子に両手でつかまれた時の動き方は知らないらしい。
「……握られました」
任務の報告と同じ調子だったが、どうすればよいのかを尋ねる目をしていた。
『そのままでよろしいかと』
ルヴェンだけが尾を揺らしている。
しばらく待っても、リーネは指を離さなかった。
「ふむ……リーネが嫌がらないなら、外周にいることは許す」
館内を探らず、シスターの仕事を邪魔しない。
リーネが眠っている時は音を立てず、敵意のある者を見つけた場合は先に知らせる。
そして一番大事なことだが、勝手にリーネへ触れない。
私やルヴェンから隠れる必要もない。
隠れたところで分かるのだから、毎日木や屋根を変える意味はなかった。
条件を告げると、イレナはすべてに頷いた。
「次からは、木の上に隠れる必要はない」
「承知いたしました」
ギルベルトが改めて礼をする。
「北緑館外周の警護と、領主館との連絡役として置くことをお許しいただけますでしょうか」
「リーネが嫌がらない間は構わない」
◇
会談を終え、ギルベルトと家令は領主館へ戻った。
イレナは北緑館へ残り、任務どおり庭の端へ移ろうとした。
彼女が戸口を離れると、リーネの顔もそちらへ向く。
手はイレナが去ろうとする方へ伸びたままだ。
指を離した直後から同じ反応が続いている。
庭の端では外周を見張れても、リーネからは壁に隠れて見えなくなる。
「そこでは遠いらしい」
イレナの足が止まる。
私は、開いた窓の向こうを示した。リーネの部屋から見える庭先で、シスターが乾いた布を取り込んでいる。
「外周を警戒しながら、あそこでシスターの仕事を手伝え」
イレナは困惑の表情をしつつも、指示された場所へ移動した。
『また、お一人増えましたな』
「警護役だ」
『左様でございますか』
リーネはシスターの隣で布を畳むイレナの姿を確かめると、私の胸へ頬をつけた。
やがて伸ばしていた手を戻し、安心したように目を閉じた。
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