第133話 辺境伯、リーネの外出に頭を抱える
リーネが木の馬を歩かせて私の靴の前まで来ると、馬を止めてこちらを見上げた。
「りゅー、リタのおうち、いきたい」
「リタと遊びたいのか。また来てもらえばいいだろう」
「ちがう。リタのおうち!」
リーネは首を振り、木の馬を抱えて立った。
「……お前が行きたいのか」
「うん! リタのところ、いく!」
これまでは、こちらへ来てもらっていた。
リタと会えるならどこでもよいと思っていたが、本人には違いがあるようだな。
「分かった。ただし、向こうの都合を聞いてからだぞ」
「うん!」
以前、リタはセルディオンが自分の家だと言っていた。
だがイレナによれば、ダリオたちは今、ヴァルネに住んでいるそうだ。
イレナに連絡を頼むと、後日、夫妻からぜひ来てほしいとの返事が届いた。
日取りを教えてやると、リーネは木の馬にまでリタの家へ行くと話しかけている。
「リュセル様。ギルベルト閣下にも、先にお知らせしておきます」
「何をだ?」
「リーネ様をお連れになって、ヴァルネへお越しになることです」
「友達の家へ遊びに行くだけだぞ。あいつの家へ行くわけではない」
「はい。ですが、突然お越しになるよりは……」
そういえば、前に領主館を訪ねた時も、ずいぶん慌てていたな。
今回は用事もないのだが。
「まあ、知らせるくらいなら構わん」
イレナは一礼し、連絡に向かった。
◇
ヴァルネの領主館で、ギルベルトは守備隊長から巡回の報告を受けていた。
そこへ家令が、イレナから届いた知らせを持ってくる。
「殿下が来られるのか。今度は何の相談だ?」
「今回はリーネ様もご一緒です。ご友人の家へ遊びに行かれるとのことです」
「……リーネが? いや、リーネ殿下……リーネ様が、街へ?」
領主館へリュセルが来ることは、近頃は何度かあった。
だが、リーネを連れて市街を歩くとなれば、話が違う。
「今度こそ騒ぎを起こすわけにはいかんな」
ギルベルトは、北緑館の前に祈願者が集まった時のことを思い出した。
静かな暮らしを求めて、親子が街を離れてしまったのだ。
「お出迎えは控えましょう。今回は私的なご訪問ですし、先方もその方がお喜びになるかと」
「うむ。リーネ様には普段どおりの街を楽しんでいただきたい」
家令と守備隊長は一礼し、執務室を出た。
廊下に出ると、守備隊長が家令に尋ねる。
「それで、訪問先はどこなんだ?」
「フェルナー家だ。リタという娘御が、リーネ様のご友人らしい」
「フェルナー? 確かロアナの件で殿下が名前を挙げられた商会だったな」
「そうだ。大樹の家へ招かれたことは聞いていたが、今回はリーネ様ご自身が訪ねたいとお望みになったそうだ」
「……ずいぶん親しいんだな」
「リュセル殿下がわざわざお連れになるくらいだからな」
「あの辺りは荷車の往来も多い。巡回兵には、フェルナー家へ続く通りも歩かせることにしよう」
「それなら、こちらも連絡役を出しておく。何かあった時に、すぐ館へ知らせが届くようにな」
「兵が何人も行き来していては、かえって目立つぞ。閣下は普段どおりにと仰っていたんだからな」
「分かっている。連絡役は普段着で街へ出す。買い物客に紛れて通りを歩かせるつもりだ」
「それなら問題ないだろう」
「そうだ。暗部にも来訪の予定を伝えておこう。以前のように人が押しかけることがあっては困る」
「そちらは任せた。私は巡回の手配を済ませてくる」
守備隊長と別れた家令は、商業担当者にも連絡した。
ロアナの件でリュセルが名を挙げ、今度はリーネ自身が訪ねたいというフェルナー家だ。
今後、あの一家からの連絡は自分にも回すよう伝えておく。
守備隊長はフェルナー家へ続く通りを巡回経路に加え、家令も連絡役を街へ送り出す。
暗部の者たちは、周辺の路地や交差点に散って警戒についた。
◇
訪問の日、私はリーネを抱き、ルヴェンとイレナ、マルタを伴って、《蒼穹渡り》でヴァルネへ向かった。
空へ駆け上がった途端、リーネが私の腕の中で歓声を上げる。
「わああっ! りゅー! そら! とんでるー!」
「ああ。だから、そんなに身を乗り出すな」
「みて! き、ちっちゃい! あははっ!」
リーネは眼下の森を指さし、嬉しそうに足をばたばたさせる。
「りゅー! もっと! びゅーん!」
「……リタの家へ行くのだぞ。空で遊ぶわけではない」
「リタ! びゅーん!」
……まったく。
帰りもせがまれそうだな。
街の外で地上へ降り、イレナの案内で市街へ入る。
リーネを連れてヴァルネの街を歩くのは、北緑館を出て以来だ。
猫に似た姿のルヴェンが、私たちのそばを歩いていた。
リーネを下ろして手をつなぐと、さっそく店先の籠を指した。
「りゅー、いっぱい!」
「ああ。あれは売り物だ。買いに来た者に渡すのだな」
大きな籠の中に、小さな籠がいくつも重ねてある。
リーネはその前で立ち止まり、そばのマルタにも小さな籠を教えていた。
私が待っていると、今度は通りを進む荷車へ顔を向ける。
「あれ、どこいく?」
「荷を届けに行くのだろう。こちらへ来るから、少し待つぞ」
籠屋の前で荷車を見送ると、リーネは手を振った。
その向こうで、路地に立っていた男がこちらの動きに合わせて身を引く。
先の交差点でも、買い物もせず、こちらばかり気にしている者がいる。
少し進むと、また別の男が動いた。
巡回兵まで通りかかり、店先へ寄りかけた人間が、その一団を避けて立ち止まる。
敵意は感じぬが、これだけ集まっては、リーネよりもこいつらの方が人の目を引くではないか。
「イレナ。あれも、ギルベルトの配下か?」
イレナは路地と交差点を確かめ、答えた。
「……はい。巡回の者に、連絡役もおります。あちらは暗部ですね」
「何だ、あの人数は」
「目立たせないつもりなのでしょうが……」
「十分目立っておる。友達の家へ遊びに行くだけだぞ」
人の寄りつかぬ通りを見せたいわけではない。
「私が直接、お話ししてまいります」
「そうしてくれ。リーネの行く先まで、あいつらで埋められてはかなわん」
イレナが領主館へ向かう間、私たちは店先から通行を妨げぬ場所へ移った。
マルタがリーネのそばに付き、ルヴェンも残っている。
リーネは別の店に並ぶ色紐を見つけ、今度はそちらを私に教えていた。
◇
イレナが領主館へ現れたと聞き、ギルベルトはすぐに通すよう命じた。
「閣下。リーネ様のお出かけですが、警備の方々が少々目立っております」
「目立つ? 出迎えは控えるよう伝えたはずだが」
「出迎えてはいらっしゃいません。ただ、殿下方が歩かれる先に、巡回の方も、連絡役の方も、暗部の方まで集まってしまうのです」
「……そこまで出ているのか」
「買い物の客まで、兵を避けて立ち止まっております」
ギルベルトは家令と守備隊長を呼んだ。
「守備隊長。お前のところは?」
「商家の通りへ巡回を回しました。荷車が多いので、横道にも人を置いております」
「家令は?」
「館への連絡員を。持ち場を空ける時のために、交代役も」
「暗部は?」
家令は少し言いよどんだ。
「来訪予定は伝えましたが、配置は向こうで決めたはずです」
「……それで、誰が全体の配置を確認した?」
家令と守備隊長が顔を見合わせた。
「リュセル様には、もう気づかれております」
「……隠れていたつもりの者までか」
「はい。閣下の配下かとお尋ねになりました」
「巡回の時間をずらし、横道の者も減らします。こちらで手配してまいります」
家令も続けた。
「連絡員は通りから離して待機させます。暗部にも、商家の前へ出ないよう伝えておきましょう」
「……頼んだぞ」
二人はそれぞれの持ち場へ戻り、イレナもリュセルのもとへ向かうと告げた。
「お手数をおかけいたしました、閣下」
「いや。殿下には、街は普段どおり使っていただけると伝えてくれ」
イレナが辞去した後も、ギルベルトはしばらく額を押さえたままだった。
◇
イレナが戻ると、私はリーネとまた歩き始める。
遠くにはまだ警戒する者がいるが、こちらへ寄ってくる様子はない。
このくらいなら、いちいち文句を言う必要もなかろう。
「りゅー、リタのおうち、まだ?」
「ああ。もう少しだ」
リーネが私の手を引くので、歩幅を合わせて進んだ。
店の並ぶ通りを抜け、イレナが示した家の前へ着くと、リーネが私に尋ねる。
「リタ、ここ?」
「ああ。ここだ」
「りゅー、はやく!」
そんなに引かずとも、逃げはせぬ。
私が扉の前まで来ると、リーネはつないだ手を軽く引き、笑顔で扉を見上げていた。
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