第128話 鹿の足跡の先には
居間へ来たリーネは、木の馬を片手に持ったまま、私の膝へもう片方の手を置いた。
「りゅー、しか、いたよね」
「ああ。前に見に行ったな」
「くさ、たべてた」
「そうだったな」
リーネは馬の耳に指を触れ、少し考えている。
「リタにも、みせたい」
「鹿は、いつも同じ場所にいるとは限らんぞ」
「でも、見にいきたい。リタと」
「そうは言うが、行ってみなければ鹿がいるかは分からんぞ」
「じゃあ、リタ、よぼう」
リーネは私の膝に置いた手を離さず、じっと返事を待っていた。
……まったく。
どうしてもリタと一緒に鹿を見たいらしい。
私が便箋を用意すると、リーネも隣の椅子へ上がってきた。
伝えたいことを尋ねれば、鹿が草を食べていたことから話し始める。
「みみも、うごいたの。リタにも、見てほしい」
「ああ。それを書いておこう」
「いっしょに行こうね、も」
フェルナー一家へ、都合のよい日に来てほしいと書く。
リーネが鹿を見せたがっていることと、森へは私たちも同行することを添え、最後に頼まれた誘いを入れた。
書き終えた手紙をルヴェンへ渡し、精霊に届けてもらうよう頼む。
「リタ、くる?」
「返事を待て。向こうにも都合がある」
「うん。しか、いたところ、教えるね」
リーネは木の馬を膝へ戻し、その鼻先を窓の外の森へ向けた。
◇
クララとリタが訪ねてくる日になると、リーネは居間の戸口を気にしていた。
リタの声が聞こえた途端に椅子から下り、入ってきた友達の前へ駆け寄る。
「リタ!」
「リーネ、今日は何して遊ぶの?」
「しか、見にいこう!」
「鹿がいるの?」
「うん! くさ、たべてたの。みみも、うごいたよ」
頭の横へ上げた両手をぱたぱた動かすリーネに、リタも自分の耳へ触れた。
「こんなふう?」
「もっと、おっきいみみ」
リーネが私の耳へ手を伸ばす。
「私の耳まで借りるな。今も鹿がいるとは限らんが、見に行くか?」
私へ伸びかけていた手が下がり、リーネが返事をする。
「いく!」
リタも行きたいとクララへ頼む。
クララも同行することになり、私たちはイレナと一緒に外へ出た。
私たちは風の精霊たちに運ばれて地上へ降り、以前鹿を見た草地へ向かった。
「こっち。しか、いたところ」
リーネが木々の間を指し、隣を歩くリタへ教える。
分かれた道ではイレナが行く方を示すが、その先に見覚えのある幹が現れると、リーネはまた指を伸ばした。
「この先?」
「うん。くさ、いっぱいあるよ」
草地に着くと、二人は並んで立ち止まった。
風が草地を渡っていたが、鹿の耳も背も見当たらない。
「ここ。ここに、いたの」
リーネが指した場所を、リタも覗き込む。
「……いないね」
「いたのに……」
木々の間へ顔を向けても見つからず、リーネは私のところへ戻ってきた。
「りゅー、どこ?」
「今はほかのところにいるのだろう。鹿も、食べたり歩いたりしているからな」
「ここ、くさ、あるよ」
「食べる場所は、ここだけではない」
リーネは草地へ向き直り、幹の向こうを探し始める。
リタも少し離れた草の間を見ていたが、土の出たところでしゃがんだ。
「リーネ、これ!」
「なに?」
「足あと?」
近づいてみると、柔らかい土に、先の二つに分かれた蹄の跡がある。
リーネもリタの隣へしゃがみ、跡の上へ顔を寄せた。
「鹿の足跡だな」
「しか?」
「ああ。ここを通ったようだ」
リタは顔を上げ、木のそばを指す。
「あっちにもある!」
立ち上がった二人がそちらへ進みかけたので、私は声をかけた。
「待て。ここから先は私たちも一緒だ」
イレナが先の地面と周囲を確かめ、私も森の気配を探る。
近くに危険な魔獣の気配はなく、足跡の続く先も子供たちが無理なく歩けそうな地面だった。
「イレナの先へは行くなよ。あと、足元の根の出ているところは気をつけろ」
「うん。リタ、こっちにあるよ」
リーネが次の跡の前で待ち、リタが追いつくと、二人でその先を探した。
イレナが前へ出て、私とクララもすぐ後ろから続く。
草の上では跡が見えなくなり、二人の歩みが止まる。
リタは草の途切れたところへしゃがんだが、そこにも跡はない。
「ここ、ないね」
リーネは隣の木へ回り、幹の根元にある土を覗いた。
「あった! リタ、こっち!」
呼ばれたリタが隣へ来て、同じ土の上に続くもう一つの跡を見つける。
「ほんとだ。こっちにも!」
その跡を踏まないようリーネが前へ進むと、リタも後を追った。
途中でイレナが張り出した根を示すと、二人は足元を確かめながら一人ずつまたいだ。
やがてリーネが立ち止まった。
跡ではなく、木々の向こうへ顔を向けている。
「りゅー、みず?」
耳を澄ませると、葉の擦れる音に混じり、水の流れるような音が聞こえた。
イレナに続いて、リーネはリタと手をつなぎ、枝の間から光の落ちている方へ進んだ。
幹を回ったリタが立ち止まる。
「あっ……!」
その隣へ出たリーネは、つないでいたリタの手をぎゅっと握った。
「リタ! しか!」
木々に囲まれた小さな泉のほとりで、鹿が頭を下げていた。
鼻先が水へ触れ、飲むたびに丸い波が岸から広がっていく。
「ほんとだ! でも、ほかにもいるよ!」
リタが示した水際には、小鳥が二羽降りている。
一羽は苔の生えた石の上でくちばしを水につけてから頭を上げ、もう一羽も少し離れた石の上で水を飲んでいる。
「とりも、いる!」
声を上げたリーネが一歩出かけたので、私は二人のそばへしゃがむ。
「ここから見ていろ。近づけば逃げてしまうぞ」
リーネは泉へ進むのをやめ、リタの耳へ口を寄せた。
「リタ、しずかにね」
リタも頷き、今度は泉の向こうの木の根元を指す。
「うさぎもいるよ」
根の下から伸びた鼻先が、水際へ近づいている。
リーネはしゃがんでみたものの、前にある草が邪魔になったらしく、また立ち上がる。
リタが自分の横を空けると、そこからはウサギの顔も見えた。
「うさぎ、みず、のんでる」
「鳥も飲んでるね」
鹿のそばの鳥が跳んで別の石へ移っても、鹿は顔を上げずに水を飲み続ける。
ウサギも根元から離れず、口を水面へ寄せていた。
それぞれの周りに広がる波が、泉の中ほどで重なっている。
「みんな、いっしょ」
リーネはリタへ囁き、二人で木の陰に並ぶ。
水は澄んでいて、底に沈んだ小石までよく見える。
底の砂が一か所で揺れ、湧き出す水が草と苔に囲まれた岸へ広がっていた。
枝の隙間から差す光は、波が通ると小石の上で揺れる。
「リーネ、あそこ、きらきらしてる」
「うん。とりのところも」
リーネはリタに笑いかけ、声を出しかけて口元を押さえた。
リタもつられて笑いをこらえている。
私は二人の後ろの乾いた土へ腰を下ろした。
クララもそばにしゃがみ、イレナは水辺へ出る道の手前に立つ。
鳥の声が枝から聞こえると、リタが頭上を指した。
そこから水辺へ降りてきた小鳥を、リーネが指で追う。
鳥は二羽のいる石のそばへ止まり、やがて水を飲み始めた。
「もういっぴき、きた」
「こっちの鳥より、ちいさいね」
二人は新しく来た鳥を見ていたが、鹿が顔を上げると、そちらへ顔を向けた。
耳を動かした鹿はしばらく泉のそばに立ち、それから木々の間へゆっくり歩いていく。
「しか、いっちゃった」
「水を飲み終えたのだろう」
今度は石の上の小鳥が一羽、頭上の枝へ飛び上がった。
ウサギも鼻先を上げ、根の向こうへ戻っていく。
「ここ、すごいね」
リタが泉へ顔を戻すと、リーネも頷いた。
「リーネ、ここ、すき」
「わたしも! リーネ、また来ようね」
「うん! また、いっしょ!」
クララが二人へ、そろそろ帰ろうと声をかける。
リーネはまだ石の上にいる鳥を指したが、クララに促されると私のそばへ戻ってきた。
「次も、鹿いるかな?」
歩き始めたリタに尋ねられ、リーネは泉の方を振り返る。
「いなかったら、ほかの子、いるかも」
「じゃあ、また見に来よう」
帰りはイレナが先に立ち、手をつないだ二人の後ろを私とクララが歩いた。
水の音が遠ざかる頃、リタが幹の根元で立ち止まる。
「さっきの足あと、ここだよ」
先へ進みかけていたリーネも足を止め、つないだ手を引かずに待った。
リタが跡を覗き終えると、隣へ戻ってくる。
「次も、ここから行こうね」
「うん。リタ、こっち」
リーネは手をつないだまま根を避け、私へ顔を向けた。
「りゅー、またここ、こようね」
「お前たちがまた来たいなら、連れてきてやろう」
「リタ、また来ていいって!」
「うん! 次は、どの子いるかな」
「うさぎ、いるといいね。とりも」
「鹿もね」
「うん。こんども、いっしょに見ようね」
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