第120話 リーネのための街
貴賓室に、ギルベルトの声の余韻が残った。
向かいのリュセルは、驚きが収まるのを待つように座っている。
「……殿下。申し訳ございません。もう一度、お聞かせいただけますでしょうか」
聞き取れなかったわけではない。
ただ、王都へ伺いを立てると申し上げただけで、なぜそこまでの話になるのか。
「リーネを我が家へ迎えることを、お前たちの王国が認めるのであれば、交易を認める用意がある。王都へも、そう伝えればいい」
ギルベルトは、すぐには頷けなかった。
このまま持ち帰れば、陛下にも聞き違いではないかと問われるに違いない。
「大変ありがたいお話でございます。しかし、交易と申しましても、両国の間には、これまで継続して品をやり取りする仕組みがございません。殿下は、どこまでをお考えでしょうか。何を求められ、どこで取引を行うのかだけでも伺えれば、王都へお伝えする際に……」
何にどれほどの価値があるかも、どれほど運べるかも分からない。
こちらから差し出せる物を選ぶにしても、相手が何を欲しているのかを知る必要がある。
「……それはそうだな」
リュセルはそこで言葉を止めた。
ギルベルトも待ったが、続いて出てきたのは、思いがけない問いだった。
「そういえば、ハルバ村はどうなっている?」
そばに控えるイレナも、リュセルの方へ顔を向けた。
「はい。支援は続けております。食料も届け、今は村の暮らしも落ち着いてまいりました。麦なども、平時と大きく変わらぬところまで戻りつつあります。飢えで亡くなる者は出ておりません」
「そうか」
それを聞いたリュセルは、しばらく何も言わなかった。
村のことで、さらに何か求められるのだろうか。
ギルベルトが次の言葉を待つ間、イレナも口を挟まずにいた。
「イレナ。ここからハイエルネリアまで分かる地図はあるか」
「……地図ですか?」
イレナがギルベルトへ伺いを立てるように顔を向けた。
ギルベルトは頷き、扉の外に控える者へ地図を持ってくるよう命じた。
「少々お待ちください。すぐに用意させます」
数分後、机の上へ地図が広げられた。
リュセルが席を寄せると、ギルベルトも地図を示せる位置へ移る。
「辺境伯領と、その周辺のものでございます。ハイエルネリアまでとなりますと、途中で他領の道へつながりますので、これだけですべてをお示しすることはできませんが」
「おおよそで構わん。ハイエルネリアは、こちらの方角だな?」
「はい」
リュセルは地図に記された村と街道をたどり、ロアナの名があるところで指を止めた。
そこを確かめてから、ハルバ村へ戻る。
「……よし。決めたぞ」
ギルベルトは身構えた。
イレナも、地図をのぞき込んだまま動かない。
「ハルバ村はここだ。そしてロアナはここ。ロアナからこちらへ道をつなげられれば、ハルバの近くにも人と物が通るな」
「経路を調べる必要はございますが、そのような道を整えることは考えられます」
「なら、ロアナを再建する。お前たちの王国が認めるのであれば、そこを二国の交易の窓口にしよう。ハイエルネリア側も、交易地として認める」
「……はい?」
交易の場所を尋ねた。
街を作る話が返ってきた。
「殿下、申し訳ございません。少々、意味が……」
「ロアナを再建すると言っている」
「それが、今回のリーネ殿のお話と、どのように……」
「お前たちが気にしているのは、リーネが我が王家へ連なることで、人間側とのつながりが薄れることだろう?」
ギルベルトは答えに窮した。
自分の懸念だけで王国全体の意向を決めることはできないが、関わりがなくなると思われれば、王都から異議が出る恐れはある。
「……その点を気にする者は、おりましょう」
「そういえば、ハルバの件でお前に借りがあったな。ここで返しておこう」
あの村への支援は、私への貸しにして構わない。
リーネを膝に抱いたまま、そう申し出られた時のことを、ギルベルトは覚えている。
貸しを預かるとは、確かに答えた。
リュセルの指が、もう一度ロアナを示した。
「ここをハイエルネリアの領地にするつもりはない。お前たちの国の街として再建すればいい。それと、ロアナはリーネが生まれた街だ。名目上は、あの子をこの街を預かる者として立てておけば、人間側との縁も残るだろう」
「……リーネ殿を統治者になさると?」
「リーネに政治などさせるつもりはない。実際に治める者は、お前のところから出せばいい。あの子は、二国を結ぶ街の象徴になればいいだろう」
「つまり、実務上の管理は、我が辺境伯家で行ってよいと?」
「そう言っている。お前たちの王家にも、その形で話してみろ」
何を言っているんだ、この人は。
ギルベルトは地図に残るロアナの名を見つめた。
人の暮らしが失われ、再建する余力もなく、荒れたままにしている街だ。
そこへハイエルネリアとの交易を招き入れるという。
ロアナは、敵国との前線に近い。
再び戦になれば、あの辺りは真っ先に脅かされる。
だが、そこへハイエルネリアの者が通い、王家が関わるとなれば、敵も今までと同じつもりで手を出せるだろうか。
地図に引かれた街道を、ギルベルトはたどった。
荷馬車がロアナへ向かい、商人たちがそこで取引する。
人が戻れば、街で暮らすための物も要る。
ハルバ村の品も、運ぶ先を得られるかもしれない。
条件が良すぎる。
それなのに、土地を求める話も、こちらの統治へ口を出す話もない。
「確認させてください。ロアナは引き続き我が国の領地として扱い、行政もこちらで担う。そのうえで、リーネ殿を街の象徴としてお迎えする、という理解でよろしいのでしょうか」
「そのつもりだ。リーネに土地や統治の権利は必要ない。ただし、あの子がいつ来ても、居心地よく過ごせる場所にはしておけ」
「もちろんでございます。ただ、再建の認可や街の扱い、リーネ殿をどのような立場でお迎えするかは、陛下のご承認をいただかねばなりません。私だけでお約束できることではございませんので」
「だから、話を通してほしいと言っている」
リュセルは地図から指を離した。
「リーネは、よく話すようになった。行きたいところも、自分で言う。これから先、人と一緒に学びたいと言うこともあるだろう。人間の社会へ出たいと言うこともある。その時、行ける場所にしておけ」
ギルベルトの脳裏に、幼いリーネの姿が浮かんだ。
「どう使うかは、リーネが決めればいい。リーネのための街を作れ。そのためなら、交易程度は認める。再建の人手も、必要ならこちらから出す。技術も貸せるし、費用もこちらで負担するつもりだ」
交易程度。
ギルベルトは、その言葉に返事を忘れかけた。
「どうだ。これで、お前への借りは返せるか?」
「もちろんでございます!」
今度は、迷わず答えられた。
だが、せっかく示された案を、ここでためらって失うわけにはいかなかった。
「至急、王都へ上奏いたします。リーネ殿の家人登録の件と併せて、正式に協議をお願いしましょう。このお話を実現できるよう、全力を尽くします」
「うむ。頼んだぞ」
リュセルがイレナの方へ顔を向けると、彼女はギルベルトへ一礼した。
「では、今までどおり、私を介して殿下へご報告する形でよろしいでしょうか。ギルベルト様」
「もちろんだ。引き続き頼む」
「承知しました」
「そちらの王家と話がまとまったら、一度すり合わせをしよう。では、頼んだぞ」
リュセルは席を立ち、イレナを伴って貴賓室を出た。
扉が閉じても、ギルベルトはその場から動けなかった。
机には地図が広がっている。
地図の上では、ロアナは今もただ一つの地名として記されている。
少し前まで、あそこに人を戻すことなど、手をつけられずにいた。
どれほどそうしていたのか。
扉が叩かれた。
「閣下?」
返事をしないでいると、家宰が扉を開けて入ってきた。
リュセルたちが帰ったというのに、ギルベルトが執務室へ戻ってこないため、様子を見に来たのだろう。
「閣下、いかがなさいましたか?」
その声で、ギルベルトはようやく地図から顔を上げた。
「……夢ではないだろうな」
「は?」
家宰の返事を聞いて、ギルベルトは我に返った。
「――こうしてはおれん!」
机の地図をつかむ。
「大至急、主だった者を我が執務室へ集めろ! 王都へ送る使者も用意しろ! 急げ!」
「は、はい!」
家宰が慌てて部屋を出ていく。
ギルベルトも地図を手に、執務室へ向かった。
◇
ヴァルネの城壁が遠ざかり、眼下に森が広がった。
リュセルとイレナは、《蒼穹渡り》で大樹の家へ戻っている。
「……あの、リュセル様」
「なんだ」
「あのようなこと、本当によろしかったのですか?」
「あのようなこと?」
「交易のことです。ロアナの再建も、都市のことも……」
「ああ。そのことか。リーネの安寧を考えれば、あの程度は安いものだ」
リュセルは、そう答えて家のある方へ飛んでいく。
イレナはしばらくその横顔を見ていたが、やがて、風に紛れるほどの声を漏らした。
「……ほんと、親ばかですね。リュセル様は」
「何か言ったか?」
「いいえ。風のせいではないでしょうか」
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