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【書籍化進行中】人間嫌いのハイエルフ、父になる  作者: 小狐


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117/126

第117話 自我の芽生え

 大樹の家では、昼を過ぎた頃から静かな時間が続いていた。

 私は居間の机で昨日の記録の続きを書き、リーネはすぐそばの床に座って絵本を開いている。

 ときどき頁をめくる音が聞こえるくらいで、本人も今日は私のところへ本を持ってこなかった。


 そんな中、戸が開いた。

 家の周りを見ていたイレナが戻ってくる。

 

 「リーネ様。鹿がいましたよ」

 

 リーネは開いていた絵本から顔を上げた。

 

 「鹿? このまえの?」

 

 「同じ鹿かは分かりませんが、草を食べています。ご覧になりますか」

 

 「見る。リーネも行く」

 

 絵本を閉じて立ち上がり、イレナのところへ歩いていく。

 その途中でこちらを振り向いた。

 

 「りゅーも行こう」

 

 「私はこれを書いている。イレナと行ってくればいい」

 

 「やだ。りゅーもいっしょ」

 

 リーネは私の椅子まで戻ってきて、外へ向かう代わりに、袖をつかんだ。

 

 「見てきたら、どんな鹿だったか教えてくれ」

 

 「りゅーも見るの」

 

 「あとで聞く」

 

 「あとじゃなくて、いっしょに見るの。ねえ、りゅー」

 

 袖を引かれ、持っていた筆を紙から離す。

 イレナは戸のそばで待っていた。

 リーネは袖をつかんだまま、一歩後ろへ下がった。

 

 「……分かった。行くから、引っ張るな」

 

 「じゃあ、早く」

 

 「筆を置くくらいは待て」

 

 書き終えた行へ印をつけて筆を置くと、リーネはようやく袖を離した。

 私が立ち上がるのを待ち、それからイレナのもとへ駆けていく。

 私たちは風の精霊たちに運ばれて地上へ降りた。

 イレナが森の方へ進むので、リーネを抱こうと身をかがめると、本人は両手を胸へ寄せた。

 

 「だっこじゃなくていい。リーネ、歩く」

 

 「鹿は少し先にいるぞ」

 

 「歩けるよ」

 

 「そうか。では行こう」

 

 身体を起こすと、リーネが私へ手を伸ばした。

 

 「りゅー、手つないで」

 

 「手はいるのか」

 

 「うん。手はつなぐの」

 

 差し出した手をリーネが握り、イレナの後を歩き始めた。

 土の上へ張り出した根を越え、その先にある草へ靴を踏み入れる。

 私も隣へ続いたが、ほどなく、つないだ手が後ろへ引かれた。

 

 「りゅー、早い」

 

 歩幅を落とすと、リーネが私の隣へ戻ってきた。

 

 「このくらいか」

 

 「うん。リーネと歩いて」

 

 イレナも先で待ち、私たちが追いつくと歩き出す。

 その後ろを、リーネは私の手を握って進んだ。

 草が靴へ当たるところでは膝を高く上げ、平らな土が続くところでは、つないだ腕を前後へ振る。

 私も合わせて腕を振ると、リーネはさらに大きく振った。

 

 「そんなに振ると、歩きにくくないか」

 

 「だいじょうぶ」

 

 言い終えたところで草へ靴が引っかかり、リーネは手の方へ身体を寄せた。

 支えてやると、靴を草から抜き、何もなかったようにまた歩き出す。

 腕を振る幅だけは、先ほどより小さくなっていた。

 やがてイレナが、木々の間を指した。

 

 「こちらから見えます」

 

 幹の向こう、草の茂った場所に鹿が一頭いた。

 首を下げて草を食み、口を動かしたまま、ときどき耳を別の方へ向けている。

 

 「いた。りゅー、いたよ」

 

 「ああ。見えている」

 

 「耳、動いた」

 

 片方の耳がこちらへ向くと、リーネもそちらを指した。

 私は隣へしゃがみ、本人が示した鹿の頭を見る。

 

 「こっちの耳。今、こっち向いたよ」

 

 「お前の声が聞こえたのだろう」

 

 「聞いてるの?」

 

 鹿は草から顔を上げ、こちらへ鼻先を向けた。

 

 「聞いているようだな」

 

 リーネは私の手を引いた。

 

 「もっと近くに行きたい」

 

 「近づけば逃げるかもしれん。こちらを気にしている」

 

 「遠くに行っちゃう?」


 「今よりは遠くへ行くだろうな」

 

 リーネは鹿が立っている草地をしばらく見ていた。

 

 「じゃあ、ここで見る」

 

 「ああ」

 

 「りゅーもここにいて。声、ちいさくしてね」

 

 「大きな声は出していない」

 

 「でも、もっとちいさく」

 

 最後の言葉は、私の耳へ寄せて囁いた。

 私はそのまましゃがんでいることにした。

 リーネはつないだ手を離し、私の肩へ片手を置いて、鹿を見る。

 鹿が首を下げると、リーネも少しかがんだ。

 鹿が草を食べるのを見て、リーネが私の肩を叩く。

 

 「食べてる」

 

 「そうだな」

 

 「ずっと食べてるね」

 

 「腹が空いているのだろう」

 

 「リーネ、ごはん食べてきたよ」

 

 「知っている」

 

 リーネは私の肩にもたれ、また鹿へ顔を向けた。

 草が揺れるたびに口元が隠れ、本人は私の肩から少し離れて覗き込む。

 鹿が顔を上げると、リーネはすぐ私の肩へ戻った。

 イレナも木のそばに立ったまま、こちらから鹿へ近づこうとはしなかった。

 しばらく草を食べていた鹿が、森の奥へ歩き出した。

 幹の間を抜ける身体を追って、リーネが私の肩から手を離す。

 

 「行っちゃう」

 

 鹿の背が茂みに隠れ、枝の向こうで耳が動いた。

 それも見えなくなると、リーネは私へ顔を向けた。

 

 「まだ見たかったのに」

 

 「鹿にも行きたいところがあるのだろう」

 

 「ここで食べてたのに」

 

 「もう食べ終えたのかもしれん。私たちも戻るか」

 

 「やだ。まだ帰らない」

 

 立とうとした私の腕へ、リーネが手をかけた。

 

 「もうちょっと待つ。戻ってくるかもしれないよ」

 

 「戻ってくるとは限らんぞ」

 

 「でも、待ちたい」

 

 「少しだけだ」

 

 私は腰を上げずに、鹿が去った方へ向き直った。

 リーネもまた肩へ寄り、木々の間を眺める。

 葉が動くと顔を上げたが、その下には何もいなかった。

 しばらく待ったが、鹿は戻ってこなかった。

 

 「もういないね」

 

 「ああ」

 

 「かえる」

 

 私は立ち上がり、手を求めてくるリーネと一緒に、イレナの後へ続いた。

 帰り道では、腕を振って遊ぶことはなかった。

 来る時に越えた根のところでリーネの歩みが遅くなり、私も速度を落とす。

 しばらくすると、リーネが足を止めた。

 

 「りゅー、だっこ」

 

 「自分で歩くと言っていたではないか」

 

 「歩けたよ。でも、もうつかれたの。いまは、だっこ」

 

 リーネはつないでいた手を離し、私へ両腕を伸ばした。

 その腕の間へ身をかがめると、待っていた両手が首へ回ってくる。

 膝の裏へ腕を入れて抱き上げる間も、リーネは私の首から手を離さなかった。

 

 「これでいいか」

 

 「うん」

 

 頬を肩へ押しつけ、片腕を私の背へ回す。

 私が抱え直すと、リーネはさらに身体を寄せた。

 顔まで肩へ埋めたので、眠るのかと思ったが、すぐ耳元から声がした。

 

 「鹿、いっぱい食べてたね」

 

 「まだその話か」

 

 「リーネ、まだお話してるの」

 

 「聞いている」


 「耳も動いたよ。こっちと、こっち」

 

 首へ回していた片手を離し、自分の耳を指す。

 私が見ると、その手はまた首の後ろへ戻ってきた。

 

 「イレナ、またいたら呼んでね」

 

 先を歩いていたイレナが振り向いた。

 

 「はい。見つけたらお呼びします」

 

 「りゅーも、こんども来てね」

 

 「また一緒に行けばいい」

 

 「うん。いっしょに行こうね」

 

 リーネは私の肩へ頬を戻し、首に回した腕をゆるめた。

 家の大樹が見えてきても、降ろしてほしいとは言わなかった。

 私はリーネを抱いたまま、木陰の道を歩いた。

読んでいただきありがとうございます。

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