第113話 焼け跡に残す木(前編)
大樹の家へ戻ってから、幾日か経った朝のことだった。
朝食を終えたリーネが、私の膝の上で木の馬を歩かせていた。
四本の脚をまとめて動かすので、馬というより跳ねる獣に近いが、本人は気に入っている。
私の膝を越えそうになると、もう片方の膝へ戻してやる。
「マルタ。今日はロアナへ行ってくる」
空いたカップを下げていたマルタが、手を止めた。
「リーネ様もご一緒ですか?」
「いや。ルヴェンと二人だ。空を飛んでいく。一日で用事を済ませて、今日のうちに戻るつもりだ」
辺境伯から聞いた、荒れたままの街が気になっていた。
イレナを通じて再訪の意向を伝え、必要なら木樹魔法で土地を保全することについても、ギルベルトの了解を得ている。
その連絡を取り次いだイレナは、今日は護衛として家に残る。
「留守の間、リーネを頼みたい」
「承知いたしました。お食事もお昼寝も、こちらでお世話いたします」
マルタが答える間に、リーネの木の馬が止まっていた。
膝の上から私の顔を見上げ、外套を引く。
「りゅー、いく?」
「ああ。出かけてくる」
「りーね、いっしょ」
両腕を私へ伸ばしてきた。
いつもなら抱き直して、そのまま外へ連れていくところだ。
「今日は、マルタたちと家で待っていてくれ」
リーネは腕を下ろさなかった。
私が腰を浮かせると、膝に置いていた木の馬が滑りかけたので、先にマルタへ渡す。
その間も服を握られ、結局、リーネを抱いて立ち上がることになった。
「りゅー、いっしょ」
「戻ってくる。今日のうちに」
「りゅー!」
先ほどより強い声だった。
首へ回ってきた腕が、髪まで巻き込んでいる。
少し離して顔を見ようとすると、胸へ頬を押しつけられた。
この子を置いて外へ出ることは、これまでにもあった。
だが、長く離れることはめったにない。
旅の間も、馬車に乗る時も宿へ入る時も、ほとんど私の腕か、すぐ手の届く場所にいた。
「ロアナの様子を見てくるだけだ。泊まりはしない」
言い終える前に、首を横に振られた。
髪が小さな口へ入りそうになり、指で除けてやると、その指までつかまれる。
『主。一日の長さをお話しになっても、今はご一緒に行きたいのでしょう』
足元からルヴェンが告げた。
「それは分かる」
『はい。よく伝わってまいります』
リーネの声は、部屋の外まで届いていただろう。
片づけを手伝っていたセラが木の馬をマルタから受け取ったが、リーネはそちらを見なかった。
マルタが両手を差し出すと、私の服を握る力がさらに強くなる。
「リーネ様。こちらへいらっしゃい」
「りゅー……」
私が身体を傾けた途端、泣き声になった。
マルタの腕へ移しかけたところでこちらへ身を戻そうとするので、背中を支えたまま止まる。
「まだ、離れそうにないな」
「はい。ですから、私がお預かりします」
マルタは慌てずにリーネの身体を抱きとめた。
私の服を握った手だけが、二人の間へ残っている。
「泣いていても、お世話はできます。どうぞ、お任せください」
リーネが泣くたび、私が抱き戻していては出発できない。
それでも、指をほどこうとすると、濡れた顔がこちらを向いた。
私はその小さな手を握り、もう一度話しかける。
「リーネ。帰ってきたら、また一緒だ」
返ってきたのは、私を呼ぶ声だった。
頷きもしなければ、手を振りもしない。
マルタが背を撫でながら抱き直すと、ようやく服から指が離れたが、その手はすぐ私へ伸ばされた。
「……留守を頼む」
「はい。いってらっしゃいませ」
マルタの隣へニナが寄り、リーネが落としかけた靴を直した。
入口に立つイレナも、私へ頷く。
私は空いた両手を下ろし、ルヴェンと部屋を出た。
家付き精霊たちには、朝のうちに出かけることを伝えてある。
生活階の外へ出ると、風のフィルネがついてきたが、リーネの泣き声に耳を向け、開いている入口へ戻っていった。
私はその後ろを見送ってから、足元へ風を集める。
《蒼穹渡り》
身体が床を離れ、ルヴェンとともに枝の外へ浮かび上がった。
葉を抜ける朝の光が外套に当たり、家の窓が少しずつ下になる。
そこから森の上へ進んでも、しばらくは耳にリーネの声が残っていた。
『戻られますか?』
「今戻ったら、同じことをもう一度やることになる」
『では、用事を済ませましょう。マルタも待っております』
「ああ」
木々の梢を越え、風の流れを前へ伸ばした。
足元の森が遠ざかり、街道が地の上に曲がった線を引く。
今日はルヴェンと二人だから、馬車の速さに合わせる必要もない。
だが、いつもならそこにある重みがないことを、私は飛びながら何度も意識した。
◇
ロアナが見えたのは、まだ日が高いうちだった。
街道の先に石壁が途切れ、屋根のない家々が灰色の地面へ並んでいる。
折れた時計塔は、今も半分の高さで空を指していた。
私は街へ入る道に降り、石畳へ足をつけた。
隣へ下りたルヴェンが、鼻先を通りへ向ける。
『辺境伯の話のとおりですね』
「ああ。人が住んでいるようには見えん」
火はとうに消え、灰の下から草が伸びていた。
焼け残った壁は雨風で崩れ、扉の外れた家には落ち葉が吹き込んでいる。
店先だった場所に割れた器が転がり、その間に白いものがあった。
骨だった。
折れた腕の骨らしいものが、器の破片へ引っかかっていた。
そこから離れた石畳には、肋骨が数本散っている。
通りの先にも、崩れた壁の下にも、白い骨が見えた。
遺体に残っていた肉は失われ、骨さえ一か所にまとまっていない。
おそらく、野生の獣が食い荒らし、引きずっていったのだろう。
誰かが片づけた形跡もなく、人の亡骸は、割れた器や瓦礫とともに街へ散らばっていた。
私は骨を踏まないように足を運び、中央広場へ向かった。
広場にあった樫も、切り株だけを残している。
その周りを囲んでいた石畳には土がたまり、割れ目から生えた草が切り口へかかっていた。
四十年前、終戦の記念に植えられた木だ。
敵も味方も武器を置き、二度と争わないと誓った。
私は、その時の領主と市民を見ていた。
後の戦争で、樫は兵器の材料にされた。
その結果が、この街だった。
『主。あちらの建物の奥をご覧ください』
ルヴェンが示したのは、広場に面した石造りの家だった。
屋根を失った壁の内側へ、魔の気配が澱んでいる。
ほかにも、通りを挟んだ崩れた建物の下に同じ気配があった。
「まだ濃くはないな」
『ええ。ただ、このままでは、アンデッドが湧く土壌になるかもしれません』
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