第11話 赤ちゃん連れの旅は思い通りにならない
ハルバ村の柵が、まだ振り返れば見える距離にあった。
私はリーネを外套の内側へ抱き、街道を南へ進んでいる。赤子を連れている以上、歩調は普段の半分以下まで落としていた。
背負う荷も、腰に下げる袋もない。
村人たちから受け取った乳や布を含め、旅に必要な品は、収納魔法で開く容量に限りのない空間へすべて収めてある。
普段ならそのまま風で山道を抜けるところだが、今日はリーネを揺らさないよう、地面を慎重に歩いていた。
私なりに、すでに十分な変更を加えている。
それでも腕の中で、リーネが泣き始めた。
初めは短かった声が、私の歩みに合わせて大きくなる。
リーネの顔は赤くなり、毛布の中で身体を縮めていた。
私は足を止めた。
「これでも普段の半分以下だぞ」
隣を歩いていたルヴェンが、猫ほどの姿で私を見上げる。
『リーネ様は、主の普段をご存じありません』
ルヴェンの指摘に反論する材料がない。
しょうがなく私は歩幅をさらに狭くした。
だが、長い脚を前へ出すたびに胸元が上下し、それが不快なのか泣き声は止むことがない。
では、もっと遅くするとどうか。
道を行く荷馬車に追い越されるほどまで落としても、リーネは外套を握って泣き続けた。
御者が怪訝そうな顔でこちらを見たが、今は人間の視線を気にしている場合ではない。
それでも変わらず、完全に立ち止まってリーネを胸へ寄せた時にだけ、声が少しずつ弱まった。
「速度ではなく、身体が上下することを嫌っているのか」
原因が分かれば解決は容易い。
足元へ風を集め、リーネを抱いたまま自分の身体をわずかに浮かせる。
靴底は踏み出す際に地面へ触れるが、小石を踏んでも振動は胸まで届かない。
数歩進んだ。
水面を滑るよりも滑らかに進む。竜を乗せても同じように運べるだけの制御を、人間の赤子一人分の重さと姿勢へ合わせている。
魔法自体は何ら問題はなかった。
だがリーネは目を見開き、再び泣いた。
「何故だ…揺れは消したぞ」
『揺れなければ、お気に召すとは限らないようでございます』
風を半分まで弱めても、泣き声は小さくならない。
仕方なく魔法を解き、普通に抱き直す。
身体が胸へ触れると、リーネは外套を握り、やがて声をしゃくり上げるだけになった。
転移なら歩く必要はない。
飛行なら道の凹凸も無視できる。
私はその考えを自ら否定し、試さずに街道へ向き直った。
「……これ以上、機嫌を損ねる必要はない」
ルヴェンの尾が1度だけ左右へ動いた。
しばらくすると、リーネが口を動かし始めた。
今度は移動への不満ではなく、空腹らしい。
乳の瓶を温めたが、最初は熱くしすぎた。
手の甲へ落とした乳が熱を持っていたため、風で瓶を冷ましてから飲ませる。
リーネは温度が下がるまで口を開けず、私が木匙を引くと不満そうに声を上げた。
どうも飲ませられる温度の幅はひどく狭いようだ。
替えの布を使い、肩へ抱いてげっぷを待つ。
短い音が出た頃に何となく後ろを振り返ると、村の柵がまだ遠くに見えていた。
「この速度では、予定日に着かない」
ルヴェンは街道の先ではなく、私の腕の中を見た。
『予定日に着く必要がおありですか』
私はそれに答えず、ぬるくなった乳の瓶を収納空間へ戻した。
◇
午後になると、街道へ小雨が落ち始めた。
道脇に大きな岩の張り出しがある。
奥まで雨は入らず、外から姿を見つけにくい。
地面も乾き、魔物や盗賊が近づいても入口を1つ見張れば済む。
旅の休憩場所としては申し分ない。
しかし、中へ入ると昼でも薄暗かった。
岩を打つ雨音が低い天井へ響き、リーネが周囲を見回して顔を歪める。
入口を流れる水と、岩から返る音を交互に追い、やがて私の外套へ顔を押しつけた。
外へ出ようとするように、足も毛布の中で動いている。
毛布は濡れていない。
冷たい風も入ってこない。
その確認を終える前に、リーネが泣き出した。
私は岩陰を出て、少し離れた木の下へ移る。
枝の間から明るい空が見え、葉へ落ちる雨に混じって鳥の声がした。
雨を完全には防げず、周囲からも見えやすい。
そこで周囲に防護障壁を張り、リーネの顔と毛布へ雨粒が当たらないようにする。
鳥が枝を移るたびに葉が揺れ、その隙間から白い雲が見えた。
リーネは雨音より小さな鳴き声を追い、泣きながらも木の上へ顔を向ける。
泣き声はすぐに弱まり、リーネは私の顔を見たまま目を閉じた。
「……こちらの方が雨宿りするには条件は悪い」
『リーネ様にとっては、こちらの方がよろしいのでしょう』
岩陰へ戻れば、また泣く可能性が高い。
私は木の幹へ背を預け、雨が止んだ後もリーネが眠りについたばかりなので、すぐには動かなかった。
葉から落ちる水滴が、障壁の上で小さく弾け続ける。
少し時間が経った後に移動を再開した。
そしてリーネが目を覚ました頃には、街道が2つに分かれていた。
石の多い最短路へ入ると、数歩でリーネが身じろぎして眉を寄せる。
私は来た分だけ戻り、平らな土の道へ向かった。
『そちらは遠回りでございます』
「揺れが少ない」
短い歩幅で進むと、リーネは再び眠った。
◇
夜、魔法で熾した火のそばで記録帳を開いた。
頁には一日の移動距離、通過するはずだった丘、ヴァルネへの到着予定日が並んでいる。
実際に進んだ距離は、予定の半分にも届かなかった。
私は到着予定日に横線を引いた。
空いた場所へ、授乳の間隔と睡眠時間を書く。
続けて、発熱なし、風で浮かせる移動を嫌がる、暗く雨音の響く岩陰では泣く、平らな道と明るい木陰では眠る、と加えた。
『旅程ではなく、リーネ様の記録になりましたね』
ルヴェンが頁を覗き込んでいる。
「同じことだ。この子を連れて進むために必要な記録だ」
腕の中では、リーネが火のはぜる音にも起きずに眠っていた。
◇
翌朝、私は歩き出す前に、リーネが眠っているかを確かめた。
石の多さを先に見て、風魔法を使う前にはリーネの顔を確かめる。
暗い岩陰は避け、明るく風の弱い場所があれば、授乳の時刻より前に足を止めた。
眠っていれば待ち、目を覚まして機嫌がよければ進む。
「ヴァルネまでの一時的な対応だ」
そう告げるたび、ルヴェンは何も言わずに尾を揺らした。
三日目、まっすぐ続く石畳を避け、轍の浅い畑道へ回った。
四日目には風の抜ける廃屋を通り過ぎ、日が高いうちから木立の中で休む。
そして五日、六日目を過ぎ、空はあと一つ丘を越えられる明るさが残っていたが、リーネが欠伸をしたため野営の準備を始めた。
『本日は、まだ日がございます』
ルヴェンが空を見上げる横で、私は毛布を乾いた草の上へ広げた。
「暗くなってから寝床を探せば、こいつが起きる」
返事の代わりに、白銀の尾がまた揺れた。
記録帳から距離と予定日の行が減り、乳を飲んだ量、眠った時間、泣いた道、落ち着いた場所が増えていく。
そしてその旅が約十日続いても、リーネは一度も体調を崩さなかった。
◇
丘の上へ出た時、街道の先に高い灰色の城壁が見えた。
「ようやく着いた」
『主お一人でしたら、何日かかったことでしょうか』
私は腕の中のリーネへ触れ、熱がないことを確かめる。
「比較する意味はない」
『リーネ様は、道中一度も体調を崩されませんでした』
頬の色はよく、呼吸も一定だった。
「ならば問題はない」
ヴァルネの門前には、避難民と荷車の列が城壁に沿って続いていた。
荷の上で眠る子どももいれば、空の水桶を抱えて座る者もいる。
列は門へ近づくにつれて狭まり、馬のいななきと車輪の音が重なっていた。
大人たちは荷を抱え直し、子どもは城壁の影へ入る順番を待っている。
魔法で越える理由はない。
私は列の最後尾へ向かった。
近くにいた男が、私の耳を見て声を漏らす。
「……あ、エルフ?」
別の女が振り向き、次に私の腕の中へ目を向けた。
「人間の赤ん坊を抱いているぞ」
「どういう組み合わせだ……?」
小さなざわめきが列へ広がり、リーネの瞼が動いた。
私は人々ではなく腕の中を見て、目を覚まさないようリーネを胸元へ抱き寄せる。
人間の赤子を抱いたまま、私はヴァルネの長い入城列へ並んだ。
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