第109話 ロアナ村
窓の外を、街道沿いの草が流れていく。
リーネは手を振るのをやめ、私の膝の上でこちらへ向き直った。
関所の兵は、もう見えない。
「イレナ。家へ戻る前に、ハルバ村へ寄りたい」
前の座席にいたイレナが、身体をこちらへ向けた。
「どなたか、お訪ねになるのですか」
「ああ。リーネを連れて、最初に世話になった村だ。サナという薬師がいる」
あの時は、乳を求めて村へ入った。
赤子の抱き方も知らず、眠らない理由も分からず、夜が明けるまで歩き回った。
サナには、随分と叱られたものだ。
「この子が大きくなったら、連れてこいと言われていた」
「りゅー」
話している途中で、リーネが私の胸へ手を置いた。
「何だ」
「かえる?」
「ああ。帰る」
答えると、リーネは満足したように私へ寄りかかった。
サナと別れた頃には、こうして尋ねることもなかった。
腕の中で泣くか眠るかしていた赤子が、今は自分の足で歩き、私を呼ぶ。
帰りたい家もある。
大きくなったら、という言葉に、何年後という期限はなかった。
だが、これだけ変わった姿を見せるのに、さらに待つ理由もない。
「帰る前に、世話になった人に会いに行こう」
リーネへ告げてから、イレナへ視線を戻した。
「立ち寄ってから、家へ向かう」
「承知しました」
隣の席では、マルタも話を聞いていた。
セラとニナへ寄り道のことを伝える声がする。
ルヴェンは私のそばで目を開けたが、今回は何も言わなかった。
覚えていれば連れてくる。
あの時、私はそう答えた。
忘れてはいないのだから、連れていけばいい。
◇
食事と休息を挟みながら、ひたすら街道を進んだ。
やがてハルバ村の柵が見えてきたので、私はリーネを抱き直し、窓から入口を確かめた。
すると見張り台から、男の呼び声が聞こえてきた。
「おい、馬車が来るぞ」
箱馬車が入口へ近づくと、男はこちらへ向き直った。
「四頭立て……貴族様か?」
男は急いで台から下り、道の脇で私たちを待っていた。
馬車が止まってから、私はリーネを抱いて降りる。
迎えに出ていたのは、以前ここで乳を求めた若者だった。
「ようこそ。本日は、どのような……あれ。あの時の……」
私へ頭を下げかけたまま、若者が顔を上げた。
「サナはいるか」
「あ、はい。います。……その子、あの赤ちゃんですか?」
「そうだ」
若者はリーネを見て、それから背後の馬車を見た。
「馬車から降りてくるとは思わなくて。すみません、すぐ呼びます」
返事をする前に、若者は村の奥へ向かって声を張った。
「サナばあちゃん! あの時のエルフの人が来たぞ!」
大声を出すな、と言いかけた。
だが、リーネは泣いていない。
私の腕の中で、若者が呼びかけた方へ顔を向けている。
「りゅー?」
「サナを呼んでくれている。ここで待とう」
リーネは私の胸へ手を置いたまま、家々の間を眺めていた。
しばらくして、そこから見覚えのある老女が現れる。
サナは私を見て笑いかけたが、腕の中のリーネを見つけると、そちらへ顔を近づけた。
「連れてきたぞ」
「……リーネかい?」
「ああ」
「まあ。こんなに大きくなって」
サナが笑うと、リーネは私の服を握ったまま、その顔を見ていた。
サナが手を差し出すと、私の胸へ頬を寄せた。
「覚えてなくていいよ。あんたは、寝てるか泣いてるかだったんだからね」
「乳を飲んでいる時もあった」
「そうだったね。あんたが飲ませてた」
サナは、リーネを抱いている私の腕を見た。
「もう、首を支えろとは言わなくてよさそうだ」
「いつまでも、あの頃のままではない」
「それは見れば分かるよ」
リーネが身体を起こし、私の腕から足を下へ伸ばした。
「ああ、待て」
地面へ下ろすと、リーネは私の服から手を離した。
サナが腰をかがめ、両手を広げる。
「おいで。こっちまで来られるかい」
リーネは少しの間その手を見ていたが、やがて一歩を踏み出した。
サナは急かさずに待っている。
近づくにつれてリーネの歩幅が大きくなり、足元の石へ向かいかけたので、私は横から手を出した。
「あんた、まだ転んじゃいないよ」
「石がある」
「あるね。この子にも見えてる」
私の手が届く前に、リーネは石を避けていた。
そのまま進み、サナの広げた手へ自分の手を重ねる。
「ほら、来られた」
「歩けることは知っている」
「じゃあ、歩かせておやり」
私は手を下ろし、二人のそばまで歩いた。
誰も、歩くなとは言っていない。
転びそうな時に支えられるようにしたのだが、説明する前にリーネが振り返った。
「りゅー」
「ああ。見ていた」
サナの手を握ったまま、リーネが笑う。
サナもつられるように笑って、その手を握り返した。
「ちゃんと呼べるんだねえ。返事もしてもらえるし」
「以前も、声をかければ返事はしていた」
「今は何を言ってるか分かるだろう?」
「分からない時もある」
「そりゃあるさ。これからもね」
サナは困ったことでも告げるような顔ではなく、リーネの手を握ったまま私を見上げた。
分からないことがこれからもあると、なぜ嬉しそうに言えるのか。
リーネは二人の会話を聞いていたが、やがてサナの手を離して私へ戻ってきた。
「結局、あんたが育ててたんだね」
「私一人ではない。マルタたちにも世話になっている」
リーネが両腕を上げたので、話しながら抱き上げる。
片腕へ座らせると、私の肩に手を置き、今度は高いところからサナを見下ろした。
「そうかい。いい人たちが見つかったんだ」
サナは、馬車から降りてきたマルタたちへ会釈した。
マルタが応じてから、リーネへ微笑む。
「でも、あんたもその腕は放さなかったんだね」
「今、歩かせただろう」
「今の話じゃないよ」
サナが声を上げて笑った。
腕の中のリーネまで笑い、私の肩を叩く。
どうして二人に笑われることになるのか。
「抱くのは上手くなったね。初めて来た時は、見てるこっちが怖かったよ」
「これだけ抱いていれば、慣れる」
「うん。よく抱いてもらったんだね、リーネ」
呼びかけられたリーネが、私の服をつかんだまま頷いた。
サナはその仕草を見て、もう一度、よかったねと声をかけた。
私は急かさず、彼女がリーネに話しかける間、その場に立っていた。
◇
サナの家へ向かって歩き始めると、リーネもまた下りたがった。
今度は私の人差し指を握り、隣を歩く。
サナはその歩調に合わせて道を進んだ。
家の壁には、色の違う板が継ぎ足されていた。
屋根を直している男は、下ろした板から釘を抜き、使えそうなものを手元へ集めている。
以前も豊かな村ではなかったが、迎えてくれた人々の衣は、あの時より繕った箇所が目についた。
「あの時、麦の出来が悪いと言っていたな。その後はどうなった」
「まだ楽にはならないね。病で働けなかった家もあるし、蓄えを使った分が戻らないんだよ」
サナは歩きながら、屋根の男へ片手を上げた。
男も気づいて手を上げたが、すぐに板へ向き直る。
「麦が取れても、前のようには売れない。ロアナの市へ持っていけば、買ってくれる者がいたんだけどね」
ロアナは、リーネを見つけた街だ。
私が着いた時には、建物も人も焼かれ、診療所の瓦礫から泣き声がしていた。
「買う者だけじゃないよ。こっちが要る物を売ってくれた店も、なくなった。遠くへ行けば、その分の手間もかかる」
「村だけで賄っているのか」
「支援は来てるよ。それがなけりゃ、越せなかった家もある。逃げてきた人たちもいるからね。皆で食べて、次までつなぐので精いっぱいさ」
道の先から、子供の声が聞こえた。
家の前に二人が座り、一人がパンをちぎっている。
「でも、この子が元気に育ったところを見られて、今日はいい日だよ」
サナはリーネへ笑いかけた。
リーネはその顔を見上げた後、子供たちの方を向いた。
パンを持っていた子が、大きい方の欠片を隣へ渡す。
受け取った子がすぐにかじると、渡した子も手元の欠片を口へ運びかけた。
だが、もう一度そこからちぎって、相手へ差し出す。
私の指を握る手が引かれた。
リーネが立ち止まっている。
私も立ち止まり、その子の手に残ったパンを見た。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




