第104話 絵の中の四人
古い記録帳を何頁かめくるうちに、窓から入る光がさらに傾いた。
リーネは頁に並ぶ七つの丸を見終えると、私の膝へ背を預けた。
もう一度同じ頁へ戻ろうと指を動かしかけたところで、あくびをする。
そこで私は記録帳を閉じた。
「今日は、ここまでだ」
「あい」
返事はしたものの、リーネはまだ表紙に手を置いている。
その様子を向かいから見ていた母上が、私を呼んだ。
「リュセル。帰る前に、もう一つ残してほしいものがあります」
「何を残せばいい」
「昔のあなたの記録ではなく、今のあなたたちの姿です」
母上が欲しいものは、すぐに分かった。
以前、大樹の家でリーネと私の肖像を描かせたと話した時にも、完成したら自分へ送るよう求めていた。
「肖像画か」
「ええ。前にも、リーネの肖像画がほしいと言ったでしょう」
母上は私の膝にいるリーネへ目を向けた。
「でも、絵を送って終わりにされるのは嫌だったの。だから、本人を連れてきなさいと言いました。実際に会って一緒に過ごしたら、今度はこの時間も残しておきたくなったの」
「絵があっても、本人の代わりにはならない」
「分かっています。せっかく会えたのです。あなたたちが帰った後にも、今の姿を見られるようにしておきたいの」
父上も母上の隣で頷いた。
リーネは何の話か分からないまま、閉じた記録帳の表紙を撫でている。
本人が嫌がらない範囲なら、断る理由はなかった。
「……まぁ、いいだろう」
翌朝、私たちは王城の一室へ案内された。
大きな窓から朝の光が入り、壁には歴代の王族を描いた肖像が並んでいる。
部屋の中央では、王家に仕える絵師が紙と道具を用意して待っていた。
リーネを抱いて中へ入ると、壁に掛かった一枚を母上が示した。
そこには、椅子に一人で座る幼いハイエルフが描かれている。
他の肖像では、王や王妃が家族や側近と並んでいるものもあった。
だが、その一枚に描かれているのは子供だけだ。
周囲には王家の紋章や枝葉の意匠が置かれ、幼い私の左右には広い余白が残っている。
「これは、リュセルが小さかった頃の絵よ」
母上に教えられたリーネは絵の子供を見上げ、次に私へ顔を向けてから、もう一度絵を見た。
「りゅー?」
「ああ。私だ」
リーネは私の髪をひと房つかんで持ち上げ、絵の中に描かれた銀髪へ目を移すと、髪を放して今度は絵の髪を指した。
記憶にない頃の姿なので、私にもそれ以上は答えられない。
絵の中の私は椅子の中央に座って膝へ両手を置き、少なくとも絵師に求められた姿勢のまま描かれていた。
絵師は国王夫妻へ一礼してから、用意された椅子を示した。
「陛下と王妃殿下には、こちらへお掛けいただきます。王太子殿下はお二人の近くに立ち、リーネ様をお抱きください」
王家の肖像としては、珍しくない構図なのだろう。
父上と母上が並んで椅子へ座り、私は言われた位置でリーネを抱き直した。
「先に言っておきますが、リーネは長く同じ姿勢ではいません」
「承知しております。まずは、この形から描かせてください」
絵師は手元の紙へ線を引き始めた。
リーネはしばらくその手を見ていたが、やがて私の腕の中で足を動かした。
床を見下ろし、身体を下へずらそうとする。
「下りるのか」
「あい」
私はリーネを床へ下ろした。
足が床につくと、リーネはすぐに母上の方へ歩いていく。
「殿下。もう一度、先ほどの位置へ――」
「戻しても、また動く」
以前は、絵のために何度もリーネの身体を正面へ戻そうとし、眉を寄せられた。
今の姿を残すのなら、動きを止める必要はない。
「そのまま描けばいい」
絵師は床を歩くリーネと私を一度見た後、別の紙を手元へ寄せた。
母上は近づいてくるリーネへ腕を伸ばした。
「こちらへ来る?」
リーネが両手を上げる。
母上は嬉しそうにその身体を抱き上げ、自分の膝へ横向きに座らせた。
「こちらの方が、よかったのね」
リーネは返事の代わりに、母上の服へ手を置いた。そのまま落ち着いて座っているので、少なくとも下りたかった理由の一つは母上だったのだろう。
最初に決めた構図ではリーネを抱くのは私だったが、母上は元の位置へ戻す素振りを見せず、膝の上の身体を片腕で支えている。
父上も椅子に座ったままリーネの前へ片手を差し出し、リーネは伸びてきた指を見てから、自分の手で握った。
父上の口元がわずかに緩み、握られた指を引くことも、手を握り返すこともせず、そのままリーネへ預けている。
「今度は、私も入れてもらえたようだな」
「指を動かせば、手を放すぞ」
「分かっている」
父上はそう答えると、本当に指一本動かさなくなった。
リーネは母上の膝から父上を見上げた後、部屋の中へ顔を巡らせた。
少し離れた場所に立つ私を見つけると、空いている手をこちらへ伸ばす。
「りゅー」
元の位置へ戻るよう求めているわけではない。
私が呼ばれたのだ。
そばへ行き、伸ばされた手に指を入れる。
リーネは私の指も握ると、母上の胸元へ背を預けた。
その間も、紙の上を走る音は止まらなかった。
絵師は大きな紙に向き直らず、新しく取り出した方へ線を重ねている。父上と母上も動かず、私はリーネに握られた指をそのままにして待った。
やがて絵師が手を止める。
「もう、動いてもよろしいのですか?」
母上が尋ねると、絵師は頷いた。
「はい。必要な姿は取れました」
差し出された紙を、母上がリーネを膝に乗せたまま受け取った。
まだ線だけの下絵だが、誰がどこにいるかは分かる。
母上の腕の中にリーネがいて、その片手を父上へ、もう片方の手を私へ伸ばしている。父上も私も正面を向かず、三人の視線は中央にいるリーネへ集まっていた。
壁の古い肖像では、幼い私は誰にも触れていない。
新しい紙の上では、四人の手がリーネを間にしてつながっていた。
「この姿で仕上げてください」
母上は迷わず絵師へ告げた。
「こちらがいいわ。今朝、ここでしか描けない姿でしょう」
「承知いたしました」
絵師は下絵を受け取り、大きな紙の横へ大切に置いた。
父上も下絵を見て、静かに頷いた。
「私も異論はない」
私とリーネの最初の肖像画も、決められた姿勢ではなく、リーネが初めて自分の力で立った瞬間を選んだ。
今回は、母上が残したい一枚を選べばいい。
「それで頼む」
絵師は下絵を受け取り、正式な絵へ仕上げると答えた。
完成する頃には、私たちは王城を離れているかもしれない。
母上は満足そうに頷いた後、私を見た。
「ただし、この絵が完成しても、次からリーネを連れてこなくてよいとは思わないでくださいね」
「分かっている」
母上の膝で、リーネは父上の指を握ったままだった。
もう片方の手も、私の指から離れていない。
四人の手がつながる形は、絵師の持つ一枚の紙にも、すでに残っていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




