第103話 私にも、子供の頃があった
リーネが私の指を握ったまま眠ってから、窓から差し込む光が少し傾いた。
やがて胸元で身じろぎし、閉じていた目がゆっくり開く。
「起きたか」
「あい」
返事をしたリーネは、まだ眠そうな顔で私の右手を見た。
何もない掌を見て、次に、世界樹の葉が消えた辺りへ顔を向ける。
「葉なら、ちゃんと預かっている」
私が収納空間を指で示すと、リーネは小さく頷いた。
「うん」
それで十分だったのか、今度は寝乱れた自分の髪を触っている。
私は指で髪を整え、抱いていた身体を長椅子へ座らせ直した。
ちょうどその時、扉が叩かれた。
侍従の声に続いて、父上と母上が部屋へ入ってくる。
母上は長椅子に座るリーネを見ると、すぐに近くまで来た。
「目を覚ましたのね。疲れてはいない?」
リーネは母上を見上げ、少し遅れて首を横へ振った。
眠気は残っているが、朝から歩き続けていた時より顔色もよい。
父上も、目を覚ましたリーネの顔を見てから私へ向き直った。
「よく眠っていたようだな」
「ああ。葉を預かった後、すぐに」
父上が頷くと、母上は寝起きのリーネの頬へかかった髪をそっと避けた。
「元気なら、リーネに見せたい部屋があるの」
「みせる?」
「ええ。リュセルが小さかった頃に使っていた部屋よ」
リーネが私を見上げる。
「りゅー?」
「私の昔の部屋だそうだ」
わざわざ見せるほどの物が残っていた覚えはない。
だが、リーネは長椅子から下りようとして、もう足を床へ伸ばしている。
私はその身体を抱き上げ、父上と母上の後に続いた。
王城の奥へ進み、見覚えのある曲がり角へ来たところで、母上の行き先が分かった。
私が幼い頃に暮らしていた区画だ。
「本当に、まだ残していたのか」
「全部ではありませんよ」
母上は当然のように答え、古い扉を開けた。
中の家具は、私の記憶にあるものより少なくなっていた。
寝台も棚も新しい物へ替わっている。それでも窓の位置と、その近くに置かれた小さな書き机は変わっていない。
窓の向こうには、王城の大樹から伸びる太い枝が見える。
その先には湖があり、さらに遠くには世界樹の幹が立っていた。
幼い頃の私は、寝台よりもこの窓と机の近くにいることが多かった。
外で何かが動けば窓へ寄り、見えなくなる前に机へ戻って書く。その二つが近い方が都合よかったのだ。
私が机へ目を向けると、腕の中のリーネも同じ方を見た。
「ここで、リュセルは毎日のように何かを書いていたのよ」
母上が教えると、リーネは私を見上げ、それからもう一度机へ顔を向けた。
床へ下ろすと、まっすぐ机へ向かい、天板の縁へ両手を置いた。
幼い私にはちょうどよかった高さも、今のリーネにはまだ胸より上にある。
背伸びをして机の上をのぞこうとするので、私は後ろから身体を支えた。
「何もないぞ」
リーネはそれでも一度、中をのぞいてから足を下ろした。
母上は机の脇にある棚を開き、薄い記録帳を数冊取り出した。
表紙の擦れ方には覚えがある。
「それも残していたのか」
「あなたが置いていったものですもの」
差し出された一冊を開く。
今の私なら一行で済ませる観察が、頁いっぱいに書かれていた。
空を横切った光の数、見えた順番、途中で二つに分かれたこと。文字の横には、精霊を表した不揃いな丸まで並んでいる。
知っている言葉だけでは足りなかったのか、一つの動きを何度も書き直していた。
消した跡の上から線を重ね、文字のそばには窓から見えた枝の形まで描いてある。
読みにくいが、何を残したかったのかは分かる。
見たものを忘れず、次に同じものを見た時、前との違いを比べるための記録だ。
「これは、かなり初めの頃の記録だな」
「その続きを覚えているか」
父上が、開いた頁を横からのぞき込んだ。
記録そのものではなく、その日に起きたことを尋ねている。
「窓から見えた精霊がどこへ行くのか、見届けに行った」
「誰にも告げずにな」
「声をかけている間に、見失うところだった」
窓の外には、この大樹から伸びる太い枝があり、幼い私はそこへ出て、枝から枝へ移る精霊を追った。
日が傾く前には戻ったが、その間、城にいた者たちは私を捜していた。
「部屋が空だと分かってから、何人が動いたと思っている」
「最初から窓の外を捜せば、もっと早く見つけられたはずだ」
「窓が開いていたから、外も捜した。だが、お前は見える範囲にはいなかった」
「精霊が移動したからだ」
「だから追うなと言っている」
父上の眉間には、当時と同じ皺が寄っていた。
私にも当時の判断を変える理由はないし、あそこで戻ればこの記録は途中で終わっていた。
「日が暮れる前には戻った。それに、記録した数も進んだ方角も間違ってはいない」
「お前を叱ったのは、記録が間違っていたからではない」
父上の返事は、昔と同じだった。
「帰ってきたあなたは、謝るより先に、その帳面を私たちへ見せたのよ」
母上が笑いながら、私の手元を指した。
「必要な記録だったからだ」
「ええ。あの時も、同じことを言っていました」
母上の笑みが深くなる。
父上まで口元を緩めているのが気に入らず、記録帳へ目を戻した時だった。
リーネは頁に並ぶ不揃いな丸へ触れた後、机を離れて窓の前へ向かった。
窓の外を行き来する精霊を追ってリーネが窓枠へ手を伸ばしたため、私は記録帳を母上へ渡し、すぐにその身体を抱き上げる。
「外へは出ない」
リーネは窓枠から離されると、不思議そうに私を見た。
窓枠に触れたかっただけかもしれないが、窓を開いてからでは遅いのだ。
すると背後で、母上が声を立てて笑った。
「何だ」
「あなたがそれを言うのね」
「私は一人で枝を歩ける年齢だった。リーネはまだ――」
「私も、お前なら歩けることは知っていた」
父上まで話へ入ってくる。
「では、なぜ止めた」
「何も言わずにいなくなったからだ」
「それと、リーネが窓へ触れるのは違う」
「そうだな」
父上はそう答えたが、母上と同じ顔で笑っていた。
腕の中から小さな指が伸び、窓の外を示した。
「きらきら」
枝先で遊んでいた精霊が、午後の光を受けていた。
私は反論をやめ、リーネが窓へ寄りすぎない位置で抱き直す。
「あれは精霊だ。今も、この辺りには多い」
「ふぃる?」
「フィルネではない。だが、同じ風の精霊だ」
リーネは光を目で追い、私の胸へ片手をついた。
もう片方の手は、母上が持つ記録帳へ向いている。
私は窓際の長椅子へ腰を下ろし、リーネを膝に座らせた。
母上から帳面を受け取り、先ほどの頁をもう一度開く。
「これは、今の精霊とは別の群れだ。七ついた」
頁には、丸が七つ並んでいる。
リーネは私の説明を聞きながら、一つずつ指先で触れていった。
途中で二つに分かれている線へ来ると、窓の外を見てから、また頁へ目を戻す。
六つ目まで数えたところで一度戻り、今度は最後の丸へ触れた。
父上と母上は向かいの椅子へ座り、何も言わずにこちらを見ていた。
リーネが次の頁へ指をかける。
私はその小さな指を挟まないように、古い記録帳をゆっくりめくった。
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