第102話 リーネが受け取ったもの
重ねた手に、葉から何かが伝わってくることはなかった。
リーネは掌の一枚を眺めてから私の顔を見て、私が手を添えていることに気づくと、葉を載せた左手を少し持ち上げた。
自分のところへ来たものを、私にも見せようとしているだけだ。
前庭のどこかで、リーネ、と名をなぞる声がした。
精霊王がそう呼んだのだと応じる声へ、あの人間の子はリーネというのか、と驚きが重なる。
誰も大声は出さない。だが、一度口にされた名は、声を抑えたまま周りの者へ渡っていった。
前庭の手前から奥へ、リーネという名だけが少しずつ増えていく。
昨日まで、前庭の者たちにとって、リーネは私が連れている人間の幼子だった。
今は、精霊王が公に名を呼び、世界樹の葉を受け取った者として見られている。
当のリーネは、自分の名が広がっていることより、掌の上にある葉へ夢中になっている。
縁を指先でなぞろうとして、私が下から支えていることに気づくと、またこちらを見る。
前へ出てきた父上が、私たちのそばまで来た。
父上は世界樹の葉を見下ろしたまま、すぐには口を開かない。
やがてリーネへ顔を向け、そのまま私と目を合わせる。
「リュセル。その葉はどうする」
祭司へ渡せとも、王家で預かるとも言わなかった。
当然だろう。
世界樹から葉が落ちたこと自体、この場の誰にも覚えがない。決まった扱いなどあるはずもなかった。
私は、もう一度リーネを見る。
幼い掌は開かれたままだ。
私へ見せてはいるが、手放そうとはしていない。
ならば、答えは決まっている。
「リーネが受け取った。なら、リーネのものだ」
父上はすぐには返さず、私の手に載る小さな掌と、その上の一枚を見ていた。
この国の王である以上、何の前例もない一枚を前に、王家や社がどう関わるかを考えずに済ませることはできない。
同時に、リーネが世界樹の前まで自分の足で歩き、私と一緒に葉を捧げ、この一枚を受け取るところまで初めから見ていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
母上は父上の隣で、葉を持つリーネへ目を細めた。
何かを言って聞かせることも、手を差し出すこともしない。
父上の返事を聞いても、ネフェリアや奉納台の近くにいた祭司たちは手を差し出さない。
世界樹の葉は、リーネの掌に残った。
精霊王が私たちの前まで来る。
先ほどは葉をのぞき込んでいたが、今度はリーネの顔を見ていた。
自分にも分からないものを、分かったように語るつもりはないのだろう。
「また会おう、リーネ」
呼ばれたリーネが顔を上げる。
リーネはしばらく精霊王を見ていた。
それから、私の指を握っていた右手を離し、小さく振る。
「また」
精霊王の口元が、わずかに緩んだ。
その言葉は、祭りの二日目にエリルと別れた際に覚えたものだ。
精霊王がどのような存在かを理解していなくとも、もう一度会うための言葉だということは覚えている。
前に会った時には知らなかった名を呼び、今度は次に会う言葉を交わしている。
十年に一度の大祭で、精霊王とこのような別れ方をした者も、おそらくリーネが初めてだろう。
精霊王は私へ向き直った。
何か言われるかと思ったが、結局は何も言わない。
代わりに、リーネが振っている手へ自分の手を上げた。
リーネがもう一度大きく手を振ると、その身体を形作っていた輪郭が淡い光へ戻り始める。
長い髪も、顔も、差し出していた手も光の中へ溶け、世界樹の前に一つの輝きだけが残った。
光は次第に細くなり、木漏れ日に紛れていく。
精霊王がいなくなった後も、しばらくは誰も動かなかった。
やがて、前庭の奥で誰かが息を吐く。
張り詰めていたものが解けたように、声と物音が少しずつ戻ってきた。
それでも、私たちへ近づく者はいない。
人々は葉を見ようとしながらも道を空け、時折、リーネの名を口にした。
世界樹の葉を受け取った子だという囁きへ、別の者がリーネ様だと名を添える。
精霊王が一度呼んだ名は、私たちが前庭を出るより先に、ここへ残る者たちへ覚えられていた。
私はリーネを抱き上げた。
左腕で身体を支え、右手を葉の下へ添える。
リーネは腕の中へ収まっても、世界樹の葉から手を離さなかった。
父上と母上に続いて前庭を離れる間も、幼い掌の上には一枚が残っていた。
◇
王城の部屋へ戻る頃には、リーネは何度も目をこすっていた。
扉が閉まると、前庭を埋めていた視線も名を呼ぶ声も遠ざかり、窓の外に祭りを終えた街の音だけが残る。
朝から祭りの衣装で大勢の中を歩き、精霊王とも話し、世界樹から落ちてきた葉をずっと持っていたのだ。
疲れない方がおかしい。
私は長椅子へ腰を下ろし、リーネを膝に座らせた。
収納空間から、まだ何も包んでいない布を一枚取り出し、膝の横へ広げる。
「手を見せろ」
リーネが葉を持っていない右手を先に上げる。
「そちらではない」
言うと、今度は左手を持ち上げた。
世界樹の葉も一緒についてくる。
「葉はここへ置け」
私が布を示すと、リーネは左手をその上まで運んだ。
掌を傾け、葉が布へ移ったのを見届けてから手を上げる。
掌にも指にも、社で確かめた時から変化はない。
頬の色も、呼吸も普段どおりだ。
左手をそっと裏返して見ている間に、リーネはまた一つあくびをした。
「眠いか」
「あい」
返事をした直後、身体が私の胸へ預けられる。
眠いことを除けば、いつものリーネだった。
葉を布の中央へ置いても、光は出なかった。
声も聞こえず、形や色にも変化はない。
社を出た時と変わらず、葉はただ布の上に横たわっている。
精霊王にも分からないものを、今ここで考え続けても答えは出ない。
今必要なのは、なくさずに預かることだ。
「リーネ」
眠りかけていた顔が上がる。
「この葉は、私が預かるか」
すぐには返事がなかった。
リーネは布の上の葉へ手を置く。
細い葉脈に沿って指を動かし、端まで触れると、もう一度最初の場所へ戻した。
私の問いが分からなかったわけではない。
眠りかけていた目は、私ではなく葉を見ている。
自分のところへ来たものを手放してよいのか、幼いなりに考えているのだろう。
私は急かさず、リーネが決めるのを待った。
やがてリーネは葉の茎をつまんだ。
片手では持ちにくかったのか、もう片方の手も添える。
両手で持ち上げた一枚が、私の前へ差し出された。
「りゅー」
「ああ」
私が掌を開くと、リーネはその上へ葉を載せた。
社では、私がリーネの掌を下から支えた。
今度は、リーネの手から私の手へ渡される。
「なくさない」
リーネは葉を見た後、私を見上げた。
「うん」
私は茎が折れないよう形を整えて葉を布で包み、開かないよう端を重ねて収納空間へ収めた。
包みは他の荷と同じように中へ収まり、空間を閉じると、リーネは葉が消えた場所を見ていた。
やがて、何も持っていない私の右手へ顔を向け、小さな手を伸ばしてくる。
今度は葉ではなく、私の人差し指を握った。
そのまま、リーネは私の胸へ身体を預けた。
まぶたがゆっくり下り、間もなく寝息が聞こえ始める。
指へ伝わる力は、世界樹の前に立つよりも前から知っているものだった。
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