第101話 世界樹から、一枚
父上が席を立ったのは、その少し後だった。
「そろそろ城へ戻るぞ」
母上とネフェリアも席を立つ。
控室で交わすべき話は終わり、精霊王も今度は父上を引き止めなかった。
リーネの前に身を屈めていた精霊王が立ち上がると、リーネはその姿を目で追い、先ほど名前を呼ばれた時と同じように笑った。
精霊王もそれに気づいたが、もう一度話しかけることはせず、小さく頷くだけに留める。
私が歩き出すと、リーネも右手の人差し指を握ったまま、控室へ入る時と同じ歩幅で皆と社の正面入口へ向かった。
戸口の先から、人の話し声が聞こえていた。
大祭の儀式はすでに終わっている。
本来なら、最後の奉納を見届けた者から前庭を離れてもおかしくない頃だ。
しかし今日は、顕現した精霊王が社へ入り、王家もまだ戻っていない。
十年に一度の祭りへ来た者たちなら、精霊王と王家の退出まで見届けたいのだろう。
社の中を横切る間にも、入口の向こうには幾重もの人影が見えた。
祭司たちは正面に道を空け、市民はそのさらに外側で、私たちが出てくるのを待っている。
先に父上と母上が前庭へ出ると、それまで残っていた囁きが消えた。
正面入口へ向けていた者たちが一斉に頭を下げ、その後ろからも人の動きが止まっていく。
精霊王が続くと、下げられた頭はさらに深くなった。
先ほど社の中へ入る前、神威に触れて無意識に跪いた者もいる。
今は立っていても、誰一人としてその姿を正面から見続けようとはしなかった。
私とリーネも正面入口を通り、長い軒が落とす影を抜ける。
頭を下げていた者の何人かが、私たちの足音に合わせてそっと顔を上げた。
帰国した王太子だと気づいた囁きに、昨日、精霊を連れて市を歩いていた人間の子だという声が重なる。
リーネは囁きに振り向かず、前庭の明るさに目を細めただけだった。
私たちの頭上には、社の屋根を越え、前庭の空まで覆う世界樹の枝葉が広がっている。
『世界樹の葉は落ちない』
雨が幾日も続こうと、強い風が国中の木々を揺らそうと、あの枝だけは葉を失わない。
季節が巡り、世界樹より下に生える木々が葉を落としても、その緑は変わらず空を覆い続ける。
一枚を採ろうとしても、通常の物質と同じように切り取ることはできない。
刃も魔法も通らず、枝を折ることも葉を焼くこともできない。
目には樹木と映っているが、土から育つ木と同じものではないからだ。
私は幼い頃から、この国で世界樹を見上げてきた。
長く国を離れていた時期はあっても、戻ってくれば常に同じ緑がそこにあった。
地に落ちた世界樹の葉も、枝から離れる瞬間も、一度として見たことはない。
だから最初は、見間違いだと思った。
高い枝先で、一枚の葉が動いた。
風に揺れたのではない。
周囲の葉が動かぬ中で、その一枚だけがゆっくりと向きを変えている。
葉を支えていた茎が枝から離れた。
深い緑の中から同じ色の一枚が空中へ出る瞬間を、私は確かに見た。
「待て」
私とほぼ同時に気づいた精霊王が、枝を離れた一枚を見たまま片手を上げる。
制止する相手などいない。
それでも、その声からは控室にいた時の余裕が消えていた。
父上が動きを止めると、母上とネフェリアも振り返り、精霊王の視線を追った。
前庭でも、声が届いた者から順に顔が上がる。
何が起きたのか分からないまま近くの者が空を見上げると、その視線を追った後ろの者も枝葉へ目を向けた。
静けさが、正面入口から前庭の外側へ広がっていった。
枝を離れた葉は、すぐには地へ落ちなかった。
表裏を返しながら、前庭へゆっくりと下りてくる。
世界樹の枝から地上までは、決して近くない。
それでも、その一枚を見失う者はいなかった。
最初は、どこへ落ちるのか分からなかった。
だが、葉は父上たちのいる方へも、精霊王のもとへも向かわない。
一度横へ流れ、風に運ばれたように見えた直後、進む向きを変えた。
地面へ近づくほど、私たちの立つ場所へ寄ってくる。
偶然に落ちた葉なら、あり得ない動きだった。
精霊王は下りてくる葉を見たまま、その名を呼んだ。
「リーネ」
凜とした声が前庭へ届く。
控室で私たちだけが聞いた名が、今度は大勢の前で呼ばれた。
その場に残っていた者たちの目が、精霊王から私の隣へ移る。
前庭のあちこちで息を呑む音がした。
それでも、声を上げる者はいない。
リーネは自分の名に気づき、精霊王を見上げた。
その間にも葉は近づき、今では幼いリーネの目にも追える高さまで下りている。
私はリーネの肩へ左手を添えた。
葉に何があるかは分からない。
何か起これば、すぐに抱き上げられる。
だが、熱も魔力の乱れも感じなかった。
葉は急ぐこともなく、私たちの前へ下りてくる。
リーネは精霊王から葉へ顔を戻した。
私の指を握る右手はそのままに、空いている左手を持ち上げる。
小さな指が、ゆっくりと開いた。
世界樹の葉は、差し出された掌へ静かに落ちた。
光は起こらない。
衝撃もなく、声も聞こえない。
葉の重みでリーネの手が下がることすらなかった。
それでも、前庭から人の声が消えた。
十年に一度の大祭を知る祭司も、この国で世界樹を仰いで暮らしてきた者たちも、リーネの掌に載った一枚を見つめている。
父上も母上も、ネフェリアも言葉を挟まない。
つい先ほどまで、皆の視線は精霊王と王家へ向けられていた。
今は精霊王自身まで、世界樹の葉を受け取った人間の幼子から目を離せずにいる。
リーネだけは、周囲が声を失った理由を知らない。
掌の上に来た葉を不思議そうに眺め、もっとよく見ようと顔を近づけた。
私はその前に身を屈め、リーネの左手を確かめる。
葉の触れている掌にも、指にも赤みはない。
呼吸は変わらず、痛がる様子もなかった。
リーネはいつもと変わらない顔で私を見返し、握っていた指へ少し力を込めた。
そこで初めて、掌の上にあるものへ目を向ける。
形も色も、世界樹を覆う無数の葉と変わらない。
表面には細い葉脈が走り、茎の先にも折れた繊維や裂け目は見えなかった。
だが、枝から離れた瞬間を見間違えるはずがない。
精霊王ならば、何か知っているのかもしれない。
私は立ち上がらず、その場から精霊王を見た。
「お前か」
「違う」
精霊王は即座に否定した。
リーネの前まで近づき、掌の上をのぞき込む。
「私も、このようなものは見たことがない」
世界樹について、精霊王より確かな答えを持つ者はこの場にいない。
その精霊王が、知らないと認めた。
前庭では誰も騒がない。
むしろ、その言葉を聞いた後の方が静かになった。
リーネは精霊王を見上げた後、葉を載せた掌をこちらへ向ける。
大勢の視線を気にすることなく、道端で見つけたものを見せるように、私の顔の近くまで葉を持ち上げた。
「りゅー、これ」
「ああ。世界樹の葉だ」
私はその一枚を取り上げず、リーネの掌の下へ手を差し入れた。
先ほどは、大樹の家から持ってきた葉を、二人の手で世界樹へ渡した。
今度は、世界樹から離れた一枚を、リーネの小さな手と、その下に重ねた私の手で支えていた。
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