第100話 私が育てると決めた
精霊王は、リーネが持ち上げた私の指を見た。
先ほどまで抱えていた私の左腕からは離れている。
そのまま身を低くし、リーネと近い高さから顔を合わせた。
リーネは私の右手を握ったまま、隠れようとはしない。
前庭で初めて精霊王を見た時と同じように、正面から見返している。
「リュセル。この子は、お前の子か」
「リーネだ。私が育てている」
「りーね」
自分の名を聞き取り、リーネがもう一度告げる。
精霊王は小さく頷いた。
「そうか。リーネというのか」
リーネは、自分へ返された名に笑った。
精霊王はしばらく、その顔を見ていた。
人の形を取っていても、精霊王が見ているのは外見だけではない。
こうして黙る時は、魂へ意識を向けている。
精霊王が意識を向ければ、魂に表れる血縁由来の類似まで見分けられる。
だが、そこから記憶や考えていることまで読めるわけではない。
やがて精霊王は立ち上がり、私へ向き直った。
「お前とこの子に、血のつながりはないな」
「ああ」
隠すことではない。
リーネは人間で、私はハイエルフだ。
魂を見ずとも、同じ種族の親子でないことは分かる。
「それでも、お前の子なのか」
「先ほど答えた。私が育てている」
精霊王は、すぐには次の問いを重ねなかった。
「どれほどになる」
「見つけてから、一年ほどだ」
精霊王にとっても、私にとっても、一年は長い時間ではない。
それでもリーネは、その一年で大きく変わった。
最初は、自分で首を動かすことさえ難しかった。
それから座れるようになった。
床を這い、自分で立ち上がり、今では私と手をつないで歩く。
声を上げるだけだった口で、名前も、望むことも伝えるようになった。
「お前にとっては、瞬く間であろう」
「ああ。だが、リーネにとっては違う」
「同じ一年でもか」
「同じではない。私の一年で考える理由はない」
「血を分けたわけでもない。種族も違う。お前は人間を嫌っていただろう」
「今も好んではいない」
父上が小さく息を吐いた。
だが、事実なのだから仕方がない。
精霊王は私の答えを否定しなかった。
「では、なぜ人間の子を育てている」
私は、すぐには答えなかった。
出来事の順なら、記録帳を開かなくても言える。
だが、なぜ今も隣にいるのかは、一度も書いたことがなかった。
精霊王も急かさなかった。
リーネは私の指を握ったまま、何も言わずに私を見上げている。
「人間同士の戦で焼けた町にいた」
一度口にすると、次の言葉は出た。
「診療所の瓦礫の下で、女に守られていた。その女はすでに死んでいた。ほかに生き残った者もいなかった」
あの日、私は記録帳へ一度書いた言葉を消した。
生存者なしではなく、生存者一名と書き直した。
その一名が、今は私の隣に立っている。
「そうか」
精霊王は、それ以上は問わなかった。
問いにはもう答えている。
ここで黙ってもよかった。
それでも、私は続けた。
「最初は、近くの村へ預けるつもりだった」
村には、もう一人の赤子を引き取れる者がいなかった。
だから、人間の都市まで連れていった。
あの頃のリーネは、まだ自分で身体を起こすこともできなかった。
泣けば抱き、乳を飲ませ、汚れた布を替える。
その間も、私の髪や外套を何度も掴んでいた。
最初の村では、山羊の乳をそのまま飲ませてよいのかと尋ね、赤子の腹には重いと教えられた。
人間の老婆に調乳してもらい、木の匙で少しずつ飲ませた。
布を巻けばきつすぎると言われ、緩めればすぐに外れた。
眠らせ方も分からず、泣くたびに何が足りないのかを一つずつ確かめた。
「それでも、育てられる者へ渡す方がよいと考えていた。教会へ一度は預けた」
「だが、そこで終わらなかった」
「ああ」
あの時の泣き声は、今も覚えている。
私が離れると風を起こし、抱き戻せばすぐに止まった。
「私が抱き戻した。その時は、しばらく預かるだけのつもりだった」
人の都市で暮らし、育児を知る者たちに手を借りた。
町が騒がしくなれば静かな森へ移り、リーネが暮らすための家を作った。
必要な時には町へ行ける森を選び、人間の使用人が共に暮らせる部屋も作った。
私だけなら必要のなかったものばかりだ。
だが、リーネが暮らす家には必要だった。
「そのしばらくは、いつ終わる」
「終わらない」
答えると、精霊王の眉が上がった。
「この子がお前を離さなかったからか」
私は、右手へ伝わる小さな力を感じた。
リーネは今も私の指を握っている。
かつて私の髪や外套を掴んでいた手より大きくなったが、私ならいつでも外せる程度の力しかない。
この手が離れなかったから、仕方なくここまで来たわけではない。
教会でリーネを抱き戻したのは、私だ。
共に暮らす場所を探すと決めたのも、あの大樹の家を作ったのも、旅へ連れ出し、この国まで連れてきたのも、すべて私だった。
「違う」
精霊王は黙って、私の次の言葉を待った。
「私が育てると決めた。それ以外に理由がいるのか」
しばらく、精霊王から返事はなかった。
「お前が、理由はいらぬと言うのか」
「そうだ」
「四十年前のお前なら、そのようには答えなかったであろうな」
「四十年前には、リーネがいなかった」
「それを、変わったと言うのではないか」
「……ふん。好きに言え」
精霊王は声を上げて笑った。
笑いがおさまると、精霊王は再びリーネの前へ身を低くした。
今度は私ではなく、リーネ本人へ尋ねる。
「リーネ。お前も、リュセルといっしょがよいか」
自分の名と私の名を聞いたリーネは、最後の言葉に反応した。
私の指を握り直し、つないだ手を精霊王へ見せる。
「りゅー、いっしょ」
「ああ。一緒だ」
私が答えると、リーネはもう一度笑った。
精霊王も、その笑顔へ頷く。
「そうか。覚えたぞ、リーネ」
名前を呼ばれたリーネは、私の指を離さないまま、精霊王へ笑い返した。
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