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君を守るたびに、世界が間違っていく  作者: ガチでアジト


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第三話 減っている気がします

 祝福の鐘は、思っていたよりも長く鳴り続けた。


 ひとつ鳴って終わるものではないらしい。高い位置にある鐘楼から放たれた音は、王都の石壁や屋根を伝い、街のあちこちで薄く反響しながら、何度も折り重なるように戻ってくる。最初の一打は鋭く、次第に広がり、最後には街全体がその音を吸って揺れているように感じられた。


 勇者が決まった。


 それを、王都はもう知っている。


 神殿の奥深く、この冷たい広間で告げられた一つの名前が、白い壁を越え、石段を下り、運河を渡り、市場のざわめきの中にまで混ざっていく。


 その事実だけを取り出せば、確かに祝福されるべき朝だった。


 人々は喜ぶだろう。


 安堵する者もいるだろう。


 勇者が選ばれたことで、止まりかけていた何かがまた前へ進み始めるのだと信じる者も。


 けれどアルトには、その鐘の音が祝福よりも、何かを確定させてしまう音に聞こえて仕方なかった。


(……うるさいな)


 大きいわけではない。


 不快な音でもない。


 なのに耳の奥に残る。


 残って、胸の奥にある引っかかりを何度も撫でる。


 消えたものを思い出すたび、それを上から塗りつぶすように鳴り続ける。


 何も起きていない。


 問題はない。


 そう言い聞かせるための音に思えた。


「勇者殿」


 侍者の一人が頭を垂れる。


 白と銀の祭服を着た、若い男だった。年はアルトと変わらないだろう。顔立ちは整っているのに、その表情は妙に薄い。緊張しているのか、それとも儀式の後だからこそ余計な感情を出さないようにしているのか、判別がつかなかった。


「王への拝謁準備が整うまで、控えの間へご案内いたします」


 勇者殿。


 その呼ばれ方に、アルトは一瞬だけ返事を忘れる。


 自分のことだと分かるまで、ほんのわずかに時間がかかった。


(……もうそうなるのか)


 つい今しがた名前を告げられただけだ。


 それなのに、もう“アルト”ではなく“勇者”として扱われる。


 そういうものだと、頭では理解できる。


 だが理解できることと、感覚が追いつくことは別だった。


「……ああ」


 短く返し、アルトは視線を上げる。


 広間の空気は少しだけ動き始めていた。


 侍者たちはそれぞれの配置へ散り、壁際に控えていた騎士たちは一歩だけ重心を緩め、祭壇の周囲を囲んでいた緊張が形式的なものへと変わりつつある。選定の瞬間に張り詰めていたものが、すべてほどけたわけではない。だが少なくとも、ここから先は“決まったあとの手順”なのだと分かる空気があった。


 レイドはすでに広間の端へ下がっていた。


 槍使いの青年――レイド・カルナックは、自分の視線に気づくと、わずかに顔を逸らした。あからさまな敵意ではない。ただ、どう向き合えばいいのか分からない者のぎこちなさがある。


 ミレア・ルーンも同じだった。


 魔術師の少女は、広間の片隅で付き添いの神官から何事かを囁かれ、口元を固くしたまま頷いている。祝福の場にいる人間の顔ではない。悔しさと安堵、そのどちらも中途半端に残っていて、表情の置き場を失っているように見えた。


 ガルドは壁際に立ったまま、腕を組んでいた。


 周囲を見ている。


 相変わらず出口も、人の流れも、侍者の動きも、一つも見落としていない目だ。だがその視線が、時折アルトの方を掠める。


 心配しているのではない。


 様子を見ている。


 いまのアルトが、どこまで余計なことを言い出す気配を持っているのか、測っている目だった。


 そして。


 リゼリアはまだ祭壇の側にいた。


 白い光の下。


 他の誰よりも動かないまま、そこに立っている。


 誰もが少しずつ“儀式のあと”へ移っていく中で、彼女だけがまだ“儀式の最中”に取り残されているように見えた。


(……あの人)


 目を離しにくい。


 綺麗だからではない。


 聖女だからでもない。


 そこにいることが正しいように見えて、その実どこか一つだけ決定的に噛み合っていない。


 そういう違和感が、見るたびに薄く濃くなる。


 レオンハルトが祭壇の前から動く。


 彼は記録具を侍者へ返し、広間を一度だけ見渡した。何かを点検するような、あるいは本当に何かが欠けていないか確かめるような、冷たい視線だった。


「勇者アルト・エルディアス」


 彼の声がまっすぐ届く。


「次の準備に移行します。移動を」


「……その前に」


 アルトは言いかけて、止まる。


 何を聞くつもりだったのか、自分でも曖昧だった。


 あれは何だったのか。


 候補は本当に四人だったのか。


 あるいはもっと単純に、祭壇の奥に誰かいなかったか。


 どれも言葉にすると一気に自分の方が不確かになる気がした。


 レオンハルトは待たない。


「何ですか」


 淡々とした問いだった。


 そこに“説明するつもりはない”という温度だけがある。


 アルトは喉の奥に残った言葉を押し込める。


「……いや」


「そうですか」


 即答だった。


「では移動を」


 何事もなかったように会話を閉じる。


 その態度に、アルトは小さく奥歯を噛んだ。


(この人は、本当に何も思ってないのか)


 それとも思っていて、最初から“そう扱わない”と決めているのか。


 違いは大きい。


 だが、そのどちらかを見極めるだけの材料がない。


「アルト」


 低い声が横から飛ぶ。


 ガルドだ。


「行くぞ」


 アルトはそちらを見る。


「……聞かなくていいのか」


「何をだ」


「さっきの」


「さっきの何だよ」


 ガルドは眉一つ動かさない。


 だがその言葉の切り方が、逆にアルトの中のざらつきを刺激した。


「……いた気がした」


 自分でも情けない言い方だと思う。


 でも、それ以上言えなかった。


 いた。


 それは確信だ。


 けれど“誰が”“どこに”“どう”いたのかを言おうとすると、急に輪郭が崩れる。


「気のせいだ」


 ガルドは短く言った。


「お前、今日そればっかりだな」


「……でも」


「でもも何もねえよ。勇者に選ばれた直後だ。頭が変に浮いてんだろ」


 それだけならいいけどな、と続きそうな口調だった。


 けれど実際にはそこまで言わず、ガルドは視線だけを横へ流した。


 祭壇の向こう。


 石の席の方だ。


 ほんの一瞬だった。


 アルトは見逃さない。


(やっぱり)


 見ている。


 認めたくないだけで、気づいてはいる。


 だがガルドはすぐに視線を戻した。


「今は黙って進め。わざわざ面倒を呼び込むな」


「面倒って何だよ」


「こういうところで“変だ”って言い出すこと全部だ」


 吐き捨てるように言う。


「自分でもはっきり説明できねえもんを口にするときは、大体ロクなことにならない」


 それは経験から出た言葉に聞こえた。


 アルトは返事をせず、ただ息を吐く。


 ガルドの言い分は分かる。


 分かるのに、納得はできない。


 納得できないから余計に口を開きたくなる。


 そのときだった。


「……あなたは」


 リゼリアの声が、小さく広間に落ちた。


 誰に向けたものか分からないほど低い声だった。


 だが近くにいたアルトにははっきり届いた。


 見ると、彼女は祭壇の光の中に立ったまま、視線を少しだけ下へ落としている。


 その先にあるのは、彼女自身の手だ。


「どうした」


 アルトが問いかける。


 リゼリアは一拍遅れて顔を上げた。


 灰青の瞳がアルトを捉える。


「……いえ」


 いつもの返しだ。


 けれど、そのあとに言葉が続かない。


 珍しい、とアルトは思う。


 彼女は言い直すことはあっても、最終的には必ず“正しい形”の言葉へ戻る。それが、今は戻りきっていないように見えた。


「本当に何でもないのか」


「はい」


 答えてから、彼女はわずかに目を伏せる。


「……確認できていません」


 やはりそう来る。


 だが今回は、その言い方に微かな揺れがあった。


 初対面のときから感じていた“言葉を選び直す癖”とは別の、もっと生々しい揺れだ。


「何をだ」


 アルトが聞くと、彼女はほんの少しだけ、指先を握り込んだ。


 白い指が衣の上で細く強ばる。


「私が」


 そこで止まる。


 アルトは待つ。


 リゼリアは自分の言葉に、自分で躓いているようだった。


「私は……」


 また止まる。


「……減っている気がします」


 小さな声だった。


 聞き間違いかと思うほどに。


 だが確かにそう言った。


 減っている。


 その言葉が広間の冷たい空気の中に落ちた瞬間、アルトの背中を冷たいものが走る。


「減ってる?」


「はい」


 一拍。


「……いえ」


 彼女は首を振る。


 その動きは弱かった。


「違います。問題ありません」


 戻そうとする。


 いつものように。


 自分の言葉を“正しい形”に修正しようとする。


 だがアルトは、その前の言葉の方を聞いてしまった。


 減っている。


 何が。


 存在がか。


 記憶がか。


 それとももっと別の、言葉にしようとした時点でぼやける何かが。


「どういう意味だ」


 問うと、リゼリアは少しだけ困ったように眉を寄せた。


 その表情はほんの一瞬だけだったが、アルトには鮮明に見えた。彼女にも分からないのだ。分からないまま、自分の中にある違和感を口にしかけている。


「同じ言葉を、さっきも考えました」


 静かに言う。


「どこで?」


「……分かりません」


「分からないのか」


「はい」


 また一拍置く。


「気づくと、そう思っています」


 気づくと。


 その言い方が嫌だった。


 自分で選んでいるのではない。ある時点で、もうそうなっている。そんな響きがあったからだ。


「リゼリア様」


 レオンハルトがこちらへ歩み寄ってくる。


 足音は規則的で、まるで石床の方が彼に合わせて鳴っているようにさえ聞こえる。


「拝謁前の確認を行います。勇者と聖女は上層へ」


 彼はそこでアルトの方を一瞥した。


「私語は移動後に」


 私語。


 そう切られると、さっきまでの会話がひどく小さく、取るに足らないものに感じられる。


 だが、アルトには違った。


 “減っている気がします”。


 その一言だけで、先ほどまで曖昧だった違和感の形が少し変わった。


 五人目が消えた。


 そのことは、もうほとんど思い出せない。


 思い出せないのに、引っかかりは残る。


 そして今度は、リゼリア本人が“減っている”と言った。


 それは関係があるのか。


 偶然なのか。


 分からない。


 だが、分からないまま放っておいていいものではない気がした。


 リゼリアが歩き出す。


 アルトも後を追う。


 祭壇の脇を抜け、長い回廊へ向かう。


 歩きながら、彼はもう一度だけ後ろを振り返った。


 選定の間。


 高い天井。


 細い光。


 四つの席。


 何も足りないようには見えない。


 なのに、見ていると胸の奥がきしむ。


 足りないのではない。


 削られたあとだけが、うっすら残っている。


 そう思った。


 回廊に出ると、広間よりは少しだけ人の気配が近くなった。


 白い壁に沿って侍者たちが控え、遠くで扉の開閉する音がする。細い窓から差し込む光の筋はまっすぐで、そこに浮かぶ塵は、やはりゆっくりとしか落ちない。


 普通なら落ち着くはずの空間だった。


 静かで、整っていて、神殿らしい厳かさがある。


 それでもアルトには、さっきまでの広間と同じように、どこか現実味が足りなかった。


(……ここもだ)


 何かが均されている。


 整えられている。


 その整い方が、人の都合ではなく、もっと大きな側の都合に見える。


「歩幅を合わせてください」


 先導する侍者が振り返らずに言う。


 アルトはその背中を見る。


 白い祭服の裾、揃いすぎた歩幅、規則正しい靴音。


 ふと、思う。


(この人たち、本当に最初からここにいたのか)


 変な考えだった。


 失礼ですらある。


 だが、今の自分はもう、そんなことを自然に考えてしまうところまで来ていた。


 誰が最初からいて、何が最初からなかったのか。


 それを、どうやって確かめればいい。


 歩く。


 白い回廊を。


 リゼリアの少し後ろを。


 彼女の背中は細く、静かだった。


 静かすぎるほどに。


 その輪郭が時折、光の中でほんのわずかに曖昧になる。


 見間違いかもしれない。


 そう思う。


 だが今はもう、その“見間違いかもしれない”という前提自体が信用できなかった。


「リゼリア」


 思わず呼ぶ。


 彼女は一拍遅れて振り返る。


「はい」


「……さっきの」


 減っている気がする、という言葉を言いかけて、やめる。


 侍者もレオンハルトもいる。


 ここで聞くべきではない。


 だが黙るには、もう気になりすぎていた。


「何ですか」


 リゼリアは静かに待っている。


 アルトは一度だけ息を吐き、言葉を選んだ。


「あとで、聞いてもいいか」


 それだけだった。


 リゼリアは少しだけ目を伏せる。


 また一拍。


「……はい」


 そして続ける。


「覚えていれば」


 アルトは思わず足を止めかける。


 覚えていれば。


 何気ない言葉のはずなのに、その一言がひどく重く響いた。


 リゼリア自身が、自分の言葉を後で覚えていない可能性を、当然のことのように含んでいる。


(……普通じゃない)


 そんなことはもう分かっている。


 分かっているのに、実際に言葉として聞かされると、胸の奥が鈍く痛んだ。


 リゼリアはそれ以上何も言わず、また前を向いて歩き始める。


 アルトは遅れてその背中を追う。


 白い回廊の先に、上層へ続く螺旋階段が見えていた。


 段は狭く、手すりは細い銀細工で飾られている。上へ行くほど光が薄くなり、逆に壁の白さだけが強くなっていくように見える。


 王への拝謁。


 勇者としての登録。


 祝福の儀の続き。


 これから進むべき手順は山ほどある。


 だがアルトの意識は、どうしてもそこへ向かない。


 向かう前に、胸の奥の引っかかりが全部を止める。


 消えたもの。


 減っているもの。


 覚えていられないもの。


 それらが全部、どこかで繋がっている気がしてならなかった。


(わからないけど)


 思う。


(……でも、違う)


 何が違うのか、まだ言えない。


 言えないまま。


 それでも、その違和感だけは確かだった。


 階段の一段目に足をかける。


 金属の手すりは冷たかった。


 上へ。


 勇者として進むはずの道なのに、アルトにはその先にあるものが、祝福よりも先に喪失へ繋がっているように思えた。


 そしてその感覚を、たぶん自分だけではなく――


 リゼリアも、どこかで共有している。


 その確信だけが、まだ消えずに残っていた。

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