第84話 「灰の英雄」
瘴気に覆われた広間に、金属が打ち合う甲高い音が響き渡った。
黒き影が振るう剣閃を受け止めながら、リアンは荒い呼吸を抑え、深く息を吐き出す。刃を伝って全身へ重圧が走る。肩から腕にかけて軋むような痛みが広がるが、それでも――先ほどまでのように押し潰されるだけではない。
(……見える。動きが――)
靄が揺らぐ一瞬、剣を振り抜く前の溜め、地を蹴るわずかな予兆。
風を巡らせたことで、空気の流れを通じて敵の動きを読み取ることができる。
「落ち着いて……見えてるなら、いける」
サラの声が響く。
リアンは無言で頷き、歯を食いしばった。
再び振り下ろされる刃。リアンは短剣に風を纏わせると同時に、身体全体に渦を張り巡らせた。見えない風の防壁が周囲を震わせ、影の剣圧を削ぎ落とす。
衝撃は胸を突き抜けたが、命を奪うほどの重みではない。
「――っぐ!」
呻きが漏れ、足が岩を擦った。だが、倒れ伏すことはなかった。
以前ならその一撃で地に叩き伏せられていたはず――だが今は、立っている。
「そう、それでいい。潰されるんじゃなく、流すの」
サラの声に微かな笑みが混じる。
間髪入れず、影の二撃目が迫る。鋭い軌跡が靄を裂き、空気を唸らせる。
リアンは反射的に刃を受けると同時に、風を背へと走らせた。押し流される力に逆らわず、衝撃を緩衝材のように受け止める。
次の瞬間、岩壁へと叩きつけられた。だが、背中に走る痛みは思ったほど深くはない。風が衝撃を吸い込み――岩壁直前でそれを食い潰す。
肺から荒い息が漏れる。それでも――立ち上がることができた。
息を荒げながらも、再び構えを取ったリアンを見て、サラが口元を吊り上げる。
「……いいじゃない。上手に使えてるわね」
「……まだ、止まれない……!」
金の瞳は愉快そうに細められ、彼女の声には戦場を楽しむかのような熱が混じっていた。
リアンは額に流れる汗を拭う余裕すらなく、左手の短剣を締め直す。
胸の奥で紋章が熱を帯び、風がざわりと応える。
確かに――今、己の意思は風と繋がっていた。
瘴気が渦巻く広間に、再び影の英雄が剣を構え直した。
黒い靄が鎧の隙間からじわりと溢れ出し、握られた剣にまとわりつく。
その姿は崩れかけてなお強靭で、わずかな動きひとつにも鋭い殺気が宿っていた。
「……くる。まだ終わる気がない」
「当然よ。“英雄”ってのは、負けを知らない生き物だから」
リアンは深く息を吸い込み、肺の奥に冷たい空気を満たした。
(……防ぐだけじゃ、いずれ押し潰される。だったら――攻める!)
足元から立ち上がる風を、全身に巡らせる。
腕へ、刃へ、そして脚へ。循環を描きながら流れる風は血潮に重なるように脈打ち、筋肉を押し上げ、身体そのものを軽くしなやかに変えていった。
「リアン、踏み込むときは迷うな!」
「わかってる!」
次の瞬間、影が床石を弾くように蹴った。靄を裂いて踏み込む速度は矢のように鋭く、黒い残光を伴う斬撃が斜めに振り下ろされる。
柄から肘、肩へ視線を這わせ――刃が落ちる直前、靄が一拍だけ凪ぐ。そこが“溜め”だ。
リアンは退かなかった。逆に、地を蹴って正面から踏み込む。
短剣を薙ぎ払う――瞬間、纏わせた風が爆ぜ、衝撃波となって前方へ奔った。
空気を断ち割る音とともに、濃密な靄が裂け、影の剣閃をわずかに逸らす。
開いた懐に踏み込み、全力で短剣を突き上げる。
「――はあああッ!」
刃先に宿した渦が唸りを上げ、影の鎧を貫いた。
黒靄が爆ぜ、断末魔の振動が床石を軋ませる。
影は苦悶に身をよじり、重い足取りで後退していく。
「やったか……?」
「まだよ、油断しない!」
リアンは肩で大きく息をつきながらも、決して瞳を逸らさなかった。
荒い呼吸の奥には確かな手応えが宿り、胸を強く打つ鼓動とともに声が漏れる。
「……やれる。俺は……!」
その背中に、サラの笑いが低く響いた。
「ふふ……いいじゃない。その調子よ。攻めて、押し返しなさい――!」
その言葉と呼応するかのように、紅の鳥が羽ばたいて輝きを増し、銀のツバメが鋭く空を切った。
二羽の幻鳥は風を導き、彼の刃をさらに研ぎ澄ませる。
光と風が絡み合い、広間の瘴気を押し返していく。
その刹那、リアンは確信した。――恐怖に押されるのではなく、己の力で踏み込んでいると。
執念はなお燃えている、裂けた鎧に瘴気がまとわりつき、四散した肉は靄を啜って輪郭を取り戻す。
広間の空気ごと吸われ、中心に黒い渦。
「……再生してる。瘴気そのものを喰ってるのか」
「執着の形よ。終われない者ほど、こうなる」
リアンは肩で息をつきながらも短剣を握り直した。
手の中の刃は汗で滑りそうになるが、指先に込めた力は緩めない。
(……このまま押し切ろうとしても、体力的に不利だ。斬って散らし、その隙に浄化で削るしか……)
「考える前に、感じて動け!」
サラの声が飛ぶ。
「……ああ!」
思考が形を結ぶより早く、影が靄を裂く一歩で距離を潰す。
残光を引き裂きながら一直線に迫る。
その踏み込みに迷いはなく、振り下ろされる剣閃は大地をも断ち割る勢いだった。
「――っ!」
リアンは反射で身を逸らす。足へ風を巡らせ、軌道を滑らせるようにかわす。衣が裂かれるほどの剣閃が頬を掠め、冷たい汗が背筋を伝った。
「リアン、下がるな! 前へ!」
「分かってる、サラ!」
だが――英雄の影は、すでに次の一手を打っていた。巨躯が捻じれ、振り抜かれた脚が雷鳴のように唸りを上げる。
「ぐっ――!」
蹴撃が直撃し、リアンの身体は宙へ弾き飛ばされた。
肺を押し潰す衝撃に喉が詰まり、視界が白く瞬く。
それでも彼は歯を食いしばり、咄嗟に風を背に流した。
渦巻く気流が衝撃を受け止め、岩壁直前、風が衝撃を噛み砕いた。
骨に響く痛みは走ったが、致命の一撃にはならなかった。
「立て、リアン!」
サラの声が再び響く。
その声に背を押されるように、彼はごろりと転がり、踵で床を噛んで立ち上がった。
胸は焼けるように熱く、腕は震えている。それでも短剣を手放すことはしなかった。
その様子を見ていたサラは、大剣を肩に担いだまま口元をにやりと吊り上げた。
「……さすが“英雄”と呼ばれただけあるわね。ちゃんと対応してくるなんて」
その声音には揶揄めいた響きが混じっていたが、金の瞳は真剣に輝いていた。
影の執念とリアンの奮闘――二つを同時に見据え、興味と期待を込めた光を宿していた。
「サラ……俺は……導けると思うか?」
「思うわ。だからこそ立ってるんでしょ?」
その一言に、リアンの呼吸がわずかに整う。
彼は視線を影に戻し、足元の風を感じ取る。
(……次こそ、斬った瞬間に“導く”。執着に囚われた魂を、安らぎへ……!)
紅の鳥が羽ばたき、灯火の光を広間に散らす。
銀のツバメが旋回し、風を切り裂いて道を拓く。
その加護の中で、リアンの紋章はさらに強く脈打ち始めていた。
その輪郭がさらに濃さを増し、胸元を斜めに切り裂く。
剣先に絡みつく瘴気は鋭さを極め、黒い靄は呼吸すら許さぬほど重く広間を満たし、空気そのものを押し潰す圧迫感を放っていた。
「来るわよ、リアン」
「分かってる。次で――決める!」
刃先が静まる。心拍だけが聞こえる。
リアンは短剣を握り直し、胸の奥から熱を引き上げる。
(……次だ。斬り裂いた瞬間――必ず浄化を流し込む!)
刹那、影が爆ぜるように地を蹴った。
疾風のような踏み込み、黒い剣閃が空気を切り裂き迫る。
リアンは風を脚へ走らせ、体をふわりと浮かせるようにして受け流す。
その勢いを利用し、逆に前へと踏み込んだ。
「はああッ!」
短剣に纏わせた渦が唸りを上げ、胸元を斜めに切り裂く。
黒い靄が弾け飛び、輪郭が一瞬崩れた。
その隙を逃すものかと、リアンは右手を突き出す。
紋章が眩く輝き、導きの光が奔った。
「還れ――ッ!」
導きは断罪じゃない。帰路を開き、背を押すだけだ。
広間を震わせるほどの光に、影が呻き声を上げる。黒い靄が激しく震え、内部から縛られた魂の気配がにじみ出る。あと一歩――。
だが、その一歩が遠い。
影の剣が唸りを上げ、大地を砕くように振り下ろされた。瘴気が奔流となって光を押し返し、衝撃が広間の骨組みを鳴らす。
「……っ!」
リアンは咄嗟に飛び退いたが、肩口を掠めた衝撃が壁へ叩きつける。
岩が軋む音とともに肺から空気が抜け、導きの光は霧散して消えた。
崩れかけた影はなお踏みとどまり、靄を絡めて輪郭を再び繋ぎ止める。
瞳孔のない黒い目が、執念にも似た眼差しでリアンを射抜いた。
その姿を前に、サラが大剣を持ち直す。
金の瞳を細め、口の端を吊り上げた。
「……やっぱりね。ただ斬っても、ただ導こうとしても終わらない。これが“英雄”と呼ばれた者の執着よ」
膝が笑う。それでも視線は落とさない。
握りの汗が柄を滑る。親指で位置を正し、指にもう一度、力を通す。
リアンは肩で荒く息をし、額から汗を滴らせながら短剣を握り直す。
(……それでも……導く! 何度だって――!)
深く息を吸い込み、瞳に宿る光を消さずに影を見据えた。




