第83話 「瘴気に沈む英雄」
瘴気に沈む広間。
竜の亡骸の傍らに突き立つ一本の剣へ、リアンはゆっくりと歩みを進めていた。
靄を裂くように姿を晒すその刃は、すでに朽ち果て、錆と風化に覆われている。それでも、周囲の空気を圧し潰すような存在感を放ち、リアンの胸をざわつかせた。
(……この剣に、魂が縛られている……)
喉がひとりでに鳴る。リアンは短く息を呑み、唇を引き結んだ。
「……確かめる。触れて、導く」
導き手として、触れなければならない。
意志より先に、右手が柄へ伸びる。
だが――指先が触れようとした刹那。
「リアン、下がって!」
サラの鋭い声が、瘴気を切り裂いた。
「っ――!」
反射的に身を引いた瞬間、剣を中心に靄がうねりを上げる。
瘴気が吸い寄せられるように集まり、絡みついた。まるで、そこに縛られた魂を啜り、力へ変えていくかのように。
「空気が……重い」
「息を浅く。胸で吸わない。喉で小刻みに」
空気が唸る。広間そのものが圧してくる。
呼吸するだけで肺が冷え、鼓動の音が耳の内側で鳴り響いた。
その渦の中心――揺らめく影が浮かび上がる。
輪郭は定まらず、煙のように揺れながらも、人の形を模していく。導く者が紡いだ影に似てはいるが、それは導きの光ではない。魂の残滓が凝り固まり、縛りと執着の形を取った仮初めの姿だった。
ゆらりと手が伸び、突き立った剣に触れる。
瞬間――錆に覆われていた刃が震え、音を立てて剥がれ落ちた。
時が巻き戻るかのように、失われた輝きが蘇る。鋭い光を帯びた刀身が、広間の靄を切り裂いて照らした。
「……息を吹き返した、みたいだ」
「剣が覚えてるのよ。斬った数も、倒れなかった理由も――全部」
鈍色の残骸から解き放たれた剣が、まだ震える。
戦場の記憶そのものを呼び覚ますように。
揺らめく影が剣を抱くように形を成す姿を前に、リアンは息を呑んだ。
(……導く者の“影”に似てる。けど――)
慰めや安らぎではない。絡みつく瘴気と未練が、そのまま刃になっている。違いは、明白だ。
サラが横目で見やり、口の端を鋭く吊り上げる。
「なるほど。自分の獲物を取られたくない、って顔ね」
「……どうして、ここまで……」
「“終われない”からよ。単純で、厄介」
金の瞳が影を射抜く。興味と警戒が交錯する光。
「で、リアン。どうする?」
「決まってる。導く。……俺の役目だ」
静かな決意が、声に芯を通した。
サラは一瞬だけ目を細め、すぐに笑む。
「いい子。――じゃ、戦ってみる?」
「相手は“英雄”なんだろ。強いに決まってる」
「ええ。だから、手は抜かないこと。私も遊ばない」
リアンが頷くと、サラは肩を回し、指を弾いた。
「なら、この子たちを貸すわ」
彼女の背からふわりと光が生まれる。銀に煌めくツバメと、紅に燃える鳥。二羽の幻鳥が舞い出し、羽ばたくたびに瘴気を押し払った。
「守るわ。前だけ見て」
「助かる」
柔らかな光が脈打ち、リアンの紋章と共鳴する。幻鳥は彼の周囲を旋回し、輪を描いて守護を告げた。
左手の短剣を握り直し、胸に満ちる鼓動を覚悟へと均す。
「……来るわよ」
「いつでも」
瘴気が渦を巻き、影は完全に人の形を取った。黒い靄で構築されたその姿は重厚な鎧を纏う。紋は読めないが、戦場の意匠だ。握る剣は朽ちたはずなのに鋭い光を帯び、立つだけで空気が震える。
――次の瞬間。
影が爆ぜるように地を蹴った。
「速いっ――!」
異様な踏み込み。振り下ろされた一撃は、岩盤を裂く鋭さを孕む。
リアンは咄嗟に短剣を構え、風を纏わせて受け止めた。
甲高い衝撃音が広間を揺るがし、刃と刃の摩擦から散る火花が瘴気を裂く。圧力は全身を突き抜け、膝が岩にめり込む。
「ぐっ……!」
「力で押すな、いなせ。流れで受ける!」
「わかってる、けど――重い!」
「下がれ!」
サラの声に従い、リアンは足元に風を流し込み、滑るように後方へ退いた。靄が舞い、呼吸が一瞬途切れる。
影は即座に追う。剣閃が残光を引き、黒い靄を裂いて真一文字に迫る。
「右――!」
サラの合図と同時に、リアンは短剣を逆手に握り直して横へ跳ぶ。すれ違いざま、風を纏わせた刃で薙ぎ払った。
衝撃波が靄を裂き、影の体勢をわずかに崩す。そこへ踏み込み、連撃――。
――手応えが浅い。
「……通らない……っ」
裂け目は黒靄に呑まれ、瞬時に輪郭を戻す。
(瘴気が本体……切断だけじゃ足りない!)
思考の刹那、影の剣が横薙ぎに走る。
「伏せて!」
空気が裂け、広間が震える。リアンは身を伏せ、頭上をかすめる剣閃を回避。直後、岩壁が叩き割られ、石片が四散した。
「ふふ……いいわね!」
サラはにやりと笑い、声を張る。
「食らいついて! “英雄”の残滓は、半端じゃ落ちない!」
「やる――!」
リアンは呼吸を整え、胸の奥で紋章の脈を掴む。
紅の鳥が灯火の軌跡を描き、銀のツバメが旋回。羽ばたきが風を導き、リアンの身体に“流れ”を通す。
――その英雄の剣技は、どこかサラに似ていた。
斬り下ろす瞬間、思わずサラへ視線が走る。
速さも、重さも、同じ“殺気の角度”。
「踏み込め!」
「行く!」
風を巻いた短剣が渦を描き、影の剣と激突。
金属の悲鳴のような轟音、火花、押し合う圧――。
風と瘴気が正面衝突し、圧力の奔流が広間を支配した。竜の遺骨がきしみ、深淵が唸る。
火花が散り、影の刃を伝って黒い靄が逆流する。
「っ、くそ……!」
腕にずしりと重圧。骨が軋む感覚に、視界が揺れた。
弾かれた剣――刹那の隙。
影の返す刃が閃き、空気を裂く音が追いかけてくる。
「受け流して、左下!」
「――っ!」
リアンは身を捻り、風を纏わせた短剣で斜めにいなす。だが衝突は重く、身体が弾丸のように横へ飛ばされた。
岩を転がり、背に鈍痛。肺が潰れ、荒い吐息が漏れる。
(……強い。これが、“英雄”の残滓……!)
紅い鳥が舞い降り、灯火の光で足元を照らす。
銀のツバメは鋭い羽ばたきで瘴気を切り裂き、影の輪郭を削る。
二羽の羽音が円を描く――その“環”が、リアンの心拍と風をもう一度つなぎ直す。
「リアン、戻ってこい。呼吸に」
「……戻った。行ける」
(落下で掴んだあの感覚――押し込まない。回す。繋げる)
影が音を砕くように地を蹴る。
矢のような突き。瘴気の残光を纏った一撃必殺。
「今よ!」
サラの声が背を撃つ。
リアンは迷いを断つ。
足裏から立ち昇る風を短剣へ導く。全身を巡る風脈が胸の奥で熱を孕み、渦を成した。
「――はあああッ!」
正面から迎え撃つ。
風を纏った短剣が渾身の突きを放ち――衝突の瞬間、渦が弾ける。
轟音。風が爆ぜ、広間が一掃される。
影は弾かれ、胸元に裂傷――黒い靄が悲鳴を上げて散った。
「……通った。」
――だが、影はまだ立っていた。
呻きながらも、輪郭は揺らぎ、圧は崩れかけ――それでも、闘志は燃え続けていた。
サラが一歩前へ。金の瞳を細め、口元を吊り上げる。
「上出来。――さぁ、ここからよ」
紅の鳥が炎のように羽ばたき、銀のツバメが鋭く空を切る。
光と風が交錯し、瘴気を押し返す渦が広がった。
黒い影はなお剣を握り、揺らぐ輪郭を必死に繋ぎ止める。
戦士としての執念――英雄の残滓は、倒れを許さず、再び刃を掲げた。
「終わらせる」
リアンは短剣を握り直し、深く息を吸う。
胸の奥で紋章が脈打ち、風が力強く応じる。
(――導く。安らぎへ、必ず)
「導きは断罪じゃない――安らぎだ。」
瘴気と風が、再び正面から衝突する。
瞬間、広間全体が震えるような轟音に包まれ――幕は切って落とされた。




