第75話 『光に溶ける海で』
夜明けの空は淡い紅にほどけ、梢の先で小鳥が透明な音を連ねていた。
リアンはまぶたを上げ、隣へ視線を滑らせる。毛布にくるまったサラは、穏やかな寝息。頬に落ちる細い髪が焚き火の残り香にかすかに揺れ、リアンの胸に小さな安らぎが灯る。
やがて、彼女のまつげがふるりと震えた。
「……ん。おはよう」
「おはよう」
リアンが笑うと、サラも寝ぼけた笑みで返す。金の瞳が朝の色を含み、すっと冴える。
二人は残り火を掻き起こし、湯を沸かす。硬いパンをちぎり、干し肉を温めながら、リアンは封書を広げる。
「……次が最後の依頼だ。海沿いの村」
「なにそれ、最高じゃない!」サラが身を乗り出す。「海! 新鮮! うまい!」
「三語でぜんぶ言ったな」
「要点を押さえるの、得意なの」どや顔。
リアンがくすっとしつつ問う。
「サラ、海は見たことある?」
「あるに決まってるじゃない!」胸を張る。「でっかい。魚もうまい。――魔物もうまい」
「ま、魔物!?」パンを落としかけるリアン。
「海沿いじゃ普通よ。最初は“えっ”ってなるけど、慣れると“おかわり”になるわ」
「おかわりの対象としてどうなんだ、それ……」
「タンパク質は正義」
「リアンは見たことないの?」
「俺はないかな」
朝の光が木漏れ日になってサラの横顔に点々と落ちる。昨日の冷ややかさは影もなく、無邪気な笑みがただそこにあった。重たかったものが、胸の奥で少しだけ溶ける。
──馬車は森を抜け、丘をゆるく越える。
車輪の軋み、馬の息、草いきれ。風が頬を撫で、旅路はどこまでも続く気がした。
「海辺で拾った貝殻ね、光にかざすと内側が虹色に透けるの」サラが語りだす。「夕陽が沈む瞬間、世界が金色の液体みたいに溶けるのよ」
「……詩人みたいだな」
「ふふ、リアンにそう言われるとはね」
「いや、悪い意味じゃない」
「わかってる。褒め言葉として受け取っとくわ」
サラの声は弾み、金の瞳が遠い記憶を反射する。
「波打ち際は光の粒がばーっと散るの。宝石なんていらない、って思うくらい」
リアンは景色よりも、語る彼女の横顔に見入っていた。胸の奥で、あたたかいものが静かに広がる。
ふっと、風に塩の匂いが混じる。
「……潮の匂いだ」サラが小さく笑う。
耳が変わる。ざわ、ざわ、と遠い揺れが大きなうねりに育ってくる。
「来たわね!」サラは身を起こし、胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。
丘の端で視界が抜ける。
果てのない蒼が、空と溶け合って一本の線になる。白波が朝日に砕け、海面は無数の粒を散らした。
「……すごい」
やっと出た声は風に薄く攫われる。
「でしょ?」サラが横で微笑む。「世界が光に溶ける、って言ったでしょ」
リアンは強くうなずくしかできない。波のリズムが鼓動に重なり、身体の内と外が同じテンポで呼吸する。
馬車を止め、しばらく立ち尽くす。
やがてサラが袖を引いた。
「ね、歩こ。浜沿い。貝殻、落ちてるかも」
「紋章の欠片も取れそうだな」
「そうそう。それに――楽しい」
砂はしっとり冷たく、寄せる波が白い泡で足首を撫でる。海鳥の声、潮の香り。朝の青が澄みきる。サラはしゃがみこみ、砂を指で払いながら目を凝らす。
「うーん……意外とないわね」
波が裾を濡らしても気にとめず、濡れた分だけ笑う人。
リアンも目を落とし、砂に埋もれた白い影に気づく。そっと掘り起こすと、薄紅を帯びた螺旋の貝殻。朝の光で虹色を忍ばせている。
「サラ、これ」
「わっ、綺麗!」
子供のように身を乗り出し、両手で受け取って光にかざす。
「内側、ちゃんと虹。……うん、よし。いい思い出になる」
「気に入った?」
「うん。ありがと、リアン」
ふいにまっすぐなお礼。リアンは少し照れて、波へ視線を逃がす。
波音と笑い声が重なり、朝が濃くなる。
(この潮の匂い……あの朝も、たしか――)
サラはふと、そんな記憶の残響を感じたが、すぐに笑いでかき消した。
サラが手を打った。「そうだ――泳ごう!」
「は?」
「泳ごう! 今!」
言うが早いか、装備をぽんぽん砂に置き、靴を蹴って、ひらり。
「ちょ、ちょっと待っ……!」リアンは慌てて背を向ける。「準備ってものがだな!」
「準備は心! いくよー!」
ざぶん、と水柱。銀の髪に水が散り、陽を弾く。サラは波間を切ってすいすい進む。
「ほらー! 気持ちいいわよ! 導き手くーん!」
「俺は……今日は見学で……」
言い訳の薄さに自分で苦笑し、彼は散らばった装備を丁寧にまとめる。
不満そうな声が飛ぶ。「えー! この温度! この塩! 最高なのに!」
「温度と塩で誘うの、やめてくれ」
思わず笑いながら、リアンは小さな焚き火を起こした。
「服、乾かす用意もしとくからな」
「優しい! 好き!」
波の向こうで、軽い冗談が泡になって弾ける。
「言葉が軽い!」
言いながら、耳が少し熱い。
「重たい“好き”は後でねー!」
潮騒に、ぱちぱちと火花の音が混ざる。サラは波を切り、くるりと回って、また手を振る。銀の髪に水滴が星みたいに点る。
リアンはその姿を目で追い、波の規則をじっと聴く。昨日までの重さが、少しずつ水に溶け、引き波にさらわれてゆく気がした。
「ねえ、リアン!」
岸に戻ってきたサラが笑う。「このあと、貝でスープ作らない? 塩はたっぷり、胡椒は控えめ。隠し味は――」
「海魔のダシ?」
「わかってる、成長した!」
ぴっと親指を立てるサラ。
「いや、そこは成長しなくていい」
朝の光が強まり、蒼と白が目の奥まで透き通す。
サラが水平線を見て、唐突に真顔になる。
「ね、リアン。……海ってさ、広くて綺麗だけじゃないの。」
潮風が、髪をさらっていく。彼女の横顔は真剣で、美しかった。
「荒れて、人を呑むこともある。でも――だから、生きてるって思える」
リアンは短く息を呑む。「うん」
「昨日みたいな夜があっても、朝はこうして来る。波は戻る。……そういうの、好き」
一拍の沈黙。風だけが通り抜ける。
「サラ」
「なに?」
「来てよかった。……海も、君も」
「うん。知ってる」
いたずらに、でも少し照れて。サラは貝殻をきゅっと握りしめた。
「もう一泳ぎしてくる!」
「はいはい、行ってらっしゃい。……溺れるなよ」
「誰に言ってるの! わたし泳ぎ、得意なんだから!」
再び波へ跳ねる影。
リアンは焚き火を見守りながら、つぶやく。「……たまには、いいかもな。こういう朝も」
潮騒と笑い声が重なり、時間はゆっくりのびる。
水平線の向こうから光がいっそう満ち、蒼と白が目に痛いほどに清らかだ。
まるで、新しい旅の始まりを告げる鐘が、波の奥で静かに鳴ったみたいだった。




