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『魂を導く紋章師』  作者: nukoto


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第76話 「隣にいる光」

 無邪気な笑い声が潮騒と混じり合い、銀の髪は朝の光を受けて水滴ごと眩しく輝いていた。

 波を蹴る足取りは、子供そのものだった。リアンはその様子を目を細めて見ていた。


 やがて、サラが海から上がってくる。濡れた銀の髪を手でかき上げ、焚き火のそばに腰を下ろす。

 火の温もりに頬をほころばせるその横顔は、さっきまで波を切っていた戦士ではなく、

 ふと、年相応の“女の子”に見えた。


 潮風は柔らかくなり、焚き火の煙と混じりながら二人を包む。

 居心地のよい風が吹き抜け、旅の疲れをそっと溶かしていく。


「リアンも入ればよかったのに」

 サラが火にあたりながら、少し残念そうに振り返る。

「冷たくて気持ちよかったわよ」


 リアンは苦笑し、手をひらひらと振った。

「……また、今度な。風呂とは違うだろうし」

「全然違うわ。波ってね、ちょっと怖いけど――生きてる感じがするの」

 サラはそう言って、小さく笑った。

 リアンはその穏やかな笑みに、胸の奥でほっと息をつく。


「ま、次は一緒に泳ぎましょう。導き手の泳ぎ、見てみたいし」

「いや、それはたぶん沈む未来が見える」

「なら、沈んだら助けてあげる」

「守り手の仕事、増えてるな」

「前からそうでしょ?」

 ふたりの間に、さざ波のような笑いが生まれる。


 やがて二人は馬車に乗り、海沿いの道を進んだ。

 水平線はどこまでも広く、波音は絶えず耳をくすぐる。

 サラはとりとめのない話をしては笑い、リアンもそれに応える。

 そんな何気ない会話のひとつひとつが、確かに旅を豊かにしていた。


 日が傾き、空が橙から群青へと変わる頃――

「ほら、見て」

 サラが窓の外を指差した。


 海が夕陽を映して燃えるように輝いていた。寄せる波は黄金色に染まり、

 遠い水平線は深紅と蒼が溶け合う幻想の境を染めている。


 リアンはその景色に息を呑んだ。

 けれど、次の瞬間――胸の奥で微かな引っかかりが走る。

(――この光、前にも)


 そして横顔に目を奪われる。

 指先で光を示すサラの金の瞳が、沈みゆく陽を映し、宝石のように瞬いていた。


 美しいのは、海か。

 それとも、彼女か。


 答えは出なかった。ただその瞬間、リアンの胸に刻まれたのは、

 “景色”ではなく“隣にいる彼女の存在”だった。


 夜が訪れ、海は昼間とはまるで違う顔を見せる。

 波打ち際は月光を映し、銀の光が脈打っていた。

 潮騒は穏やかで、時折きらりと魚影が跳ね、黒い海に淡い輪を描いては消えていく。


 その幻想に見入っていたリアンは、やがて前方に点々とした灯りを見つけた。

「……村の明かりだ」


 馬車を進めるごとに、灯りは増え、漁具や小舟が並ぶ海辺の集落の輪郭が浮かぶ。

 波音に混じって人々の談笑と焚き火の香ばしい香が満ちる。

 そこには確かに“生きる営み”があった。


 村の入り口には見張りの男が立っていた。松明に照らされた顔は険しくなく、

 どこか安堵に満ちている。

 リアンが事情を話すと、男は頷きながら言った。


「――ああ、瘴気のことか。もう心配いらねぇよ。すでに二人組の方が来て、村を救ってくださったんだ」


「……二人組?」リアンの声が低くなる。

「ついこの間さ。黒いもやを追い払ってくれた。助かったよ」

 村人の声は純粋な感謝に満ちていた。


 リアンの胸にざらりと広がるものがあった。

(先回り……? まさか――)


 だが、隣のサラは表情を変えない。ただ静かに、顎を引いた。

 その横顔が、リアンの胸に不安を落とす。


「とりあえず、村長のところへ案内してくれるか?」

 リアンが促すと、村人は頷き、道を先導した。


 静かな村を抜ける。

 潮の香りと炊き出しの匂い。干された網、笑い声、温もり。

 ――けれどリアンには、その穏やかさの裏に“何かが抜け落ちた静けさ”が見えた。


 やがて、ひときわ大きな木造の家の前で立ち止まる。

「ここが村長の家です」


 二人は互いに目を合わせ、頷く。リアンが扉を叩いた。


⸻


 村長の家は、潮風と焚き火の匂いが染みついた木の建物だった。

 白髪の老人が迎えに出てくる。穏やかな眼差しを湛えて言った。

「遠路ようこそ。旅の方々だな」


 リアンは胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。

「私はリアン・アルステッド。紋章教会から派遣された導き手です。

 この村に瘴気が発生していると聞き、浄化のために参りました」


 老人は少し驚いたように目を瞬かせ、やがて柔らかく笑った。

「……そうでしたか。ですが、その役目はもう果たされておりますよ」


「果たされた?」リアンの声にわずかな硬さが混じる。


 老人は深くうなずいた。

「はい。少し前に二人組の方が来られて、村を覆っていた瘴気をすべて払ってくださったのです。

 そして――こう仰っていました。


 “人は同じ過ちを繰り返す。憎しみは憎しみを呼び、悲しみはまた悲しみを生む。

 だからこそ、清く生きる者を残し、罪を抱えた魂は罰として縛らねばならぬ。

 それこそが、真の導きである”と。


 “偽りの安らぎでは世界は救えぬ。人は、正されねばならぬ”――そう言い残しておられました。

 悪しき者は裁かれ、魂は縛られました。けれど我ら善き者には害はなく、

 むしろ光を授けてくださったのです。」


 喉が乾き、舌の先に鉄の味がにじむ。握った拳の中で革が、かすかに鳴った。

 背の汗が冷える。膝上で震える拳が革手袋をきしませた。

(……導く者、か)


 祈りの調子。そこに、疑いはなかった。


(……魂を、罰に――それを導きと呼ぶのか)

 リアンの胸の奥で怒りが静かに渦を巻く。


 サラは黙ってその様子を見ていた。金の瞳が、焚き火の光を冷ややかに映していた。


 リアンは心の中で呟く。

 ――誰かが“断つ”と決めたのなら、自分は“選ぶ”で立つ。


 村長は深く頭を下げる。

「せっかく来ていただいたのに、もう瘴気は払われてしまって……申し訳ない。

 今夜は泊まっていってください。漁も再開できましたし、魚料理でも召し上がってください」


「魚!」

 その一言で、サラの表情がぱっと明るくなる。

「それはいいわね! 久しぶりにちゃんとした食事ができそう!」

 場の空気がふっと和らいだ。


⸻


 夜。囲炉裏の炭火が赤く灯り、香ばしい香が満ちる。

 木皿の上には、焼き上げられた魚と潮の香り漂う汁物。

 海の恵みが湯気ごと二人を包む。


「ん~っ、やっぱり新鮮なのは違う!」

 サラは頬をほころばせ、夢中で焼き魚をほぐす。

 金の瞳が火の光を反射して、楽しげにきらめく。


 リアンも箸を動かしながら、思索に沈む。

(……村人にとっては、あれも“救い”なんだろう。でも……魂を縛るなんて)


 サラがちらりと横目で彼を見る。

「考えすぎ。いろんな“導き”があるわ。全部が正しいとも限らないし、全部が間違いでもない」

「……でも、魂を力にするなんて――」

「わかってる。けどね、あんたがそう思うなら、それでいいの」


 サラはひとつ息を吐き、炎の高さを目で計るように間を置いた。

 そして、火を見つめたまま言葉を続ける。


「迷っていい。悩んでいい。でも、最後に進む道は自分で決めなさい。

 あんたの“導き”は、誰にも奪えないんだから」


 リアンはしばし黙り、炎のゆらめきの向こうで小さく息を吐いた。

「……そうだな」


 サラは返事をしなかった。

 ただ、火の光が彼女の横顔をやわらかく照らし、唇の端がほんの少しだけ、緩んだ。


 外では波が寄せては返り、やわらかく二人を抱いた。


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